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2012年8月25日 (土)

『文部省(文部科学省)教育の犠牲者プロトタイプとしての現大阪市長=橋下徹』1

「近代化」とはいったい何でしょうか。
手近なところでネットで三省堂の大辞林を引いてみたところ、「合理化・科学化・民主化」をキーワードとして挙げていました。
確かにそれはそれでその通りなのでしょうが、私ならキーワードとして「一般化・共有化・平準化」を挙げようとおもいます。
言わんとすることは、三省堂辞書の執筆者と似たようなことではあります。「合理化・科学化」は「一般化」ですし、「民主化」とは「共有化」であるとともに「平準化」ととらえることができます。
私の考え方は、自分の生活実感から、「近代社会」に生きていて良かったなと思う時の「近代化された社会のポイントとは何か」と問うたところから導き出されたものです。
そして、この社会の「近代化」を形成する根幹を担っているものこそが「学校教育」というものに他ならないでしょう。
では、その「学校教育」というものの一般的利点とは何でしょう。
漠然とした問いのような印象もありますが、「学校教育」の対概念である「私教育」と対比しながら考えれば分かりやすくなるような気がします。
「私教育」では多くの場合なし得ない「学校教育」の利点とは、「網羅的」であることだと言えるのではないでしょうか。簡単に言い換えるのならそれは「百貨店的」であるということで、そこに行きさえすれば欲しいモノがそこにあるように品揃えがあらかじめ入念に検討されて準備されているということです。
こういう要素は、専門分化する以前のいわゆる児童・生徒(6歳ぐらいから15、6歳ぐらいまで)には極めて重要な要素なのだと言えるでしょう。
では、私たちは自分の受けた学校教育を振り返ってみて、その「網羅化」は果たして十分だったと自信をもって、あるいは満足感とともに言うことができるでしょうか。少なくとも私には言うことができません。
また、専門分化して以降も、「学校教育」を掲げる限りにおいて「網羅的」という要素は重要なものであるはずなのですが、日本の高等教育におけるリベラルアーツ教育のお粗末さはひどいものというのは今やデフォルトで、いわゆる先進国標準の知識専門人と日本のそれとでは、専門分野以外における「社交」としての会話がまともに成り立たないケースさえあると言います。
さらには、専門教育も中途半端なため、諸外国では修士以上のまさにエリートが担っている職域を日本ではいわゆる“高級官僚”をはじめとして単なる学卒が担うことになっています。
もちろん、単に学歴ばかり高ければ良いというものではありませんが、しかしいったいなぜこんなことになっているのでしょうか。
私自身のことを言いますならば、自らの来し方を思うとき、日本の「学校教育」というものの「不自然さ」「よそよそしさ」「形式ぶり、格式ばり」というものにとことん辟易して来ましたし、「自分の学びたいものが学べない」という意識をずっと持ち続けて来ました。
今になって思いますなら、近代の「学校教育」とは「網羅的」であるべきはずなのに、日本の文部省は学ぶ側のニーズに応えるだけの能力を設立以来有したことがなかったと結論付けざるを得ないのです。
それもそのはず、文部省の官僚など他の省庁同様、ただの「日本=学校教育中途エリート」が、自分の受けた教育に何の疑問も覚えず疑念も差しはさまず、安穏と前例踏襲してきたに過ぎないものだからです。
そういう人々が担って来てしまった日本の「学校教育」には欠落要素が多過ぎるのです。それは、言い方を変えれば、「教育の貧しさ/教育の貧困」であり「貧相な教育」ということに他なりません。
売り手側が貧相過ぎて、あるいは鈍感過ぎて、買い手側に強い需要があるかも知れない商品のラインナップすらまともに提供できない……これは、まったくもって滑稽であるとともに社会的貧困の表象とみなすしかありません。
私たちの戦後が商売に大成功し、「一億総中流」というような社会を形成してもなお、私たちが欠落感覚/貧困感覚を払拭できなかったのは、なぜなのでしょうか。
それは「網羅的」という要素が欠落した私たちの「学校教育」に大きく由来している部分があるとみなさざるを得ません。
もう一度、冒頭の「近代化」というものの要素を思い出してみます。
三省堂辞書執筆者は「合理化・科学化・民主化」の三つの要素を掲げていました。私は自分なりに「一般化・共有化・平準化」という要素を考えてみました。
しかし、日本の「近代化」にあって、日本の為政者らに欠くことの出来ない要素として恐らくみなされたと思われるものは「欧化(欧米化)」、戦後にあってはとりわけ「米化」だったのです。
その結果、「学校教育」は「近代化」の緒要素の普及と促進というよりも、「欧化(米化)」という本来の「近代化」の要素とは無関係な要素が優先事項となってしまい、「欧化(米化)」というフィルターを通して「近代化」するという“コース”を確立させてしまったのです。
これは、明治維新というものを担ったのが中央から遠く離れた周縁地域の下級武士階級であったという、確かに武士階級のプリンシパル(武士道的な要素)を体得していたがゆえに、事変に際しての立ち居振舞いは立派だったとはいえ、日本文化のメインストリーム及び庶民大衆の民俗文化については、とんと無教養だった点が大きく影響していると思います。
戦後の日本は、主として「米国」によって「過去の日本は全て悪い日本である」というようないわゆる「東京裁判史観」「自虐史観」を植え付けられ、米国製プロパガンダに便乗して「これに反対しようとする者は右翼/軍国/国粋主義者である」といった当時の“インターナショナリスト”のプロパガンダが強い影響力を保ち続けました。
言うまでもなく軍部台頭以降の日本政治は、その要人の暗殺史をひもとくまでもなく、異常な状況下に陥っていたわけでありまして、その一時期を取り上げれば肯定出来る要素はほとんど見当たらないと言えるでしょう。
しかし、その一時期をもって、(初期)近代日本の全否定をした上で、やみくもな「米化」ばかりをのこのこと受諾するのは、近代日本の〈初期設定〉におけるより大きな失敗をベールで覆い見えなくさせてしまうものです。
戦後日本人は、戦前日本を「封建的残滓」などと、自分が突然スマートになったかのように思い込んでは否定してみせたのですが、実は、明治維新の田舎下級武士たちも、「欧化」によって「徳川封建制」をことさらに否定してみせたのであり、それは(今だからこそ言えることではありますが)戦後日本を席巻した「進歩主義者」らと構造的に同型の側面が多大にあったことを否定できません。
彼らの日本文化のメインストリーム及び民俗文化に対する無教養は、諸政策に反映され、当然のことながら「学校教育」にも反映されることになります。

(この項つづく)

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コメント

日本の学校教育ではcivilize(教化する),disciplin(訓練する)ことを重点とする教養教育が明治以降の急激な近代化促進の過程での主流だったのか,また,いわゆるテクニカル・アーツに libertyを求めないことを王道として維新がおこなわれたのかとも考えます。 阿部謹也が晩年,『「世間」とは何か』や『「教養」とは何か』で,課題として提出してきた論考は,未整理のまま残されていますが,この記事は,そこに深く斬り込んでいく言葉が秘められているとおもいます。阿部謹也『大学論』p.182には「社会の合理化とは、個人の尊厳と権利を十分に尊重しながら、社会全体の安定と進歩をもたらす道を模索することである。」とありますが,いまだこういう発言が日本では建前としてしか通用せず,小沢一郎だけがここに本質的に迫ることができていることを,なぜ人びとは分からないのかなあと嘆息。
そして,「教養」とはculuture も education も sophistication も foundationも含まれるとおもうので,膨大にかんがえを巡らせ続けなくちゃならないのでしょね。またまた蛇足ですが,8月18日雑誌『現代思想』(青土社)の創刊40周年記念トークイベントで,大澤真幸氏も「教養」についても一部言及していました。1000円分は楽しめました。Daily Cafeteriaでたくさん楽しみを見つけることができて感謝しています。


投稿: 植杉レイナ | 2012年8月26日 (日) 13時49分

辻褄を合わせて語ることができなければ、国内外の社交も外交も実のあるものにはならない。
実況放送・現状報告のたぐいの話だけでは、人は心を通わせることはできない。「それで、どうした」の問いに対する答が必要である。
その答えは、実況放送・現状報告の延長線上には存在しない。未来構文という次元の違った構文の中にある。
日本語には未来構文がないので、話はあくまでも現在構文の中にとどまる。すると、歌詠みのようなものになる。無為無策でありながら感情に訴えることになる。
空理・空論であるから、何事も起こらない。現実の世界を動かすことはできない。

教育には金がかかる。だが、無知にはもっと金がかかる。
日本人の大きな間違いは、日本にいても英米の高等教育と同等なものが受けられると思っていることである。
日本は、自国語で教育を全うできる ‘たぐいまれな国’ であると思い込んでいるようだ。
英語と日本語は別の言語であり、日本語で英語の考え方を学ぶことはできない。

そのような教育の事情を深く理解している結果かどうかは知らないが、中国の富裕層の85%は、自分たちの子供を海外で教育させたいと思っている。
アメリカの大学の留学生の22%は中国からであるという。次にインド (14%)、韓国、カナダ、台湾 (3%) と続く。日本は、五指にも入らない。
はたして、我が国は教育の満ち足り足りた国なのであろうか。このところ、国力は下降線をたどっている。
我が国は、英国、仏国、ドイツなどと同じような国であると考えられているのであろうか。

中国から米国に留学して成功して有名になった人に宋三姉妹 (three Soong sisters) がある。
特に宋美齢 (Soong May-ling) は英語に堪能で、ヘミングウェイに ’中国の女王’ (empress of China) とまで褒められた。
彼女は、有名な大学 (Wellesley College) を優秀な成績で卒業した。主専攻は英文学、副専攻は哲学であった。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/


投稿: noga | 2012年8月31日 (金) 02時37分

noga様、コメントありがとうございます。
私は、融通無碍にして表現多様性に満ちた日本語が大好きですので、お説にはなかなか同意しかねる面があります。
ただし、日本人の多くに日本語に対する客観視あるいは比較言語学的視点が欠如していることは感じます。
例えば、新聞(報道)の用いている文体は客観めかしていますが、非常に問題のある文体だとおもっております。
どこがどのように、という点までは掘り下げていないので、今ここで述べることは出来ませんけれども……

投稿: にいのり | 2012年9月 2日 (日) 17時02分

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