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2012年8月31日 (金)

『文部省(文部科学省)教育のプロトタイプ犠牲者としての現大阪市長=橋下徹』3

さて、現大阪市長にして“法曹ムラ”の一員でもあるところの橋下徹という人物が、慢性赤字に陥っているらしい大阪市の財政状況の改善の一助とするために…かどうか本心は分かりませんが…大阪が発祥の地とされている「文楽」の興行関係を一手に担っているらしい『文楽協会』に目をつけ、協会に対する補助金のカットだか全廃だかに向けて画策をしているとのことです。先日は、自身で「文楽」を鑑賞し、(新聞屋の報道が事実だとすれば)「人形劇なのに(人形遣いの)顔が見えるのは腑に落ちない」との発言をしたとのことです。
観客の前でライブをやってみせる表現全般は、作者と演者が異なる事が多いですし、現実問題として作者一人が演者を兼ねようとしても物理的に不可能なものがほとんどのはずです。
したがって、ライブ表現は「原作者」という表現者と「演者」という表現者の共同作業の場であるとともに対決の場でもあり、それを鑑賞するにあたっては、作品への評価と演者への評価とが別個になるのは当然でしょう。
(もちろん、最終的には作品及び演者を含めた総合評価という形になるのでしょうが……)
また、ライブを行うタイプの表現は、まだ誰も鑑賞したことのない「新作」を世に問う場合と、既に一定の評価を得た原作を繰り返し上演する場合とがあります。
一般的に前者であれば、まずは「新作」の作品としての出来映えが優先的な評価対象になるでしょうし、後者の場合なら主に演者の出来、あるいは演者と作品の関係性及びその総合的出来映えが評価対象になるでしょう。
特に音楽でも演劇でも「古典」と呼ばれるような、既に原作における高い評価が定まり、多くの演者が同一の演目を繰り返し上演してきた場合、評価の対象は、演者がいかに原作の質に迫り得たかといったことになでしょうし、そこに「古典」を現代において再演/再現することの醍醐味が生じるはずです。また、そうした絶対的評価とは別に相対的な評価もいわゆる“通”の重要な楽しみの一つになります。
モーツァルトの交響曲をウィーンフィルが演奏する、大阪フィルが演奏する……演奏者の技量ももちろんのこと、そういう場合は指揮者(統率者、プロデューサー)は誰かというのも大切な評価対象です。
物理的な「音出し」ということだけで言えば、音楽を奏でるのはあくまでも演奏者でありその意味で指揮者は「黒子役」には違いありません。
しかし、全般的な評価という点から言うと、指揮者が原曲(楽譜)をどう読み込み解釈し、それを楽員らにどう伝え、どう演奏させたか、そして、楽員らは指揮者の意図にどう応えたかを奏でられた「音」を頼り様々な想像力や推理力を巡らすのも聴き所になるのであり、その上で最終的に演奏作品としてどのようなレベルに達していたかということを私たちは味わっているのでしょう。
だからこそ、(特に「古典」の場合)同じ作品を何度演奏しようと、観客はその都度大いに楽しむことができるわけです。
人形劇の場合、人形もヒトガタ、操作者もヒトガタのわけですから、素朴に考えれば操作者が目につくのは煩わしいというのも当然な面はありますが、しかし、今述べましたような要素を加味しながらより深く楽しみたいという欲求が強まった場合、いったい誰が操作しているのか、もう顔出しして見せてくれという要求が強まるのも良く分かります。
ヒッチコックは、自分の監督作品には必ず自ら出演していました。これも顔出し効果の一つでしょう。(映画の場合は誰もがやるべきこととは思いませんが、ヒッチコック映画の場合、ヒッチコック本人を見るのも楽しみの一つで、その他にも仕掛け満載、遊び心満載のヒッチコック映画というのは何度見ても飽きません)
これは、ライブパフォーマンスの一つであるスポーツにしても同じことで、チームスポーツはもちろんのこと、例えばマラソンのような個人競技であっても、例えばQちゃんが素晴らしい走りをした、この娘を育てたのは/指導したのは誰だということで、一般的には「黒子役」に徹している監督に注目が集まり“顔出し”をする、というように。
それにしても私はどうしてこんな当たり前のことをこんなところで長々と説明しているのでしたっけ。あ、そうでした。我が国の“エリート”の一画を占めているはずの“法曹”にして政令指定都市の市長様兼日本の政治構造の刷新を期待されている“大物政治家”が、あろうことか文楽を見て「人形劇なのに(人形遣いの)顔が見えるのは腑に落ちない」などという発言をしたからでした。
その市長は懲りずにもこんなことも口にしたのだそうです。
「『曽根崎心中』の脚本は昭和30年に作られたそうだが、ラストシーンがあっさりしすぎ。ファン獲得のために演出を考え直すべきだ」
……いろんな意味で絶句すべき発言と言わざるを得ないでしょう。
『曽根崎心中』が昭和30年に作られたはずがありませんが、それはおいておくとしても、為政者(権力者)が表現の内容に軽々しく口を挟む異常さについては言うまでもなく、更に驚くべきはここには「古典」への敬意が完全に欠落していることです。
ウィーンフィルの演奏するベートーベンの『運命』を聞いたウィーン市長が、「『運命』の出だしは低音が強く深刻過ぎて、あまり現代的ではない。最近の客離れを防ぐためにもっと軽快な雰囲気で演奏したらどうか」などと言ってしまったとしたら、いったいどんなことになるでしょうか。
これは演者側が(例えばグレン・グールドのように)覚悟と信念と責任をもって改作する、あるいは改作に近い解釈をするのとは、まったく別個のことでしょう。
結局、日本の「文部省(文科省)」の“想定”した狭量な/哲学なき/上滑りの/非=有機的な/殺伐とした〈囲い〉の中で飼い慣らされ、唯々諾々と“想定コース”の中を歩いて来てしまうと、表面ではいかに“改革者”を気取ってみたところで、こんな人間が出来上がってしまうのだという見本であるとともに犠牲者であるところの最も良く顔を知られた人物を、私たちはリアルタイムで目撃していることになります。
もちろん、教育行政がいかに準備万端整えたとしても、一人の人間に全てを教授することなど不可能なことぐらい当然過ぎるほど当然なのですし、頭脳明晰で記憶容量が著しく高い“エリート”の一画を占めるべき人物であっても、全てを習得/修得することなど絶対に不可能なのも当然のことです。
私が指摘しているのは、大阪市長の「無知」の悲惨ではありません。自らが「文部省教育行政」の犠牲者であるにも関わらず、それを自覚しないまま/できないままで、自らの優越的立場を背景として分野の無知に開き直っている幼稚な悲惨さを指摘しているのです。
「文部省(文科省)」は、自らの無知の範囲にある分野についての〈畏れ〉を決定的に欠くような、ある意味で自分たちの“似姿”が増殖するに任せるような行政を平然と行い続け、それを“業”としてしまった結果、自らの出自に対して裏切りをもって報いるような人物や現実を蔓延させてしまったのだと言えるのではないでしょうか。
自国文化を満足に“近代化”することも出来ない行政が、どうして他者の“近代化”の成果を自家薬籠中のものとすることができるでしょうか。
そういう役人も役人なら、そんな役人の「学習指導要領」とやらを唯々諾々と遵守してみせる教師、教授層、そんな人々の授業を唯々諾々と受けながら、“おべんきょー”だけはしてしまい、やがて強迫的な“上昇志向”のみを徒らに膨らませるだけ膨らませて鼻高々になってしまう欠陥“エリート”の群れ。
この〈唯々諾々性〉の連鎖の中にある典型的人物が「官僚支配の打破」などと意気がったところで、何かできるはずもありませんし、何かするとすれば、「口パク検査」だの「刺青検査」だの自分が一生懸命勉強したはずの法理念の枠を安易に逸脱してみせる三歳児並みの“反抗期行政”に過ぎないのは既に披瀝/実証済みです。
なんというかわいそうな現実なのでしょうか。これでは、くだらないお笑い台本そのものではないですか。
まさに「文部省」謹製の“人形”が今こそ出番とばかり、精一杯背伸びをしながら自らの立つ土壌を荒らし回ろうとしている図であり、このような財政/教育/文化の全面的破綻を準備してしまったものこそ我が国の教育行政であり、ひいては行政一般なのだとしか言いようがありません。
思えば、大阪の地は、堺を中心として、貴族文化でもない武家文化でもない、町人文化をまさに花開かせた本拠地でした。
当時の織田家をはじめとする新興御家人諸家は、積極的に町人文化を武家文化の中に取り込んでみせることにより、経済的にも文化的にも飛躍的な向上を果たしてみせました。
今日の「和風文化」はいずれもこの時代の町人文化の勃興なくして語れないもののはずであり、もし大阪が教育行政の大改革をするのなら、「文科省」のせせこましい「学習指導要領」などなんのその、茶道をはじめ(人形)浄瑠璃から、陶芸から三味線から何から何まで「学校教育」にぶちこんでみせれば良いのです。
現大阪市長は、せこ過ぎる綱紀粛正みたいなことばかり言っています。全然話しになりません、やるべきことがまるでアベコベだ。
「学校楽市楽座」これで行きましょう(笑)。
〈禁止〉ではなく〈育成〉です。
そうすれば、「学校」で学んだ人形浄瑠璃に飽き足りない者の中から、商業的にも大ヒットになる新たな人形浄瑠璃を表現してみせる奴が現れるかもしれません。
初音ミク浄瑠璃とかやって喝采される奴が出てくるかも知れません。
それはそれでよいではありませんか。そうなってはじめて「古典」は本当の危機感を覚えることでしょう。
極論ついでに言ってしまえば、大阪市長は、『維新の会』のブレーン気取りの皆さんには全員「黒頭巾」を着用するよう要請してみたらいかがでしょうか。
そうすれば、自身が、操ってくれる者がいなければただ横たわっているしかない“人形”でしかないことが少しは自覚され、首相野田佳彦のように、責任が大きくなればなるほどそれに比例して、自らの言、また自らに期待してくれた国民のその期待を裏切る度合いが高くなるという恥ずかしくも重大にして重篤な失態を反復せずに済むようになるかも知れません。

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コメント

産経ニュース2012.7.28によると,橋本市長は,さらに「人形劇なのに人形遣いの顔が見えると、作品世界に入っていけない」とも発言したそうですよ。
「人形=野田,黒衣(人形遣い)=官僚」くらいの想像力は彼にもあろうかと。つまり,国政にあっては,黒衣が見えないほうがいい,見えない官僚に操られるのが本望だよって,無意識に発表しちゃったのかもね。

投稿: 植杉レイナ | 2012年9月 2日 (日) 04時04分

植杉さま、ありがとうございます。
今、政治の表層においては、「脱藩官僚」vs「守旧官僚」の争いみたいな構図がありますが、非常にうさんくさいですネ。
真剣に対立しているのか疑わしいですし、仮に主観的には真剣であっても、その対立にあっては「国民不在」がデファクトであるのは間違いないでしょう。
所詮は、どちらが「国民」を駒としてうまく使いこなすのかという思い上がった争いに過ぎず、一時期の不毛な自社対立(55年体制)の似姿に過ぎないと思われます。
私たちは、こういう1%の連中の主導権争い/つばぜり合い/縄張り争いに過ぎない対立の不毛性をもっと冷めた/醒めた目でみるべきですね。
やつらが、私たちの役には立たず、私たちに何の恩恵ももたらさないことはあらかじめ分かり切ってます。
メディアの連中は、自分たちが1%の側だと主観しているために大興奮なのですが、本当にダメな/お下劣な者たちです。
私たちは、彼らの興奮を一切容認しない姿勢を保ち続けるべきであり、自分も1%の中に入ったかのように錯覚して「競馬予想」のようなものに煽られないことが大切だと思います。
まぁ、しかし、“賭け事”というのは、人間を自ずと興奮させる麻薬性をはらんでいますから、なかなか本気で期待もできないのですが……。

投稿: にいのり | 2012年9月 2日 (日) 17時29分

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