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2012年9月20日 (木)

『言語にとって信用(の喪失)とは何か。(言語の生死をめぐって)』1

始めから端的に言ってしまえば、任意の言語/単語/用語における信用の喪失は、意味の希薄化、すなわち意味の無意味化、無価値化として現象するということができるだろう。
それはだから、〈意味のハイパーインフレーション〉と呼んでも良いのかも知れない。
いったん貨幣のハイパーインフレーションが起きてしまうと、昨日は200円で買えたハンバーガーが、明日になれば800円になり、あさってになれば2600円になるといったような、そんな信じがたいことが起こり得る。
貨幣のハイパーインフレーションがなぜ怖いのかと言えば、そんな貨幣価値の猛スピードの下落によって経済の信用秩序の崩壊、つまり経済制度の基礎がガタガタになってしまうからだろう。ハンバーガー屋のハンバーガーの価格表にも〈時価〉なる表示をしなければならなくなるほどの貨幣価値の下落は、貨幣の有用性の猛スピードの下落であり希薄化だ。
「ハンバーガーが時価だと?客をなめているのかふざけるな」と極端に短気で粗暴な人間なら店先で暴力沙汰に及ぶかも知れないし、少し気の利く者ならいち早く物々交換なり外貨による買いだめなどを開始して、当面の食糧や生活物資の確保に走るかも知れない。
ハイパーインフレーションとは、そのように昨日までは頼りになった(価値を有していた、価値の指標として機能していた)はずのオカネが、まるで頼りにならない/意味のない/役立たずの紙屑に近いものになってしまうという秩序崩壊、制度崩壊の一つの形といえる。
しかしこの、それが数字の記されている貨幣であるがゆえに実はひどく分かりやすい面もある秩序の崩壊/制度の崩壊という事態が、現実にはあらゆる分野において生じ得る可能性があるということについて私たちは感性を働かせているべきだろう。
当然、その中には言語あるいは文化、生活といった分野、あるいはそれらを包括する共同幻想の領域も含まれ得る。
為政者が、あるいは然るべき地位/立場の者が、または専門家を自認する者が、それこそ三百言、三百万言を費やそうと、あるいはそうする必要に駆られれば駆られるほど、彼らの用いる言語の意味が無意味化し希薄化し、やがて反転にすら至る……そういうことがあり得るだろうし、実際、現代日本において生じつつあるのはそれに近い現象ではないか。
〈意味のハイパーインフレーション〉……それは、意味の希薄化、無意味化を経由して意味の反転に至るだろう。
ハイパーインフレーションといった超スピードの現象ではないが、意味の希薄化から意味の反転を起こした分かりやすい日本語の例としては、「あはれ(なり)」という言葉があげられようか。
この言葉は、「ああ・あな」といった感嘆詞から派生した言葉だということだが、原義的には「思わず、あぁと感嘆/嘆息してしまいそうなしみじみとした感動を表す」語であり、もう少しくだけた言い方をするなら「ひとりでに涙がこぼれそうになるほどグッと来た時の気持ち」を表す語として用いられてきたものだろう。
「あはれの文学」と呼ばれる『源氏物語』では状況に応じて多彩な意味を内包する「あはれ」の語が用いられており、今日の用法に通じる「かわいそう、気の毒だ、惨めだ」という訳語をあてた方がしっくりする用法もあるようだが、基本はあくまでも「しみじみとして心が惹き付けられるような、思わず落涙しそうになるような心象」を表そうという時に用いるべき言葉だった。
それが今日主として用いられるようになった「あわれ」(=哀、憐という漢字をあてられ、惨という語感に近い意を表す語)となったのは、〈意味のインフレーション〉により、意味の希薄化が意味の反転にまでいたっている典型例と言えるだろう。
より大規模で、人為的な/政治的な意味の意図的反転は仏教用語でも起きている。
徳川幕府の(現代からみた)最大の失点は、仏教に対するソフトな弾圧政策にあったと言えるかも知れない。
朱子学者を政権内に取り込み、朱子学を官学化することによって、徳川家は家と幕藩体制の永続化を図った。
一方で武家はもちろんのこと庶民階層にまで相当程度浸透し、当時の政治権力にとって脅威化していた仏教思想は、今日の認可法人のように寺院等の運営を政権の完全管理下に置かれる一方で経営の安定化/安楽化を施されることにより、宗教組織としての腐敗化が促進され、やがていわゆる“葬式仏教”として形骸化した無惨な姿をさらし続けることになる。
そのような流れの中で、庶民の間では、本来仏教の真理を表しているはずだった種々の仏教用語は、意味の希薄化と反転化をたどることになり、世俗的な利害関係にのみ密着した、あるいは軽蔑と反感の意の込められた言葉として用いられるようになってしまった。
つまり、江戸300年の中で、仏教用語は仏教に対するソフトな弾圧政策の結果、意味のインフレーションを起こし、やがて意味の反転を引き起こすまでに至ったことになる。
例えば仏教用語における思想性を内包する語ではないとはいえ「僧侶」の別称としての「坊」「坊主」という呼称は今日では主としてどんな意味を担ってしまっているか。
聖徳太子が「三宝を敬いなさい」とした「宝」の一画は、あざけりや軽侮の意を込めずに用いられることはほとんどなくなってしまっているのが実情だ。
既に徒然草の時代においてさえ大っぴらに揶揄されているとはいえ、特に江戸時代以降、僧侶の実態に対する庶民の間にも積み重なってきた軽侮の念が、意味のインフレーションを引き起こし反転にまで至ったものだとみなせる。
同じようなことは、現代においても絶え間なくしかも速度と頻度を増して生じており、いくつかの用語を用いて言論を形成しようという時の、発話者と受け手の齟齬、行き違い、不疎通、解釈の混乱が、本来あるべき言論と議論の形成を妨げるほどにまで至っている。
例えば、端的に「右翼」「左翼」という言葉。
もはや、その語における意味の内実はほとんど雲散霧消して/希薄化して、まともな言論の中で用いられるべき用語としての適格性を既に欠いている。
少し言語学めかして言えば、シニフィアンとシニフィエの対応関係/対照関係に混乱と錯誤と逸脱が生じて、適切な文脈の中で用いられるのに相応しからざる単語になってしまっている。
同じようなことは「官僚」「役人」「先生」などといった語にも生じており、もう少し抽象度の高い「自由」「責任」「民主」といったいわゆる近代社会を形成せしめているとされる理念語の多くに「意味のハイパーインフレーション」が押し寄せている。
(この項、つづく)

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コメント

<意味のハイパーインフレーション> というところまで考えるって,すごいなと感心したのですが,2010年5月31日 (月)の記事 『我が国の哀しい《言論》水準』 などでも言葉や言論について丁寧な思考を重ねられていらっしゃいます。
 世界中の国名でも民主主義とか人民とか社会主義人民とかテンコ盛りの所ほど,なんか中身チガッテルヨネエ・・・って常々苦笑。 松竹映画『男はつらいよ』って,あんまりオトコらしくない感じの主人公がぜんぜん辛くない生き方していたし,今さら「維新」とかってのもちょっと冷笑ものですしね。だいぶ話を混ぜっ返しました御無礼お許し下さいね。

投稿: 植杉レイナ | 2012年9月22日 (土) 15時44分

植杉さま、お目通しありがとうございます。

全然、混ぜっ返しでもなんでもなく、まったくおっしゃる通りです。
わたし、経済学は、欲望に敗北する人間の“失敗の学”“失敗する学”として有用なのではないかと考えていまして、そういう観点からみると、いろいろ使える概念が満載なのではないかと。
ただ、自分自身深い学識と呼べるようなものはもっていないので、ひらめき的アイデアをちょっとかっこつけて書いているだけです。
そういう考え方もあるかもねと、読む方が面白がってくれれば、わたしとしては幸いなのです。

投稿: にいのり | 2012年9月22日 (土) 16時22分

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