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2012年9月11日 (火)

〈(精神的に)救済されるべき対象〉としての現大阪市長・橋下徹

『維新がどうした』の動きについて、「騒ぎ屋」たちが飽きもせずによってたかって大騒ぎしており、その「騒ぎ屋」たちの住む世界と全く同期しない世界に住み始めた多くの人たちがその様子をうんざりした様子で眺めている。
「騒ぎ屋」世界に住む人々のこの手の無駄に虚しいエネルギーをもっと他に割き得る“効率的な”システムこそ日本には必要とされているのではなかったろうか。
タイトルに示した通り、〈救済されるべき対象〉に“救済”を求めても何も得られるはずがないのであって、〈救済されるべき対象〉については、私たちが〈救済する側〉に回らない限り、事態は改善するはずもない。
前回簡単に見た通り、本来「再教育」が施されるべき存在(の典型であり象徴)である現大阪市長・橋下徹が「教育改革」を口にすること自体が滑稽きわまりないのであって、そういう自らの滑稽な哀れさを他人にも押し付けたくてたまらないタイプの人間というのは、結局どんな失敗(=裏切り)を為したとしても、その“失敗”はルサンチマンを晴らすことがかなわなかったということを意味するに過ぎず、すなわちそこにはあるべき罪障感が欠落しているため、「責任」という概念も当然そこには生じ得ない。
彼のような人物にもっとも相応しい手段は、今ここにこのようなことを記している私と同じように、「ボクがこんな人間になっちゃったのは、日本の教育がおかしいからですよ」とツイッターあたりで愚痴を述べ続けることだ。実際、彼はツイッターの中で最も生き生きしており、また、主観的万能感に満ち溢れている。つまり、彼は〈救済されること〉を誰よりも切実に希求している。
そういう(時には逆説的に奇妙な能動性を示してしまう)哀しき教育犠牲者の愚痴を的確に吸い上げて、彼の口から妙な愚痴が吐き出されなくなるよう然るべき政策を責任と不可分の形で実行するのが/できるのが本来的な為政者という者の姿だろう。
残念ながら未来の橋下徹は、既に現首相野田佳彦によって先取りされてしまっている。
したがって、彼が万が一の確率で権力を手中にした後になすこと全てにおいて、私たちに既視感を覚えさせられる以上の/以外のことは生じ得まい。
そのことに私たちはもう気付く必要がある。これ以上の既視感の中で過ごすことにうんざりしているのであれば。

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