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2012年9月23日 (日)

『言語にとって信用(の喪失)とは何か。(言語の生死をめぐって)』2

言語における「意味の無意味化、意味のハイパーインフレーション」が蔓延化すると、最も怖いのは、議論が議論として成立しなくなること、また何よりも、法を法として機能させることが困難になっていくことだろう。
言語も貨幣も、本来的には/本質的には、コミュニケーションのための媒体なのだろうが、〈媒体のハイパーインフレーション〉が起こり、そこから〈信用〉が喪われるなら、社会は、東浩紀の用語を借りれば“動物化”して行かざるを得ないのではないか。
カネが家の中を埋め尽くすほどあっても何の役にも立たない、言語が三百万言、三百億言あろうとも何の意味をもなさないとなれば、私たちは“動物”のような生のスタイルを選択せざるを得なくなっていく。
“動物化する社会”とは、“人間社会”では常識の範疇である、貨幣が(交換)価値を持つ、言語が(共通の)意味を持つ、法が(最低限度の)倫理として機能するというような“人間社会”を“人間社会”として成立させている(自己同一的な)〈信用〉が喪失していくことと同値だろう。
“本能の壊れた”人間にとって、そのような“動物化”は究極においては種の崩壊が暗示されるほかない。
もっとも(あらかじめ“ ”でくくっておいたように)、この“動物”という語自体が、既に「意味のインフレーション」に冒されており、例えば、(当ブログで何回か言及しているが)“合理的”という意味で言えば、“動物”は“本能”と呼ばれる即自然的な“合理性”を予めビルトインされているため、実に“合理的な生”を営んでいる。とりわけ昆虫、なかでも蟻や蜂などは“最も合理的”な集団生活を営んでいるのは間違いない。とすれば、“動物化”から“昆虫化”へと至る社会のほうが“人間”にとって選択すべき必然的な道なのだという解釈が発生する余地もある。
人間とは、言語や貨幣という必ずしも“合理的”ではないかも知れない、しかしコミュニケーションの飛躍的向上を可能とするツールを手にすることで、個体の多様性、多様であることの内にある“幸福”というものを手にした“動物”ではなかったのかとも思うのだが、“合理性”を至上価値とみなす人々にとっては、どうもそうではないらしい。
自らを、あるいは自らの周囲の人間を「経済的合理主体」と呼ぶことは、「私及び、私たちは昆虫種です」と宣言しているのに等しく、本来的な言語の意味内容からすれば、自らに対するまた自らの家族や仲間に対する大変な侮辱ではないのかと私なら考える。にも関わらず、そういうことを嬉々として口にする人々は、自らを侮辱し侮蔑し貶めても平気なようなのだ。
なぜなのだろうか。
良くは分からないし、分かりたくもないのだが、可能性としては三つほど考えられる。
「自分たちは昆虫が大好きで大好きで、いつか昆虫のように生きたいと願い、あるいはなぜ昆虫として生まれて来なかったのかと日々慨嘆している」
「昆虫(的存在)を神と崇める、一般的人間にしてみると“人間種の死”を望んでいるのではないかとも思われる“合理性カルト”を信仰し、その信仰の深化と布教への欲望で、いわゆる我を失ったような/亡我の/恍惚の状態にある」
「〈経済的合理主体〉という言語に用いられている〈経済〉〈合理〉〈主体〉といった一見しかめつらしくも重要とみなさざるを得ない語が、もはや〈意味のハイパーインフレーション〉に冒されており、コミュニケーションのツールとしてほとんど役に立たないような学問的危機、精神的危機、社会的危機がその背景には横たわっている」
我が国では(一応我が国もG7とやらに名を列ねる“先進民主主義国”らしいのだが)、原発事故当時、時の政府/内閣官房長官が、「直ちに〜ない」という副詞句を多用して連日の会見を行ったことを思い出そう。
「直ちに〜ない」可能性が高いからといって、国民の生命と財産を守ることが至上の命題たる“国民国家”の政府部門が、しかし何ら有効な対策を立てないまま逃げおおせるのなら、「直ちに国家の財政破綻はない」のに、数年先の消費税増税を予告する法案を今これみよがしに可決してみせる必然性はどこにもなかったはずなのだし、「直ちに大地震はおこらない」「直ちに大津波は来ない」可能性の方が圧倒的に高いのだから、良心めかして「大地震対策を」「大津波対策を」などと打ち騒いで見せる必要もないだろう。「直ちに新型インフルエンザは蔓延しない」のに、なぜ、「世界の終わり」でも来るような騒がれ方がされるのか。「直ちに関税を0にすべき必然性などどこにもない」のに、なぜ、「TPP、TPP」などとかまびすしいのか。「直ちに中国が尖閣諸島に軍事侵攻することはあり得ない、そのつもりならより容易な南沙諸島で実行しているはず」なのに、なぜ「慌てて尖閣諸島の国有化に踏みきったのか」
この国の政府部門の整合性の欠如、支離滅裂さは「三猿」を決め込まないことにはやり過ごすことが困難なほどの悲惨さに覆い尽くされているが、しかしあえてそのことにすら目をつぶり考えてみれば、一事が万事、全ての世に「直ちに深刻な事態が発生する可能性」は発生しない可能性より圧倒的に低いに決まっているのであり、しかし、発生してしまった時の深刻な事態に対処すべく人々は思い患い、(消費専門分野としての)政府だの軍隊だのという社会的部門を所有することにしているはずなのだ。
したがって「直ちに〜ない」などという副詞句は、「絶対に安全だ」などという妄想語よりも遥かに政治の用いるべき言語ではないのであり、何の言い訳にも何の政策にもならない惨めな「無能の証明言語」でしかない。
「私たちは無能です」と宣言し、告白しているのだから、そのような人をいつまでも責任の重い職や役に就かせておくことは、ある意味で人権侵害ですらある。
実定法として定められていなくとも、このような相応しからざる言葉を用いて連日会見を開きながら何らの罪障感も良心の呵責も覚えない政府部門の責任者がいたとすれば、“直ちに”役を解き、政界から去っていただくのは本人のためでもある。
にもかかわらず、平気でそういう言語が使い続けられ、何ら現実的な対処に踏み込まないことの責任が等閑に付せられたまま推移していくとすれば、もはや、彼らの使う言語は日常言語としての通常の意味内容を有していないのだと解釈することの妥当性が高まらざるを得ない。
そう考えなければ、私たちは、精神に疾患を抱えた人々の意思の不疎通が眼前に展開されるのをショーとして見せられているとでも解釈する以外なくなってくる。
結果、私たちは、国民として、〈意味のインフレーション〉と〈意味のハレーション〉が引き起こす集団ヒステリー状態の中に引きずり込まれている……そういう認識なしに生きて行くことは極めて危険なのだということを今こそ冷静になって噛み締めるべき時ではないだろうか。

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コメント

今日の記事に触れて,2011年2月25日 (金)の記事『麻生元首相の“暴言”に関する一解釈』をあらためて読み直しました。
文末に書かれていた「まず、私たちが保護し保守すべきは、正統の、あるいはオーソドックスな代表制/議会制民主主義の理念であり制度なのではないでしょうか。原理主義ではなく、原点主義……原理主義が理論の機械的/硬直的運用なのだとすれば、原点主義は理論の初発と現在との往還運動というような意味で。」
フクシマを保守することの方が重要のはずなのに,原野商法よろしく15億近い寄付を募って無駄な騒ぎを巻き起こした都知事閣下にはさっさとダンマリを決め込ませて“領土モンダイ”とマスメディアは大騒ぎし,タレントから政治屋に宗旨替えした誰かは“維新=ニホンヲ変エヨウ“とかいう薄っぺらいコピーに寄りかかってるだけだし,ここでは「おととい,おいで」という古い言い回しを復権させたいと,つくづく感じます。
そして,たとえば口下手と言われた小沢一郎が「国民の生活」また「自立と共生」と発言する時,「権力」が本来「国民」に帰属するという意味で,わたしは個人としての責任をおもいましたし,小沢が深く思考し存在し続けているともおもいました。

投稿: 植杉レイナ | 2012年9月24日 (月) 13時07分

植杉さま、ありがとうございます。

まるで、優秀な編集者のように私に思い出させて下さった「原理主義」と「原点主義」の相違/差違。

これ、重要だと思っています。
柄谷行人は、「近代」の以前と以後では、良いもの悪いもの含めて多くの「転倒」が生じていると指摘していますが、「意味の反転/転倒」もその中に含まれるでしょうか。
言葉は生き物ですから、時代による意味の変遷は必然的/不可避的に生じるもので、昨今の文化庁のように本来の語義と違う用い方がなされていると言って、○×式のテストか何かを始めてしまうのが、言ってみれば「原理主義」的な立場になるでしょう。
一方、「原点主義」は、もっと存在論的な視点から、言葉なら言葉の始源、言葉に関して言えば語源に対するリスペクトを復興しようとします。
山中をさ迷っていた言葉を持たない人間が、突然、海原の開けて見える場所に出て、「う」と呻いたところから「うみ」という語が発生した、という吉本隆明の言い方は、訳知り顔の言語学者からは笑われたりするようですが、いったいどちらが笑われるべきか。
「言語学」などというものは、ある程度、言語の体系が出来上がり、言語のそれなりの流通性を獲得した時点にまでしか射程が届かない思考です。
フーコーの「知の考古学」もそうですが、「言語」について考えるのなら「言語以前」また「言語の始源」の状態に遡らなければ、言語の本当の謎はわからない。
少ない知識によれば、「貨幣」もまた同じのようです。
「近代」という時代が開いたとき、人間の認識が大きく変遷したのは間違いないところでしょう。
しかし、「原理主義的な思考」=「制度的な思考」を採る人たちは、やれイノベーションがどうしたと、複雑化や高度化のことばかりに頭を奪われ、「原点」にあったものについては忘却するに任せてしまう。
日本に原発がいつの間にか54基も稼働していたとは、恥ずかしながら知らなかったのですが、「原点思考」を蔑ろにすると、「制度的な力学」の中でいつの間にかそういうことになってしまう。
金融工学にしても同じことでしょう。
それで、リーマンショックや福島原発爆発のような部分的破局、警告的破局が起きようとも、真の意味での「反省」をしようとしない。
「原理主義」の虜になっているからでしょう。

投稿: にいのり | 2012年9月24日 (月) 20時46分

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