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2012年10月 5日 (金)

私たちは、政治をバカにし過ぎてきたツケを、ここに来て一気に支払わされる結果になるのか否か。1

小沢一郎を政治の片隅に排除した結果タガが外れたかのようにあっという間に広がった政治的荒野に、小沢の役割は終わったと豪語していた商業メディアや経済界があたふたとしている。
稚拙な政治によって、中国を本気で怒らせてしまった可能性を前にして、「経団連」とやらの会長が、下らぬ者達に散々献金しては政治を劣化させてきた自分達の政治責任は見事に棚に上げながら、青ざめた様子で厚顔な要望をしている様は、失笑ものかつ冷笑ものだった。
中国当局の粗暴なやり口の肩を持つつもりはさらさらないが、しかし、中国の政治指導者に対してお人好し日本国民にしか通じない「ゴマカシ語」を用いて何とかなると思っていたらしい呆顔首相を(小沢排除の一点に向けて)のさばらすだけのさばらせてしまった我が国の経済エスタブリッシュメントらが、事態打開のための何ら具体的なソリューションを有していないらしい様は、まぎれもなく屈辱的/国辱的事態だと言うしかない。
次期中国大使が急死したのは本当のアクシデントだったのだとしても、代わりの大使すら未だに任命できず、スケープゴートにしようとした現中国大使に任期延長を依頼せざるを得ないところまで追い込まれているという事態も、もはや開いた口が塞がらない。
いったい、何をどうしたいのか、さっぱり見えて来ないプリンシプルなき人々の右往左往は、自民党総裁に安倍晋三が選任されることに貢献したことが唯一の“成果”にすらなっている。
そんな中『日本維新の会』とか何とかいう党派名を持つらしい政治互助会(?)の失速が著しいらしい。
その時々で言うことが違う単なるクライアント命の電波芸人であることが隠しようもなくなってきた現大阪市長にしてその政治党派の党首である橋下徹のブレーンを自他ともに認めているらしい人物に、堺屋太一なる三文文士がいる。
どうも、三文文士というのは、石原慎太郎とかいう人もそうだが、自らの死期が近くなってくると、自分が世に「作品」と呼べるほどのものを残すことの叶わなかった鬱屈し歪み切った悔悟の念だか何だか知らないが、そういうものに促されて死ぬ前にもう一花咲かせてやろうと強く思うもののようだ。
「私はあなたがたの思っているような無味無才の三文文士でもなければ卑俗なポルノ講談士でもない、違う、そうではないのだ」ということを何らかの手段を用いて世に証明したくてしたくて仕方がなくなるのだろうか、俗悪かつ愚劣な想像力によって、自分の力で世の変わる姿というものを見たくて見たくてたまらなくなるもののようだ。
そう考えないことには、もはや生い先短いこと明らかなこの老人たちの奇妙な熱情の在処、モチベーションの有り様を理解するのは困難だとも言える。
そもそも、堺屋太一とかいう人物の書き散らした小説のようなものが「文学」としてこれまで誰かに読まれたことがあっただろうか。
森鴎外は別格過ぎるにしても、例えば新田次郎でも井上靖でもよい、あるいは山岡荘八でも丹羽文雄でも、藤沢周平でもよい、そのような人々と比較した場合、大衆文学の領域にすら達しない小説紛い/小説もどきなど誰も論じようとしないのは思えば当然過ぎるほど当然のことだった。
そういう卑俗にして愚劣な人間が、いざ死に際を迎え、多少なりとも聞こえて来るであろう晩節を汚すなという声には馬耳東風の体で、表面的には柔和で温厚そうな表情をたたえながら、眼鏡の奥にある陰険で陰湿な目の光だけは隠せず、薄暗い俗情を内に秘めた老醜とはかくやと思えるだけの意固地さを示しながら、いったいどのような人物を堂々と表から(笑)操ろうとしているのか。
講談社という出版社が発行する『週刊現代』10/13号には、堺屋太一とかいう人物の手記ともインタビューともつかぬ奇妙な記事が掲載されている。
この(出版社をはじめとする各メディアの連中が誰も正面切って批判しようとしないメディアのドル箱たる)堺屋なる三文文士は、何を弁明したいのか知らないが、『船頭多くして〜』ならぬ『顧問多くして、党川に流れる』顛末が嫌でも見えてきたお笑い寄席にも劣る政治党派の人員と幕末維新期のいわゆる志士らとを完全に同一化してしまっている様は、妄想型恍惚とはかくも恐ろしいものかと、周囲の人間をたじろがせ絶句させるには十分なものだろう。
現大阪市長は、まるで自分こそ党首であるかのようにお抱えメディアの中でペラペラしゃべりまくるブレーン気取りの人間達に早く黒頭巾を被せ、出来ることなら口枷もしてしまうだけの英断を示せれば自らの未来を主体的に切り開けたかも知れないのに、時既に遅し、白々しくも好好爺を装う毒虫たちにいいようにたかられてしまった。
もっとも、その現大阪市長自体が、中身はスッカラカンの救いようのない誘蛾灯のような存在でしかないのだから、その周囲がギラギラした鱗粉の舞い散る毒々しくも騒々しい場所と化しているのは、これやむを得ざる事態と言うしかない。
私は、この文章において、堺屋なる三文文士を侮辱しているのかも知れないが、これは、しかし、その三文文士の『道頓堀巨大プール構想』だか何だか知らないが、そういう市民/府民/国民に対してなされた侮辱へのいわば物理的反作用である。
もちろん、この晩節汚しの耄碌爺というより朦朧爺が何をどう何処でほざこうが、それは、当然のことながら言論の自由の範疇なのだろうが、こういう元官僚のキャリアを振りかざしながら反官僚を気取ってみせ、最も肝心な「自己家畜化」の本性についてはそれを巧みに覆い隠し、「人間の安全保障」をその粗暴な手で毀損してでも薄気味の悪い面子だけは保ちたいといった言辞を垂れ流すとあっては、そんなものいい加減徹頭徹尾否定してみせるしかないだろう。
無理筋の「小沢攻撃」によってもう後には引けなくなり、毎号毎号、額に腐敗臭のする冷や汗やら脂汗やらをにじませながら必死の体で「橋下、橋下」と遠吠えを繰り返す『週刊現代』なる週刊誌に巣食う破滅待望型転び極左の新自由主義者とつるんだこの人間がのたまっていることは、よく読めば所詮は自らが攻撃対象としている官僚と寸分違わぬ「管理人思考、管理者思考」に過ぎない。
「もう日本の官僚には管理させない、“われわれ”が管理する」と言っているだけの底の浅い商人論理そのものでしかない。
一見、整合的・説得的に見える言辞も、「ではなぜ小沢一郎を支えないのか?」という“歴史的な問い”がそこに差し挟まれた途端、全ては欺瞞であることが透けて見えてくる類いのものなのであり、米国からもたらされる多方向からの圧力を無色透明化することによって初めて成り立つ官僚型傲慢と対をなす悪徳経営者論理に過ぎないのである。
では、どこがどう“悪徳経営者”的なのか、『週刊現代10/13号』に見える発言によって具体的に見てみることにしよう。
(この項つづく)

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コメント

この項、おもしろい! 続きが楽しみだよ。

投稿: 穣 | 2012年10月 5日 (金) 23時47分

穣さま、早速コメントありがとうございます。
実は書いている本人は、うんざり感満載で、鬱気味なのですが、何とか頑張ってみようとおもいます。

投稿: にいのり | 2012年10月 6日 (土) 01時23分

急かすつもりなかったので、すんません。
ただ、じつに文章が巧みで「うんざり感満載」も伝わってくるし、まんま突っ走ればサイコー。 

投稿: 穣 | 2012年10月 6日 (土) 11時45分

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