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2012年10月14日 (日)

私たちは、政治をバカにし過ぎてきたツケを、ここにきて一気に支払うことになるのか、否か。6

こんな言い訳もある。
(「党の代表者が東京にいないのでは、他党や官庁とのコミュニケーションが取れない」との批判について)『「会って話す」と言えば聞こえはいいが、実はこれが日本型の“仲間重視・ムラ社会”の弊害を生んでいます。常時顔を合わす者だけが仲間、そこにいない者は仲間ではないから無視する。そんな思想が、日本の政治経済の発展を阻害し、改革を停滞させていると言えます。スピード感や合理性よりも“仲間の評判”を重視する。その習慣が日本の製品をガラパゴスにさせ、世界競争に立ち遅れさせたのです。』
言われていることは、これもごもっともと言ってしまって良いものだろう。だが、前回のエントリーで指摘した通り、橋下党首その人こそが、日本型マスメディアの形成する「評判村、ウワサ村、楽屋受け的サークル」の情報伝播力を用いて、恣意的に選んだ敵を村八分状態に追い込んでは自分をお山の大将に見せるべく専心しているとしか見えないのである。
つまり、橋下のやっているのは「その場におらず、会って話さなくても」日本型の“仲間重視・ムラ社会”などメディアの活用次第でいかようにも維持できるというデモンストレーションのようなものだと言ってもよい。
どうやら「特別最高顧問」は、あまりにも孤高の位置と地位に自足しているためか、あるいは「大阪十大名物」の実現に忙殺されているためか知らないが、現実に何が起きているのか全く掌握していないようだ。
「大飯原発の再稼働問題」についての言い訳もひどいものである。
正直言って、「維新の会」周辺の人材で、最も優秀かつ民意を汲み取るために必死に動いていたのが、「脱原発のチーム」だったろう。
橋下は『発言撤回の謗りを受けるのを承知で、最終的に市民のため、現実的な判断を下した』などという綺麗事を為したのではなく、「脱原発チーム」と「関西電力」の間で板挟みになった結果、自分の「仲間」であったはずのチームを切り捨て、民間官僚の権化のような「関西電力」の側になびいたようにしか見えないのである、両者の力関係を天秤に掛けた結果。
仮に一時的な撤退戦を強いられるとしても、国民は、その後の「脱原発チーム」の処遇をどうするのかという点に視線を集中させていたはずであり、「局地戦で敗戦を喫してしまったから、ハイこの件はご破算に願いまして」といったような橋下の“口拭い”の政治姿勢に、多くの国民が現民主党と同じ敗北主義を嗅ぎ取ったとみて良いだろう。
この「特別最高顧問」は、“正しい”ことだけ言っていればそれで満足らしく、なるほど単なる口舌の徒はそれでいいのかも知れないが、政治的現実というものはそれでは済まないはずだ。
堺屋が、いかに一見“正しい”官僚批判を繰り広げても、そんなことはもはや言論・議論としては言い尽くされたものであり、本当は現行法のみでもその厳密にして厳格な適用を図れば、高級官僚らの越権的な行為の多くは阻止できるはずなのであり、それが出来ないのは、結局政治家個々の覚悟であり、また、国会全体の覚悟に帰すること大のはずなのだ。
実際、この記事において唯一私たちが心に留めておくべきと思われる証言は次のようなものである。
『先ほど、私は「改革を目指すのは、三度目の正直だ」という話をしました。
実は前述の「イギリス流の内閣を中心とした制度」への転換は、私が原案を書き、福田内閣で成立した国家公務員制度改革基本法の中核だったのです。
しかし、この法案は成立こそしたものの、人事院総裁の猛烈な抵抗と、それがあたかも正義であるかのようなマスコミ操作により、棚上げになっています。』
この件に関する堺屋の無念の思いはまったく理解できないというわけではない。
完全な従米/屈米内閣であった小泉内閣の後を受けた安倍内閣と福田内閣が、相当なプレッシャーの中で、対官僚及び対米関係で苦心惨憺していたことは素人目にも分かる。……というか素人目にも分からなければならないのだが、私たちの持つにいたった買弁マスメディアは、浅薄な印象操作のみで安倍・福田また麻生という自民党三代の首相を揶揄し続けた。
確かに小泉によって安易な方向に粉々にされた自民党政治というのは、国民政党として軌道修正すべき端緒も見つけられずに行き詰まっていたのは間違いない。
特に、理念先行型内閣であった安倍内閣の切羽詰まった破綻の後を引き継いだ福田内閣が、国民一般には見えないところで数々の対米圧力と戦っていたことは、孫崎享の『戦後史の正体』にわずかながらも貴重な記述が見える。
この時の小沢―福田の大連立構想とその頓挫を経て、自民党以上に公務員改革に熱心だったはずの民主党が、政権を得た後に役立たずの菅や反動型従官政治家仙谷らの暗躍で、肝心の公務員改革がなし崩しになっていく実態。
おおよその見当はつくものの、しかし私たち国民の良く知らない/知り得ない対米及び国内の複雑に絡み合った暗闘の実態は、まだ十分面には出てきていない。
漠然とした形で見えるのは、日本の官僚共同体は、従米・屈米の戦後秩序の中にビルトインされた特権的地位を維持するために、つまり対外的には米国にどこまでも良い顔だけをしてみせ、アメリカンヘゲモニーへの便宜を図る見返りに国内的な政治主導化の動きを阻止しているのではないかということ。
この辺の政治力学については、私たちの大好きなやれ右だ左だ、やれ自民だ民主だという色分けでは分析も解明も出来はしまい。
だが、そういう点を考慮してもなお、堺屋が仕掛人であろう「維新の会」構想の動きについては、腑に落ちない点が多過ぎる上、国民の経世済民を考慮する方向ではなく、官僚組織を破壊してしまえば、後は総理が橋下であろうが誰であろうがオレの知ったことかという私怨晴らしのようなものが前面に出過ぎている懸念がある。
そして、結局、〈国民の生活〉というものを中心に据えた場合、政策的差異の分岐点、分割線分となるものが、TPPというものだろう。
一見、誰もが反対しにくい「自由貿易の推進」という理念を逆手にとって、“帝国/覇権国”の政府とその企業だけが特権を享受できるようにトラップを張り巡らす世界規模の/トランスナショナルな〈官僚文学作品〉。
条約/法と呼ぶよりも、設定/仕掛けと呼ぶに相応しい内緒の条文。
「仲間なんだから、助け合って、隣の家との垣根なんかなくしちゃって、融通し合いながらやろうよ」という時に、自分だけ地主面したい奴が、「そうだね、そうだね、でも、誰かが変な抜け駆けしないように、ボクが罰則を作るから」「え?」「え?だから、ボクが、ヘンな抜け駆けができないようなスマートなルールをボクが作ってあげるから」「え?」「え?ホラ、ルールって、当然破るためにあるもんじゃないし、破られるためにあるもんでもない。ルールってのは破られないようにあるもんだから。だから、破ろうとする奴が現れた場合、かなり痛い目を見なきゃなんないのは当然だよね」
もちろん、これは私の想像の範疇だ。
だが、TPPを受け入れるということは、このような議論を受け入れることに通底するのであり、それは思想的な判断を要する問題点をはらんでいると言える。
橋下大阪市長は、一部の教師による国歌斉唱拒否問題について、「明確なルールを作った。ルールなんだから受け入れろ。ルールを守らないのは単純に不法行為であり、国歌を歌いたくないという教師の内面に踏み込んでいるわけではない」という旨を述べていたことがあった。
こういう言い方というものは、どう言い繕おうと「法の支配」概念の意図的なねじ曲げ、履き違えでしかない。
「法の支配」の「法」とはまず根本法、基本法を指すものだというのがまず一点。
そして、より重要な点は、「法の支配」という場合の「法」が「支配」する対象は「権力」の側であり、権力の恣意を拘束するために「法」が立ちはだかるというものと言える。
したがって、必ずしも憲法に明白に抵触しているとは言い切れずとも、その疑いが濃厚な条例など自治体が制定するのは当然望ましくないし、その執行は極力避けるべきというのが妥当な判断になると考えられる。橋下が述べているのは、「法」を「統治」のための「武器」として用いるよ、という「法の支配」に対する挑戦に他ならない。
同じことは、TPPを推進して(利権に与ろうとして)いる人々にもあてはまり、特にTPPが悪質な点は、条約は、一般的に国内法に優先するという規定を逆手に取ろうとする意図が見え見えな点だろう。
この点を(思想的に)突き詰めて行けば、ネグリ=ハートが『マルチチュード』の中で一節を設けている『国際法から〈帝国〉の司法へ』といった議論をはじめなければならない。
TPPとは、ゼョセフ・ナイ流に言えば、「我々の作成したパワーを内包するソフトを輸入するのかしないのか」という脅迫あるいは踏み絵として作用しているのであり、「輸入しないのなら敵対的存在とみなす」という裏側の文言が付着している。
小沢一郎は、TPPを頭から拒否するのではなく、あくまでも交渉、交渉力の問題だと看破しており、現首相野田佳彦のようにISD条項すら知らなかったでは話しにならないのである。
私たちは、小沢一郎が司法・行政勢力及び反政治的勢力また、それに追随する談合/買弁報道マフィアの総攻撃を受け、やむを得ざる撤退戦を強いられながらも、落ち着きを払って改めて仲間/同志を募りながら懸命に努力している姿を見るなら、浮薄な情報に惑わされない限り、そこに〈政治的な真実味〉を見ることが可能なはずだ。
そして、そういうことを正当に評価出来る者こそ、自らを〈生活者〉と呼ぶ矜恃を有する者と見て良いのではないか。
単に官僚組織と敵対して、憎悪とルサンチマンによる国家/国民の分断を招き寄せる勢力ではなく、〈生活者〉の視点からシステムのスクラップ&ビルドを図ろうとする者たちが、現状では第3極として競合するのが望ましいと思われる。

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コメント

10月5日(金)から14日(日)までの【私たちは、政治をバカにし過ぎてきたツケを、ここにきて一気に支払うことになるのか、否か。】と【2011年12月30日 (金) 私たち『市民の健全な常識』は、これ以上の《集合堕落政治》《集合堕落統治》を許すことができるか? 】 をジグゾーパズルを完成させるようにして読んでみました。
常に重いテーマを扱っていらっしゃるのですが,なぜかいつも,明るく軽く読める感じがするのです。吉本隆明『マス・イメージ論』1988年福武文庫p.300「単行本あとがき」の表現を借りれば,「それにふさわしい文体や様式を」発見されているから,とおもいます。全て読みこなせたら,4次元立体ジグゾーパズルを完成するような,もしくは,シングル曲を交差させてアルバムを完成させたアーティストのような快感のはず。才能も智慧も無いので,ちょっと悔しいんですけれど。

投稿: 植杉レイナ | 2012年10月15日 (月) 13時32分

植杉さま、ありがとうございます。

取り上げて下さった以前のエントリー文を自分でも読んでみましたが、以前のものはかなり小沢礼讚的内容ではありますが、言わんとしていることは似通っているかなと。
今回は、思いもよらず長くなってしまい、最後の方は読み返しもせずに書きっ放しエントリーとなってしまってお恥ずかしい限りです。
安倍については、もちろん、その思想に与しようとは全く思いませんが、石原Jr.の立候補にあたっては、自民党OBの青木や森に加え読売のナベツネの後押しがあったという情報を目にしました。
とすれば、安倍はこのような人々とは別個のルートで立候補しているのであり、同派閥の町村との重複立候補も意に介しませんでした。
石原みたいな訳の分からない人物を推すような日本、私はそのような日本を忌避したいと思います。
その一方で、安倍については思想も立場も異なれども、政治家はかくあるべしと思うのです。
石破の地方党員人気について…。
本文で書き忘れたのですが、この自民党地方党員の方々は、本来は小沢一郎を支持していた、あるいは今でも支持したくてたまらない人々なのではないかというのが、私の推理です。
この方々の内訳は、中小零細の企業/商店経営者だったり、農民だったりするのではないでしょうか。
だが、メディアの小沢攻撃を8割方信じてしまっており、伝統的保守派ゆえに、検察や司法にたてをつくなど思いもよらないような方々。
だが、本来、しっかりとした「生活」を営んできたという意味で、政治的にはどう考えても小沢に近いはずの方々。
私は、どちらかと言えばリベラル系の人間だと主観していますが、小沢一郎を蝶番にすれば、私のような人間をはじめ、「生活党」支持者らは、「こちらにおいで」と十分連携できる人たちではないでしょうか。
もちろん、「政治家石破」及びその周辺の政治家と連携するか否かとは全く別の次元の問題です。

投稿: にいのり | 2012年10月15日 (月) 21時51分

示されているタイトル通りに,すなおに読めば良いのでしょうが,いろいろと立体構造が気になる悪いクセ(よーするに,自分勝手な読み方の言い訳をしているだけです)があり,お手間を取らせてしまい申し訳ございません。【2011年12月30日 (金) 私たち『市民の健全な常識…】の記事は,評価の水準が明快なだけで,小沢「礼讃」的にはあまり感じませんでした。もうお分かりのことと存じますが,わたしは政治,ホント,不得意分野です。考えないですめば,そうしたいところです。ただ,ときどき,それって政治をバカにしてることかも,と自問。
【2010年2月 2日 (火)  情報の価値判断と非対称性について】 から,ここもいいなあと以下に引用いたします。
『眼前の「不都合な真実(人物)」を叩き潰してしまえば、何とかなるがごとき妄想的闘争にうつつを抜かすのか。
「敵は本能寺にある」のではない、内部にあるのだ。膠着化し無効化した自己同一性論理に固執するがゆえに露呈する知性の脆弱さ。』

投稿: 植杉レイナ | 2012年10月15日 (月) 23時24分

植杉さま、ありがとうございます。
おっしゃっていること、よく分かります。
「知、あるいはアイデアの立体的な綜合化」ですよね。
私のようなへなちょこ相手ではなく、松岡正剛の編集工学ではありませんが、「知のホログラフィー」のようなものを作れれば最高ですよね。
私はそれも日本文化に種は眠っていると考えています。
「連歌、連句」の技法です。
「連歌・連句」自体は、情緒性優先の知的遊戯ですが、そこに眠っている「知の技法」は、良く言えばオリジナリティ優先、悪く言えばエゴイスティックなだけの西欧型思考を超越するものでしょう。
ポピュラーミュージックで言えば、ハウスミュージックの方法論。
欧米は「知的所有権」のようなものを「正義」とみなし、しきりに「商売」に結びつけようとしていますが、それは所詮「知のブロック経済化」による紛争、闘争を惹起するものに過ぎないでしょう。
現代中国のように、発案者へのリスペクトのないデタラメなやり方は論外だと思いますが、日本文化の中に眠るオリジナリティを超越する一定のルールに則った綜合知の構築と脱構築、再編成、超編集性による自由自在性、融通ムゲ性の未来性を私たちは生かすべきときに来ていると思います。

投稿: にいのり | 2012年10月16日 (火) 10時59分

本文と同じように,才気溢れる,めっちゃロックなお返事に感謝さしあげます。
よしもとばなな『デッドエンドの思い出』文春文庫 (すみません,ページは忘れました。)から引用。『 いいなあ、この人はもういるだけでいい、別に私のものでなくてもいい、公園に巨大な木々が生えていて、その下でみなが憩うが、それは誰のものでもない。 』
わたしがDaily Cafeteria に立ち寄るときのかんじは<公園に巨大な木々が生えていて、その下でみなが憩うが>の部分を,「散歩の途中によく手入れされた庭があって,そこはみなが立ち止まるが」または「散歩の途中にホントに美味しいコーヒーを入れてくれるカフェがあって,そこでみなが憩うが」と言いかえるピッタリ。それとイヴァン・イリイチの『シャドウ・ワーク』を読んでる時のワクワク感。 巨大な木々も,うつくしい花々も,ちいさい風にそよいでくれることもあるかなあ・・・・で,またしても,しつこくも,ぶしつけな注文をさしあげますね。“ you 褒められ慣れちゃいなよ ”です。 

投稿: 植杉レイナ | 2012年10月17日 (水) 11時58分

植杉さま、極上の褒めことば、ありがとうございます。

理想形としては、そんな感じになれれば素晴らしいですね。

まぁ、実態は、もうまるでちがいますが(^o^;

投稿: にいのり | 2012年10月18日 (木) 19時45分

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