« 坂本龍一と小沢一郎と日本の未来 | トップページ | いっしゅの「誤報」だらけの『日本維新の会』関連の新聞報道 »

2012年11月28日 (水)

そしてもはや、小沢一郎という天才一人(だけ)に頼る時代ではない。

小沢一郎という政治家は、知れば知るほど心酔するに値する政治家だということを、私は自分自身がブログなど始めてみて、改めて嫌というほど認識することになった。
そして、小沢一郎という代理表徴を巡る権力/勢力間の国際的駆け引きというものが、いかに熾烈なものであるのかを、ある意味では迫真性をもって知ることとなった。

小沢一郎という“国益防波堤”は、これまで、どんな津波が押し寄せようとも、その類いまれな柔軟性をもって、津波の持つ破壊エネルギーを分散/懐柔してきたのだ。
そのような役割を率先して負ってきた表徴を、日本の買弁勢力は、あろうことか悪役に仕立て上げ、買弁業務を履行するあたっての障壁/障害物として邪魔者扱いしたのである。
ここまで堕落した日本において、「小沢一郎」という固有名詞が、代理表徴の役割から降りても、その代替機能を負う“集合”が我が国に生成し得なければ、私たちは〈欺瞞〉によって構成されたエピステーメー/マトリックスの中で、やがては記憶を喪失し、〈知的/史的/社会的/公共的/国家的財産〉が取り崩されていくのを他人事のように指を加えて眺めているよりほかなくなってしまうことだろう。

一部の人間は、「現実」には何の役にも立たない排外主義やレイシズムに“緊急避難”して、いかにも国益を守る側に立ったかのようなエクスキューズをしてみせては、その都度「負け犬の遠吠え」という名の溜飲下げを“業務”としてこなしてみせるのだが、そのようなものはまるで「政治」のレベルに達していないという意味で、語るに値する以前のものでしかない。

「現実」の諸局面で、“他人様”に言われるがままに、“防波堤”を撤去していたのでは、やがて生じるのは福島原発事故のような破滅的な自損/自傷事故に決まっているのであり、「バカどもは我々が言うがままに振る舞った、その結果がこれだ、見ろよ」と軽んじられ、嘲笑われ、そして、言われるがままに諸資産/諸財産を解体させられ流出させられてしまうしかない。
“彼ら”は自分たちだけの領域に戻ったならこんなことを口にしているかも知れない。
「バカどもは、私が、その防波堤は撤去しても構わないだろう、いやむしろ撤去することが合理的だよと、素知らぬ顔をしてささやいてやったら、大真面目な顔をして本当に実行してみせたんだよ。私はむしろ恐怖を覚えたね。いいかい、みんな、バカというのはね、言いなりになることに喜びをさえ覚える存在なんだ。だから、バカを探し出してきては木に上らせ喜びを与えること。それが、私たちの任務を滞りなく進めるコツってやつなのさ」……少なくとも私が“彼ら”の立場だったら、そんな感想を漏らしながら悦に入るいやらしい人間になってしまうかも知れない。

日本から、銀山の銀が、異様なまでの廉価で流出してしまったことを、私たちの多くは知っているだろうか。
日本から、国宝級の美術品の多くが流出してしまっていることを、私たちの多くは知っているだろうか。

言語障壁に“自然”防衛された文学作品を始めとする書籍系のみが、辛うじて、大部分、知的財産として存続している。しかしそれもまた、思想的な洗脳が完了してしまえば、無価値なものとして記憶から除外/排除され、喪われ、散逸していくしかない。

政治とは、まさに「現実」を動かす駆け引きの織物であって、「口先」と「現実」は対応関係を取り結んでいなければならない。
だが既に我が国においては、そうした対応関係がものの見事なまでに失効しつつある。
民主党の残党たちは、相変わらず「マニフェスト」などという自分たちが率先して「意味のハイパーインフレーション」を引き起こした言葉を、無自覚にも使用している。(政策的にあるしゅの意図/意志をもってそういうことをしているのかと、多少は思っていたのだが、やはり、この人たちは他人に言われるがままに動いていただけなのだ、そうでなければマニフェストなどという単語は二度と使う気になれないはずなのである、正常な精神の持ち主なら)
一切の知性がそこに機能していないという意味において、この集団については、あるしゅの「知的病原機能」を有していると形容してもバチは当たらないのではないかと思う。

同じことは、我が国のマス媒体にも言える。
知的な上昇志向を持つべき人たちが、ただやたらと別の上昇志向に感染し、しかもそのことに無自覚だ。そして、厄介なことにこの人たちはむやみと他人様を巻き込みたがる、それを“善”であるかのように思い込んでいる。

代理表徴としての「小沢一郎」は、しかし、一連の「小沢裁判」によって、我が国の「現実」のおかれたマトリックスを、私たちの眼前に構造的に/立体的に展開してみせることに成功した。
私たちの生きている「現実」の“場/位相”とは、これこの通りかくかくしかじかの“場/位相”なのだということを、多くの人々に知らしめることに成功した。
こういうことが可能であったこと自体が、既にして小沢一郎の政治的力量であり政治的成果にほかならなかったのだ。

私たちは、一個の生命体としての小沢一郎という具体が、明日からこの世にいなくなっても、その知的遺産を引き継ぐ覚悟を今からしておかなければならない。

「未来」とは、そういう言葉だろう。

小沢という個人におんぶに抱っこでは、私たちの甘えがネックとなるのみで、何も変わらない。

小沢一郎から発せられているメッセージは、おそらくそのようなものだ。

|

« 坂本龍一と小沢一郎と日本の未来 | トップページ | いっしゅの「誤報」だらけの『日本維新の会』関連の新聞報道 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

今晩は。次々と、シュートが決まるようなエントリーに脱帽します。
ところで、司法を悪用してまで、小沢一郎を「殺そう」とした面々が、必然的に炙り出されて来ておりますね。曰く「嘉田知事が、小沢さんの傀儡にならなければ、云々」曰く「日本未来の党と言っても小沢新党では、云々」こうした発言をし始めている奴らは、「犯人の一人」だと自ら名乗り出ていると同じだと考えて間違いない。しかし、さすがに小沢一郎は、こういうカスどもに目もくれず、この国と国民に未来を見ろという生き方をしてくれています。
『小沢という個人におんぶに抱っこでは、私たちの甘えがネックとなるのみで、何も変わらない。』 頑張りましょう。
なお、2か月ほど前、日本経済新聞電子版に掲載されていた記事が気になり、一部を保存してありました。今日見ると正確さには欠けるものの、新聞社もそれなりの取材力を持っているのに、何なんだよと言いたくなるわけです。
「首相,野田佳彦と対立する民主党グループの間で、次期衆院選に向けて有る新党構想が浮上している。音楽家の坂本龍一を党首に迎え各界の「脱原発」勢力を糾合した新党だ。発信源は、首相官邸前での原発再稼働抗議デモに加わった元首相、鳩山由紀夫の周辺。議員生による期待感先行の色彩が強いが、乱立する新党構想は鳩山自身の苦境を象徴している。(中略) YMO新党は、今のところ構想の域を出ていない。一方で鳩山は、民主党を離党した盟友の小沢一郎、維新の正当化に絡む松野(頼久)名古屋市長、河村たかし率いる減税日本の幹事長に着いた本鳩山グループの小泉俊明らを一本化する「第三極」づくりを視野に入れているのではないか、との憶測もささやかれる。(後略)」(2012/8/24 6:00)

投稿: SP8 | 2012年11月28日 (水) 22時02分

SP8さま、素早いレスポンス、ありがとうございます。
もう、自分を信じて、率直に、率直にと、ただそれだけの思いで書いております。
私の年代にとって、坂本龍一と小沢一郎の組み合わせはサプライズもいいとこなのですが、
時代の要請により、両者がそれぞれの立場から何らかの磁場のようなものに引かれ合って、ついには同じ地平に立っていることは、非常に感慨深いものがあります。

私のような、ちゃらんぽらんな人間が、途中でやめもせず、しかも、一生懸命政治的な内容のブログをしたためているというのも、私の個人史の中では、サプライズなのですが(笑)

日経記事の件。
どんな組織にも真に優秀な方はいらっしゃるのでしょうが、優秀な方が優秀ゆえに苦しまなければならない(ダメな)組織があると思います。
その典型が今のメディア業界と言えるのではないでしょうか。

投稿: にいのり | 2012年11月28日 (水) 22時22分

すぐれた政治家としての〈正面の顔〉については,どれだけ筆舌を尽くしても足りない小沢一郎でしょうが,わたくしのような有象無象を切り捨てない,どうかんがえても,有言実行を厳しく自戒されている人に違いないとおもわせられた瞬間の表情があります。テレビが撮影のために人払いしたとしても,加工できない瞬間の映像は,意図されたものではなく,その人の世界観を映すしかないこともあります。ずいぶん前なのですがニュース番組で見た,忘れられない2つがあります。
ひとつは,マクドナルドに並んで100円のハンバーガー1個を買う小沢一郎。もうひとつは,西友の売り場をじっと眺めてチクワブ(どんなに高くても198円くらいです)を買っている小沢一郎。あの“魔女裁判”で思想の〈後姿〉を見せたという評価はもちろんですが,ファストフード店やスーパーが毎日である〈大衆〉の原像を血肉としているひとだと,わたくしは直観したものです。内田樹と高橋源一郎が、『結論は「小沢一郎は日本のナロードニキであり、吉本隆明のアヴァターである」という驚天動地』って言ってましたが,わたくしには,驚くにあたらない結論でした。
『ポップ・ミュージックのゆくえ』やっと,読了です。1989年から2000年に,すでにこれだけ書いているのには,圧倒されました。紹介いただいて,ほんとうにありがとうございます。で,2009年あたかも3月11日(水)に始められたこちらのブログ,〈書くこと〉を運命付けられているような気がします。

投稿: 植杉レイナ | 2012年11月29日 (木) 11時07分

植杉さま、いつもありがとうございます。
私のブログ、3/11に始めていましたか?(><)ちょっと、びっくりしました。
さて、『小沢一郎は、吉本隆明のアヴァターである』という結論は、なるほどなぁと感心するとともに、おっしゃるように当然の結論だと言えますね。むしろ、そのことに気付こうともしない“知識人”が大部分であるという我が国の言論のレベルが問い質されなければならないでしょう。
小沢の角栄直伝の川上作戦。
寒村の空き地で、みかん箱の上に乗り、集まってきた人に何を訴えるのか?
リアルに想像してみれば、単なる美辞麗句では済まされないことは確かです。
そして、そういうところで自らの言論を鍛え上げる……そうすれば、言論は自ずと吉本隆明の思想と響き合う(ハーモナイズする)……これは必然的な気がします。
まさに〈原像〉と対峙することによって練り上げられる〈本物の/本格的な言論〉。
小沢が吉本を読んでいたか否かとに関わらず、その言論のエッセンスに相似性が生じるのは当然のことと思います。

私たちの持つにいたったマスメディアは、そのような本格的な視線を失って久しく、しかもそのことに恥じ入る感性も消失し、芸能報道なのか政治報道なのか区別のつかない喧騒を奏でるばかりです。
「変わらないためには変わらなければならない」
吉本はこの言葉に言及していたかどうか知りませんが、まさに吉本の『転向論』にも通底する小沢一郎の変遷は、まさに「国民とともに歩む」という軸を失わないためゆえに生じているものです。

原発事故という大規模な自損/自傷事故という「事実」を受けてやはり政治が変わらなければウソでしょう。
政治は「事実/現実」を受けて動いていくもの。
それはだから「医療行為」に似ており、「目前の症状」に対して「適切な診断」と「適切な処置/処方」が出来なければ医術して失格であるのと同様、「事実」を無視して「イデオロギー」にこだわるばかりのようなものは「政事=政治」とは言えないのではないか、そう思います。
「大衆の原像」を繰り込み続けることによって、個人のアイデンティティの揺らぎや危機をさえも厭わない。
それには大変なエネルギーが必要ですし、「大衆の原像」への絶対的な信頼なくしては挫けてしまうでしょう。
そういうことに、どれだけの人が気付けるのか。
今般の選挙の深層には、そのようなテーマも流れていることが重要だと思われます。

投稿: にいのり | 2012年11月29日 (木) 21時41分

どんどんエントリーが進んでいますね。以前からこのブログでは、坂本龍一、小沢一郎、吉本隆明、こんな広範囲に言及し続けていて、どんなふうに展開して行くのかと思っていました。平凡な言い方になりますが、先見の明があるとは、これか!と、驚いています。全部はとても読んでいないのですが、政界再編とか言う言い方さえ、今やみみっちいのかもしれないのだろうと、気付かされている所です。僕が小学生の時初めて買ったCDは、The Boom の「島唄」ですが、ロックとかサッパリで、クラッシックでもロックでも民謡でも演歌でも、いいものは、いいいんじゃないか程度です……
明日からもう12月です。今年は、失業せずに年越しできそうです。年末忙しいでしょうが、続きも期待します。

投稿: 穣 | 2012年11月30日 (金) 21時09分

穣さま、コメントありがとうございます。

いいものはいい、本当にそう思います。
吉本隆明も小沢一郎も坂本龍一も、誰に言われたのでもなく、私自身がいいなと思った「いいもの」です。

私、日本の民謡も好きですよ。
昔から好きだったのは、「五木の子守唄」と「よさこい節」です。
どうしてなのかとふと思い、調べてみると、この二曲、お座敷の小唄系であることが分かりました。
ああ、きっと、自分の人格的な志向、嗜好に無意識下でかかわっているのかなと、改めて思った次第で、思わぬきっかけを与えて下さりありがとうございます。
にしても、『五木の子守唄』は、子供の頃は、日本語としての意味も分からず、呪文やお経みたいなもんかなぁと思いながら、歌って/聴いてました(笑)

おどまぼんぎりぼぉ〜んぎり、ぼんからさぁ〜きゃおらんどぉ。ぼんがはぁよぉくぅうぅりゃ、はよもぉ〜どぉ〜るぅ。

ですからねぇ。
実に素晴らしいの一言です。メロディと言葉の響きと意味と七五調のリズムとが、完璧に渾然一体化してますよね。

「演歌」には、あまり好きな曲がありません。自分なりに分析していますが、言葉ではあまりうまく伝えられません。

何だか理屈っぽくなってきてしまいましたが、やっぱり「いいものはいい」ですよねぇ。
あ、「島唄」も好きです。

投稿: にいのり | 2012年11月30日 (金) 22時47分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1182932/48015479

この記事へのトラックバック一覧です: そしてもはや、小沢一郎という天才一人(だけ)に頼る時代ではない。:

« 坂本龍一と小沢一郎と日本の未来 | トップページ | いっしゅの「誤報」だらけの『日本維新の会』関連の新聞報道 »