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2012年11月16日 (金)

「正視に耐えぬ現実」、あるいは「小沢排除」の帰結として瞬く間に広がった社会的荒涼に関する点描。2

主観的には良心的に振る舞っているつもり、つまり自己れにのみ通用する己れの良心=(誰に唆かされ/諭されたのかも分からぬ思い込みとしての)独善には誠実たらんとしているのであろう稀代の無責任/無自覚詐欺常習師の手によって、いよいよ衆院が解散されたとのこと。
この人物が、選挙後に首相に返り咲く可能性はほぼないことと、この人物の後を襲う首相になる人物がさして期待の持てる人物であるはずがないことを考慮に入れれば、日本にあっては相変わらずの統治危機が継続/持続していくということになる。
この「危機の持続」という視点からは、日本では、持続可能社会ならぬ持続的危機状態が今後ともしばらく続かざるを得ないのであり、それは、かつて漠然と多くの人に(言語化以前の段階で)承認されていた日本型集団主義がもはや機能していないことを意味していると考えざるを得ない。
にもかかわらず、現日本にあっては、その集団主義の、わざわざ劣悪な部分だけを抽出したようないわば劣化集団主義が、意匠を変えて次から次へと登場しては改革者を気取ってみせるのであり、そうした集団主義には見切りをつけ〈自立した個による自覚的な共生〉という未来的な贈与(交換)経済の可能性をも視野に入れた真に発展的な理念は受け入れられようとしないどころか、目眩まし型改革者による巧妙な煽動によって排除すべき優先項目とされてしまう。
民主党政権解散という良い機会でもあることから、その一例として『21世紀臨調』の名で呼ばれる妙な団体に着目してみよう。
この団体の顔ぶれを見れば、日本で“改革”とやらを(マスメディアによって形成される層において)主張してきている者たちの多くが、いかに集団主義的な連中であるのかが概ね分かってしまうのであり、また不思議なことに彼らは小沢排除の動きを陰に陽に主導してきた顔ぶれと“奇妙なまでに”一致することも分かる。
資料的には若干古いもののようだが、Wikipediaに掲載されている『21世紀臨調』のマスコミ関係者をざっとピックアップするだけでも、次のような有り様なのだということを、私たちは知っておく必要がある。

『新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)』(メディア業界出身の主なメンバー・肩書きはWikipedia掲載年当時のもの)
船橋洋一 ジャーナリスト(元朝日新聞主筆)
安藤俊裕 日本経済新聞論説副主幹
石川一郎 日本経済新聞政治部長
乾正人 産経新聞政治部次長
岩田公雄 読売テレビ報道局特別解説委員
上村武志 読売新聞論説副委員長
宇治敏彦 中日新聞専務取締役東京本社代表
老川祥一 読売新聞大阪本社社長
大保好男 読売新聞編集局次長
小田尚 読売新聞政治部長
川戸惠子 TBS解説委員
菊池哲郎 毎日新聞論説委員長
岸井成格 毎日新聞特別編集委員
北村経夫 産経新聞編集長
木村伊量 朝日新聞編集局長
清原武彦 産経新聞会長
倉重篤郎 毎日新聞政治部長
黒岩祐治 元・フジテレビ解説委員・キャスター
島脩 元読売新聞常務取締役編集局長
菅沼堅吾 東京新聞社会部長
關田伸雄 産経新聞政治部長
芹川洋一 日本経済新聞編集局次長兼論説委員
飛田寿一 共同通信客員論説委員
外山衆司 産経新聞取締役総括補佐・秘書室長
中静敬一郎 産経新聞論説副委員長
長野和夫 産経新聞客員論説委員・東北文化学園大学教授
根本清樹 朝日新聞編集委員
橋本五郎 読売新聞特別編集委員
林寛子 中日新聞文化部長
早野透 朝日新聞コラムニスト
広瀬道貞 テレビ朝日会長
弘中喜通 読売新聞取締役・メディア戦略局長
船田宗男 元・フジテレビ報道局解説委員主幹
星浩 朝日新聞編集委員
村本道夫 弁護士
持田周三 朝日新聞政治部長
森本敏 拓殖大学教授、元野村総合研究所主席研究員
八木柾 共同通信編集局総務
吉田文和 共同通信政治部
与良正男 毎日新聞論説委員

よくまぁ、これだけ“集合”してみせたものだと驚かざるを得ないが、私のようにマスコミ論調に精通していないような人間であってさえも、この顔ぶれを見れば、「ははぁ、なぜこいつらとその部下にあたる者たちは、どいつもこいつもいつも同じことしか言わないのか」と思い当たる節があるということになるのではなかろうか。
また、この手の人々が形成している“集団”の集合図を書くとするなら、それらはこれでもかというほど念入りに幾重にも重なっているのが実態であり、やれナントカ会だナントカ協会だナントカ会議だと言えば、集会に出席するたびに否応なしに顔を合わせることになっているのが、この手の人々の形成する集合の特徴と言って良いだろう。
「示し合わせ」と「談合」という「合議/謀議システム」と、そこからの「足抜け者/裏切り者」は絶対に許さず、万一その素振りでも見えようものなら先手を打って排除するという、もう何百年続いているか分からない「村八分」にされないための「集団癒着主義」がそこでは機能の中心を担っている。
さらにこの一覧で、あえてマスコミ業界の肩書きを持たないのにピックアップした人物があるが、その一人、森本敏はこの度解散することになった野田内閣の異例の民間出身防衛大臣となった人物なのであり、もう一人、弁護士の村本道夫は、“偶然にも”小沢裁判の検察役たる指定弁護士を務めた人物である。
ますます、ははぁ、と頷かざるを得まい。
『21世紀臨調』という団体の象徴的な点は、“新しい日本”だの“改革”だのというそれこそ耳にだけは心地の良いフレーズを旗印にして、「経団連」を筆頭とする雇用側団体と「連合」を筆頭とする労働側団体との接着剤役を果たし、そこに「報」と「学」と「地方首長」が相乗りして強力な圧力団体たり得るような〈集団接着主義/集団癒着主義〉を実現していることだ。
この団体は、自民党政権下においては、まがりなりにも〈非官僚側圧力団体〉として機能した側面もあろうが、リーマンショックの衝撃波や民主党鳩山・小沢政権の誕生、3.11の原発事故勃発等の出来事を経て、たちまちのうちに、国民勢力排除団体として“反動化”したと見て良いだろう。
この団体は、所詮、リーマンショック以前のいわゆる「市場原理主義/新自由主義」が“最先端”にして“有用な”思潮であるかのように思い込まれていた時代に花開いたかのように見えた“徒花団体”とみなして良いもので、「新しい」だの「改革」だの「分権」だのというスローガンを盾にするだけの官僚非参加型集団主義を標榜したものに過ぎず、その「村八分圧力ビルトイン型集団主義」という意味においては、私たち日本人が乗り越えるべき悪しき/劣悪な/卑俗な集団主義に淫して自足するだけの団体なのであり、途方もない反知性主義に彩られたものに過ぎない。したがって官僚談合組織に典型的に見られる劣悪な集団主義の相似形に過ぎないそれは、私たち日本人が陥りやすい集まれば集まるほど低きに流れる集団主義的力学を乗り越えるべき契機も動機もシステムも持ち合わせてはいなかったと断定して何ら差し支えのないものだろう。
今となってみれば、だから、『21世紀臨調』などというものは、官僚非参加型下剋上運動体に過ぎなかったとみなすべきものであり、その成れの果てが、今、『第三極』などと喧伝されて訳の分からない行き当たりばったりの動きを示してみせる「維新の会」だのなんだのという、口先だけは勇ましいことを言ってみせる人々の群れに他ならないのだ。
「市場原理主義的な群れ」は、「国民は要求するばかりで、市場主義の先進性、自律性を理解する能力がないので、厄介な存在だ」とのたまってみせる。「政府機能至上主義的な群れ」は、「国民は要求するばかりで、政府機能の重要度と役割を理解する能力がないので厄介な存在だ」とのたまってみせる。
なんのことはない、両者ともに「国民は身の程を知らぬ要求をするばかりだ」と、国民一般のことを自らの手枷足枷のように思いなして、自らの無能を国民側に転嫁しては居直り/居座り続けている欺瞞集団に過ぎない。
決定的なのは、両者ともに、国民なしには〈実質的/本質的な富〉を生産する能力に欠けているということであり、そういう決定的事項については常に忘却した振りを押し通してみせるのがこの者たちの〈集団癒着主義〉の特徴だ。
この者たちに可能なのは、改めて考えてみれば、「市場主義者」なら国民の生産/経済活動に便乗して“信用”とやらを水ぶくれさせる程度のことに過ぎないのだし、「政府/行政主義者」なら、国民の生産/経済活動に対してまるで悪さでもしているかのように難癖をつけては、収入が足りないと嘆く口も乾かぬ間に“ためにする税収”については巧妙に掠め取っておくという程度のことに過ぎない。
そういう恥知らずのことが平気で出来る能力を、この者たちは“高い能力”として主観していることになる。
つまり、この者たちは、自らの〈存在の醜さ〉を理解する能力に欠けているのであり、そのように教育されてしまった〈自己〉を再帰的に還元する契機も機会も喪失している。それゆえ、彼らに再帰的還元を示唆しようとする存在は、彼らにとってはだから殲滅すべき悪にしか見えない。
だが、わずかながら、何らかのアクシデントにより、ないしは何らかの恨みを買うことによって、こうした欺瞞集合体からスピンアウトしてしまうような人がいる。このような人の中から自己の再帰的還元に成功する者が現れ、いわば劣悪な集団主義を払拭した“解脱者/覚醒者”として振る舞い始めることがある。
現実には、エスタブリッシュメント側の過剰防衛機制によって「村八分圧力」が強まれば強まるほど、“解脱者/覚醒者”の生産機会も増大するのであり、したがって非生産現場において国民のなすべきは、エスタブリッシュメント側が過剰防衛機制を発動させる機会を可能な限り頻出させるべくそれぞれのやり方で努力することにあると言っても良いかも知れない。
これは、薄氷を踏むようなリスクを常にはらむ行為ではあるのだが、国民の側が〈構造〉を良く理解してさえいれば、〈実質的/本質的な富〉の生産に関与していない“間接者”とは、生産現場から遠ざけられることを畏怖し、防衛機制を発動せざるを得ない存在でしかないのである。
近代の達成してきた国民の側の勝利、例えば米国の公民権運動などは、そのような〈構造〉を熟知した者たちによる、構造的ダイナミズムを利用した粘り強い運動の産物とみなして良いだろう。(キング牧師の演説が時代が移り変わろうとなぜ、いつまでも色褪せないのか、それは彼が〈構造〉を熟知しよく分析し切っていたことによるものだろう)
私たちに華々しい勝利など必要もなければ、似つかわしくもないのである。むしろ、警戒すべきは、華麗な勝利の到来なのであり、あるいは華麗な勝利を約束してみせるようないかにもリーダー然とした人物だ)。
私たちは「救世主」も「衆愚の王」も、そういうものを一切必要としていない。
その点ついて、十分に自覚的に振る舞えるか否かが、今後の闘争における分水嶺にもなるだろう。
私たちに必要なのは、米の一粒一粒を育てるような粘り強い“覚醒者の育成”という行為にほかならないということだろうと思われる。

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コメント

お久しぶりです。
以下、とても感じ入ったので、引用します。
>私たちは「救世主」も「衆愚の王」も、そういうものを一切必要としていない。
私たちに華々しい勝利など必要もなければ、似つかわしくもないのである。むしろ、警戒すべきは、華麗な勝利の到来なのであり、あるいは華麗な勝利を約束してみせるようないかにもリーダー然とした人物だ)。
私たちは「救世主」も「衆愚の王」も、そういうものを一切必要としていない。
その点ついて、十分に自覚的に振る舞えるか否かが、今後の闘争における分水嶺にもなるだろう。
私たちに必要なのは、米の一粒一粒を育てるような粘り強い“覚醒者の育成”という行為にほかならないということだろうと思われる。<
えーと、僕も自分の都合とは全然無関係にやり直しを強いられて、チャレンジとは程遠い毎日で、今後も大した希望ないのですが、また今度の職場でコツコツやっています。帰宅が遅く、なかなか難しい文章を読む気力がないことが多いですが、粘り強いエントリーを応援しています。
再チャレンジは、高齢者向けのエールにもならなかったようで、全体主義的な気分に酔い痴れては国政を投げ出しいの、都政も投げ出しいのの石原と橋下が野合するそうです。前原でなくとも、「全く別々の考えの人が選挙対策で『大同』と言うのは、国民をバカにした野合だ」と言うしかないです。

投稿: 穣 | 2012年11月17日 (土) 07時34分

すいません。さっきは同じところを2回もコピーしてしまいました。目が覚めたつもりでしたが、まだかなり寝ぼけていたようです。明日も休みなので、また他のエントリーもゆっくり読んでみるつもりです。

投稿: 穣 | 2012年11月17日 (土) 13時24分

穣さま、コメントありがとうございます。

熱心にお読みいただき、感謝いたします。

石原の太陽の党とかいう党は、三日天下ならぬ三日坊主的な醜態をさらし、維新の党とやらに吸収されたようですね。

これほどの醜態、恥態をさらしても、恥ずかしそうな素振りもみせない。

何か後ろ暗く悲惨な人生を送ってきた者の、腐臭漂う怨念のようなものを感じさせ、このような人間にならないように人というものはいろいろ努力しなければならないのだなと、改めて感じる次第です。

「おお、かわいそう」
そういう感想しか出てこない人を、宗教以外の手段で救済する方法はないのでしょうか。

投稿: にいのり | 2012年11月17日 (土) 19時00分

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