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2012年11月26日 (月)

「正視に耐えぬ現実」、あるいは「小沢排除」の帰結として瞬く間に広がった社会的荒涼に関する点描。4

それにしても驚かざるを得ないのは、“左翼の巣窟”という偏見には違いない捉え方で見ていた『週刊現代』なる週刊誌の「橋下推し」っぷりだ。12/1の表紙には(確かにそれが好ましいとは書いていないが)『安倍―橋下連立内閣ができる』なる“断定飛ばし”をメインに持ってきている。
貧すれば貧するほど、経営と編集の分離が不可能となり、ますます集団癒着主義への強迫観念を亢進させることで、目前の問題にも中長期的な問題にも目を瞑り続けようとするマスコミ業界(新聞テレビ業界)が、私たちの前に醜く肥満だけはした図体で横たわり、私たちの行く手をはばんでいる。
私たちは、もはやこの業界が、堕落/寄生経営により、日本に生じつつある政界の分裂と再編の動き同様に、大きな分裂と再編の波に(本来なら)不可抗力的に飲み込まれるべき状況にあることを理解すべきだ。
今この業界で起こっていることは全てにおいて、尼ヶ崎での異様で特異な事件における容疑者の顔写真を業界横並びで取り違えていたのと同様の/同構造の事態に他なるまい。
もはや、この人々に経営倫理も報道倫理も殆んど残されていないとみなすべきであり、そのようにみなすべきこれまでの経験則によらない危機意識を持たなければ、私たちは自らの生活をこの者たちの間接的で無責任な力によって破壊されてしまうかも知れない。
大袈裟な比喩でもなんでもなく、この者たちが私たちに陰に陽に及ぼす影響力を考えれば、それは間違いなくヤクザと称される人々よりも明らかに危険であることが分かる。
真面目に暮らしてさえいれば、私たちはヤクザと呼ばれるような人との接点を持つ可能性は著しく低い。彼らにしても、黙々と真面目に暮らしている人々との接点をことさらに持ったところで、何ら“うまみ”はないはずであり、それゆえに私たちは多くの人々が彼らとは一生何の接点も接触も持たないまま過ぎることになる。
ところが、マスメディア=伝聞屋という存在の悪質な点は、真面目に暮らしていれば暮らしているほど、彼らは私たちに懸命に接触し、接点を持とうとしてくる点にある。
なぜだろうか。
ヤクザが真面目に暮らす人と接点を持っても“おいしくない”のとは裏腹に、マスメディア=伝聞屋にとって、(通常は共同体成員の多数に上る)真面目に黙々と暮らす人々が、様々な“情報”に接して、感情を揺さぶられたり欲望を刺激されたりして、他を羨んでむやみやたらと“成功者”となること(のみを)目的化したり、あるいは夢破れて(または要らぬ不遇感に苛まれて)犯罪でも起こしてくれることこそが、この上のない“うまみ”にほかならず、願ったり叶ったりだからだ。
事実、尼ヶ崎で生じた異様にして異常な犯罪の根っ子をたどれば、深層に横たわる犯罪動機に“情報”に必要以上に揺さぶられてきた容疑者の心性というものがプロファイリングされるべきような気がする。
しかし、あそこまで執拗で特異な粘着的犯罪行為というものは、もはや私たちの通常の欲望、欲求から発生し得る想像的現実をすら超越しており、“身に覚えのない”のは当然のこと、全く“身にしみる”要素がなく、フィクション以上にフィクショナルな絵空事としてしか感じられないものになってしまっている。
にも関わらず、マスメディア=伝聞屋は、警察の捜査状況を(これまた粘着的に)逐一報道し続けていたようだ。
なぜ、そんなことをするのか。
商売になるから、商売になるはずだと思うからだろう。つまり、彼らにとって特異な犯罪事件の発生は、商売繁盛の“のろし”にほかならないのである。
しかし、私たちにとって、それがいかに特異で異様な事件であっても、自分の「生活」からあまりに乖離して何の接点も感じさせないものについては、「情報価」としては低過ぎるものであり、したがって、そのようなものについては、「専門家」が粛々と処理してくれれば良いと考えている(はずだ)。
(実際、尼ヶ崎の事件は私たちの日常からは掛け離れ過ぎていて、そこから何らかの教訓を引き出すとすれば、私たちの日頃の努力のベクトルとは真逆のあるいは錯乱したベクトルを持つ“努力”を懸命かつ持続的にしてしまうような人が、この世の中には実際に存在することがある、ということぐらいしかない)
肝心なのは、本来のジャーナリズムが機能し、そのような「専門家」の処理の仕方におかしな点がないかどうかを観察していて、おかしな点があれば「みなさん、みなさんの信頼に応えるべき専門家/権力がこんなおかしなことをしていますよ」と知らせる点にあるはずだった。
しかし、報道倫理が反転し完全に倒錯状態を呈するようになってしまった現代のマスメディア=伝聞屋は、そういう機能についてはほとんど発揮しようともせず、それとは真逆に「みなさん、みなさん、ほらほらほら、世の中にはこんな変な人がいるんですよ、こんな危険な人がいるんですよ、こわいねこわいね、ほらほらほら、早くこっちを見ろよ、動揺しろよ、みんなで話題にしろよ、影響を受けろよ、ほらほらほら、ほらほらほら」と煽り立ててくるばかりなのだ。
一昔前なら、このような報道というものは「イエロージャーナリズム」として蔑まれていたのだし、それよりも時を遡れば、そもそも“報道”などという行為事態、まともな人間が携わるものではないと思われていた。
そして、そういう考え方には一面の真理がはらまれていることを私たちは忘れるべきではないだろう。
先にも少し触れたように、仮に「為政者/権力者」や「専門家」らが、粛々と業務を遂行するだけで、何の“問題”も起きない/起こさないとすれば、為政者の“御触れ”は中間媒体を介在させずに直接民衆に“発布”されるだけで良いことになる。
実際、“メディア=伝聞”などというものが発達する以前は、それに近い形式でずっとやってきたわけなのだ。
今でも日本の高級官僚は(その多くかどうかは知らないが)、「我々は選ばれた最高の頭脳として集結し粛々と仕事をしているのだから、国民も粛々とそれを受け入れろ。それで何の問題もない」と考えている節が見受けられる。
だが、最高の頭脳だろうが何だろうが、人間目先の欲得ずくに決然として打ち克てる者はそうはいない、ということは歴史があまねく証明してきている。
「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」……うまいことを言うものだと感心するしかない。
権力は絶対に腐敗するものである限り、どこまで腐敗しているのかしていないのか、注意深く観察/監視される必要がある。
権力にとって、腐敗とは老化のようなものだと言って良いのかも知れない。たとえ、いかにもっともらしいアンチエイジング対策を施していても、やはり老化にともなう新陳代謝機能の低下/老廃物の蓄積という物理作用はけっして阻止できないというのと同じような意味で。
権力が腐敗することによって、社会全体の発展を阻害する、そればかりか安定化の脅威にすらなるということの前に、健全な統治能力を有する別の権力に交代してもらうためにはどうするか。
「任期の絶対化」「選挙による交代」……まがりなりにも民主政体を持つ国家に住む者ならその辺はすぐ思い浮かぶところか。
しかし、プーチンがやってみせたように、「任期」といってもそれは個人の役職における任期に限定せざるを得ず、やりようによっては交代に見せかけた(合法性を装った)権力の維持はいかようにも可能だ。
「選挙による交代」も、今この瞬間、日本自身が苦しんでみせているように、見掛け上の権力と実権とが乖離/二重構造化し、選挙結果というものに実権自体は何ら左右されないようでは、システムの意味をなしていないと言わざるを得ない。
そこで要請されざるを得ないのが、「権力の状態、実態」を専任者として観察し分析する役を負い、広く人々に知らせる機能を持つものである。それが、権力と民衆の間に立って、権力の状態と実態を観察、分析し民衆に知らしめるべき「媒体=メディア」なのだ。
もちろん、一口に権力を監視し、その腐敗の兆しに警鐘を鳴らすといっても、民主政体においては、権力に対する評価も多様たらざるを得ない。それゆえに「メディア」も複数あるのが望ましいことになる。
このような経緯から、かつては「ハーメルンの笛吹き男」や「狼少年」の嫡子と思われていたような「つぶやき屋」/「騒乱屋」=伝聞屋/扇動屋らに、「媒体」としての社会的な重要な役割を担わせるようになったというのが近代以降の一般的な社会体制ということになるだろう。
私は、「学者」のように語ることは出来ないが、しかし、こういう発生の現場への視点を、現状分析に常に繰り込んでいくことは重要だろうと思う。
メディアばかりではない、そもそもの「言語」の発生、「貨幣」の発生、「共同体」の発生、「権力」の発生、「株券」の発生、「為替」の発生。
全てに起源はあり、発生時にはそれらにも何らかの必然性/必要性/利便性などがあったはずなのであり、それらが今でも継続しているからには、その必要性も0にはなっていないはずだ。
しかし、起源からの視点を現状に挿入することで、現在の腐敗度、歪み度、倒錯度なども相当程度的確に測定できるはずなのであり、例えば、必要性100のうち50以上は欲しいところで20程度の測定値しかなければ、内閣の支持率同様、それは必要性の著しく低いものが単に慣性によって継続しているという意味で、「社会問題」として議論の対象にならなければならないはずだ。
吉本隆明は、資本主義のことを「無意識の創造したという意味での最高傑作」と看破したが、最近の経済学はやっと合=理性が形成する経済システムという信仰から脱却し始め、人間の無意識が一見合理的に見えるようなシステムを形成したとき、それを、どう捉えれば暴走や破綻を回避し、持続可能性を維持できるのかという論点に立脚点を移しつつあるようだ。
起源の場から、“伝聞屋”とヤクザを眺めるとき、この両者はほとんど社会的には同様の場から発生していると言えるだろう。
すなわち、権力の統治構造のアウトサイドにこぼれ落ちた者たちが、それゆえに権力側から容認し難い行動原理を採用し、それによって共同体=内=共同体を形成したという意味で。
この辺りの事情について重大なのは、現代のメディア=伝聞屋の“構成員”は、暴力団=ヤクザの構成員よりもはるかに自覚が低くなっているということにほかなるまい。
本来なら特殊な共同体には、仮に普遍性に欠如していても、特殊なりの特殊な矜恃があってしかるべきものだったはずだ。
そういうことが自覚できなくなるほど、伝聞屋の側は(いともブザマに)権力構造内に取り込まれてしまい、“社会に役立つ真っ当な職業の一”として“格上げ”されてしまった。
しかし、やっていることは相変わらずで、他人の不幸をカネに変えて喰うこと、それが伝聞屋の稼業の本質なのだ。
通信が発達すればするほど、例えば殺人事件の“報道”など、無関係の人間にとってはどこまでも無関係のはずだ。現代人にとって自分にも直接関わりがある大きな出来事については、ほぼ必ずといって良いほど通信によってもたらされる。
にもかかわらず、素朴な時代以上に、殺人事件“報道”は横行し、場合によっては私たちを「総推理小説家化、探偵化」せしめ、しまいにはメディアによって大々的に報道されることを予め想定した愉快犯型犯罪者さえも“生産”するようになっている。
つまり、殺人事件“報道”の抑止力など、新たな犯罪者を“生産”しているという意味で0以下ということになるのであり、何か役割があるとすれば、そこには法廷以前のでたらめな社会的制裁機能しかない。
こういう、社会に害悪を撒き散らす“伝聞屋”が、しかし、時に必要とされるのは、権力を監視し、権力構造内の問題を摘出する限りにおいてだろう。
だが、それだけでは飯のタネにならないだろうから、その他の“伝聞活動”も、やむなく容認されているに過ぎない、本来なら。
しかし、今や、権力監視機能は放擲し、むしろ胡麻スリによるおこぼれや残飯を頂戴しながら、私たちが生きて行く上で必要もないことを面白おかしく“実話”として盛り上げる機能のみを最大化しているのが、我が国に未だにのさばっている「日本新聞協会」加盟の倒錯した“伝聞屋商人”の変質的実態なのだと言える。

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