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2012年12月23日 (日)

前回のエントリーが検索結果に反映されないため再掲します。(一部、校正あり)

いかにも三流週刊誌ふうの標題で始めてしまった今回だが、しょせん三流週刊誌などというものは、からかわれてナンボ、白眼視されてナンボの商売をしているのだろうから、本望ではないだろうか。
『週刊現代』の新春デラックス合併号だか合併症だか知らないが、その巻頭記事は、『2013年日本を読み切る』と題してお下劣マスコミ界のロートル兵たる立花隆と後藤謙次を登場させた上、『さらば、民主党。あー、スッキリした』なるタイトルの編集部側のコラムとみて良いだろうものをサブに配置している。
特徴的なのは、『日本維新の会』とやらが国政進出を明言して以降、何かに取り憑かれたかのように「維新だ橋下だ」と連呼していたこの週刊誌が、大言壮語の挙げ句の果てに今一つ勝ち切れなかった同党の選挙結果を見た途端、見事なまでの「口拭い」「頬かむり」「掌返し」をし、なかったこと、見なかったこと、言わなかったこととしてしまっている点だ。
日本のマスコミ界に巣食う人々の典型的症例が、この『週刊現代』なるピンボケ血迷い雑誌に集約されていることに私たちは“劣化左翼、劣化リベラル”の現実をみて、他山の石となすべきだろう。
『維新』に対しては、まぁ無難なスタンスに終始していた同日発売の『週刊ポスト』が、『橋下・維新はなぜ失速したのか』という検証型座談会記事をきちんと掲載しているのとはあまりに対照的である。
「自己検証」と「寛容」を喪失した者たちは、どんなご立派な“政見/イデオロギー”を標榜しようとも、どれほどご立派な権威や勢力に追随しようとも、信用するに値しないことを私たちはこのような時こそ肝に銘じるべきではなかろうか。
ネットの掲示板系の“言論”にあっては、「自己検証」と「寛容性」を喪失し、他者からの批判/苦言を端から拒否し、なぜそのように断言するのか一切不明であるような“発火性の爆竹言語”とでも言うべきコケおどかしの短文ばかりが飛び交っている。この手の言語を日常的にシャワーのように浴びていると、吉本隆明が日頃口にしていた「無意識が荒れた」状態の中に身を浸してそれに慣れっこになってしまうことを意味するしかなく、精神衛生上もはなはだ不潔な状態に陥ると言うほかない。
深刻なのは、素人が昇華の回路を持たないまま群がり集まるネット言論のみならず、一応は言葉/言論で飯を喰っているはずのプロの「新聞テレビ雑誌屋」の皆さんすらも“荒れた無意識”によってプロの水準以前の仕事をして平気でいる点にある。
『週刊ポスト』には、いみじくもそういう点を考えるにあたって、非常に重要な手記がひっそりと隠れるように掲載されていた。
佐野眞一による『ノンフィクション再論』という手記だ。
私は、素人の向こう見ずで、ノンフィクションを近松の「世話物」が堕落した「下世話物」だと罵倒しもしたが、しかし、ノンフィクション界の重鎮である佐野眞一が、“あの事件”の後に厳しい「自己検証」と「再起への決意」を内容とする手記を発表したことは、我が国の言論の健全性と建設性を維持するにあたって、かなり重要なことだと考える。
私は、「プロにはプロの自負と矜恃が、素人には素人の粋と気っ風」がなければならないと考えている者だが、今、“世間”を見回すと、いたるところに人々に対して妙な“影響力”を発揮したくてしたくてたまらない欲望のみが伝達内容として伝わってくるような言論が氾濫しており、プロの言論も素人の言論も、保持すべき最低限の礼を失しているのではないかと思えてならない。
「お前がそんなことを言えた義理か」と言われてしまいそうだが、しかし、こんな私でも、最低限の礼を失しないためには、どのような表現/文体があるのかということについてかなり常に意識的であるという自負はある。
プロならプロなりの等価交換に耐え得る倫理と水準が、素人なら素人なりの贈与交換に賭ける倫理と水準が意識されなければならない。
「等価交換」を成立させるためには常に一定の水準以上の質の確保が求められるのだし、「贈与交換」が成立するためには、妙な言い方になるが「これは等価交換ではない贈与物であるという強い自覚」が必要になるはずだ。
プロ野球(大リーガー)のイチローがあの年齢としては異例と言われるヤンキースとの複数年契約を成立させたようだ。彼の中には、自分のプレーは多額の貨幣との等価交換に値するという強い自覚と自負があることだろう。
そのようなプロフェッショナルがプロらしい表象を為す時、私は称賛を惜しもうとは思わない。
だが、素人の手作りクッキーにも劣るようなものを、「宣伝」だの「権威」だの付随要素のオブラートでこれみよがしにくるんで「喰え喰え」と強要してくるものについては、容赦のない罵声を浴びせたくなる。
この三年間、あまりにもあからさまな形で、我が国の司法検察官が為してきたこと、我が国の総理大臣が為してきたことに口を拭って、通常の選挙が行われたかのような言葉を吐き散らかすのは、プロとしては完全に失格のはずなのであり、そういう失格者たちが、プロフェッショナルの立つべきフィールドに存在しているべきではないはずだ。
そういう点について、逃げずに正面から答えようとした佐野眞一の手記はしかし、多くの者の目には止まらずに、見過ごされることだろう。
プロの物書きなら、必ず気付くべきその手記は、話題にもされずに葬り去られることになるだろう。
それが、恐らく我が国の言論の水準であり、それを象徴するのが『週刊現代』の立花隆と後藤謙次の次のような会話である。
(以下、引用開始)
立花…今回の選挙でどこに投票したらいいか、投票所に行くまで迷っていた人は、名前を見ただけであいつかとわかるような人には投票したくないという心理があったと思う。この政治的閉塞状況を作ったのは、あいつらだ。今度は名前を知らない、可能性を感じさせる奴にしたい。
私自身も同様で、投票所に行って、名前も知らない若い人に入れようとプロフィールなどを読んで決めました。
後藤…確かに今回の選挙では民主の長老議員が、自民の若手や新人に小選挙区で敗れるケースが相次ぎました。横路孝弘さん、藤村修さん、仙谷由人さん…。
立花…オールドジェネレーションがどんどん去っていくのはいいことです。ページをめくらないことには、日本が変わらない。本人は勝ったけど、小沢一郎ももう終わりでしょ。時代は変わりつつある。
(以上、引用終了)
選挙/政治を語って政策についてはほとんど語らないというのは、今に始まったのではないこの人たちの常套手段だが、特にあっけにとられざるを得ないのが抜き出した部分だ。
あいも変わらず「自己検証」というものを一切しようとしないこの人たちは、だから、自分の予測が外れようと、どれほど日本の置かれたリアルな現実から乖離していようと一切気にしないのであり、どこまでも無頓着な無責任さを貫くばかりである。
立花あたりは、選挙にあたって『名前を知らない』若い人に入れたらしいのだが、名前を知らない人の名前をどうやって投票用紙に書いたのかは一切不明だ。恐らくここは「名前を知られていない」と言うべきなのだとは思うが、あまりバカにしては単なる誹謗中傷になってしまって良くないのでほどほどにしなければなるまい。
それにしても、まともな人間なら既に誰も関心を示さないアナクロな「自画像」を想像してみる意思も能力もないこの人たちというのは、平気で『オールドジェネレーションがどんどん去っていくのはいいことです』などと主観では気の利いたことを言ったつもりでいるらしいその様子が、いかにも恥ずかしく、その恍惚ぶりには二の句がつげない。
私は、最初の方でこの二人を「お下劣マスコミ界のロートル兵」と形容したが、老いさらばい、うらぶれた姿を平気でさらし、政局を語って政策を語ることのない、いかにも胡散臭いロートル兵たちが、いつまで経っても雑誌や新聞やテレビでデカいツラをさらしてはのさばり、それを恥じようともしないがゆえに、いまやマスコミ不信はまさに燎原の火のように燃え広がりつつあることを、この人たちは少しでも意識したことはあるのだろうか。
自分の頭でモノを考えようとしない無能で無責任な編集者は、“名前を知っている権威”をただやみくもに安全パイとしてのみ使い、それで事足れりとしているようなザマだから、いつまで経ってもオールドジェネレーションそのものであるような老残が醜き躯をさらし悪臭を放ってやまないような事態となるのだ。
「自己検証」なき人々は、砂に首だけ突っ込んだ駝鳥のように、脳に比べてやたらとデカい肢体をほとんどさらしながら嵐が過ぎ去るのをひたすら待っている。
しかし、嵐が過ぎようとどうだろうと、「見ろよ、あの格好を。もう、うんざりだろう」と嘲り笑いながら四方八方で楚歌を歌う者たちは、この者たちの居場所を包囲しながら少しずつその範囲を狭めつつあるのだ。いつになったらこの人たちは、その現実に気付いて「自己検証」を開始することができるのだろう。
『さらば、民主党。あー、スッキリした』なる無署名のコラムには次のような箇所がある。
(以下、『』内、引用)
『「実は11月25日の段階で、民主党役員室では、平野博文元官房長官や城島光力財務相など、これまで連合の力で当選してきた議員の落選予測が出ていたんです。ところが執行部は、テコ入れすらしなかった。純化していくために、労組の支持を受けた組織内候補は不要と判断したのでしょう」
かつて連合は小沢氏と蜜月の関係にあった。ここでも結局は、「小沢憎し」が作用したのか。だが連合の助けがなければ、民主党はぽっと出の日本維新の会と同レベルでしかない“中小政党”だということが証明されてしまった。』
妙なところにまで小沢一郎の悪口が顔を出すのは、署名もしないこの人たちの偏執的常套句でしかないのだろうから、どうでもいいのだが、それよりもついこの間までは「やれ維新だ、それ橋下だ」と連呼し、オダをあげていた同じ週刊誌が、選挙結果が出た途端、『ぽっと出の日本維新の会』などと形容して素知らぬ顔をしているのは、いったいどういう風の吹き回しなのだろう。
一時期、「反省だけならサルでも出来る」とかいう言い回しがそこそこ流行ったことがあるが、「サルでもできる反省すら出来ない」のは、民主党の執行部を中心とする面々ばかりではなさそうだ。
こういう言論をもてあそんで、一切の「検証能力」に見放されたかわいそうな人たちというのは、からかう以外にどんな扱いようがあるというのか、私のような者には想像することさえ出来ない。
民主党の落選議員同様、こういう人たちも世の中から“落選”していただきたいものだが、いかがだろう。

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コメント

初めておじゃましてから,とてもたくさんのことを学ばせて頂きました。ほんとうにありがとうございます。あらためて感謝申し上げます。 どうぞよいお年を!

投稿: 植杉レイナ | 2012年12月30日 (日) 06時57分

植杉さま、ありがとうございます。
こちらこそ、いろいろと情報をいただいたり、アドバイスをいただいたりで、大変お世話になりました。
ブログも拝見しております。
来年もまたよろしくお願いいたします。

投稿: にいのり | 2012年12月30日 (日) 14時31分

寒い年末ですが、日曜出勤してやっと解放されました。正月休みは寝て暮らすつもりです。僕は本もあまり読まないのですが、またお世話になります。良いお年をおむかえください。」

投稿: 穣 | 2012年12月30日 (日) 15時00分

穣さま、ご丁寧にありがとうございます。
私は、しょーもない低賃金サービス業ですので、年中無休です(´Д`)
何とか生き長らえながら、ブログ更新して行きたいと思っております。
どうぞ、良いお年をお迎えください。

投稿: にいのり | 2012年12月30日 (日) 18時05分

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