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2012年12月 9日 (日)

安倍晋三は、歴史に残る立派な指導者になることができるだろうか。2

前回のエントリーで、私は次のように記した。

>政治家の〈業績〉とは、結局、反対勢力の者すら一目置かざるを得ないような、あるいは納得せざるを得ないような〈結果〉を残した時に確定する。

無責任な、あるいは責任能力に欠如した「予測屋、予想屋」のような“ヤクザ”な仕事とは異なり、政治家は〈結果〉を出さなければならない。
政治に“最適解”のようなものがあるのかないのか知らないが(多分、ないのだろうが)、一国の指導者ともなれば、自らの支持者・支援者あるいはブレーンの言うことばかり聞いて、その他の国民は存在していないかのような振りをするわけには行かないだろう。
かといって、選挙期間中に自らの、また党の考えとして国民に約束したことを一切反古にした上、それではあきたらずその約束と真逆の事を突然“決めてしまうような”詐欺師のようなことは、少なくとも一人前の政治家なら出来るはずもない。
つまり、政治家にとってジレンマは常態なのであり、「ゲーム理論」のように面白おかしく“最適解”を導出して、「この解を受け入れよ」とすましていられるものではない。
政治家の〈決断〉とは、私が前回記したように、『反対勢力の者すら一目置かざるを得ないような、あるいは納得せざるを得ないような〈結果〉』を出すためになされるものかも知れないが、私は一つ重要なことに言及するのを忘れていた。
政治家は、『反対勢力の者すら一目置かざるを得ないような、あるいは納得せざるを得ないような』〈決断〉をするにあたって、自らの支持者・支援者が必ずしも全面的に賛同してくれないかも知れない結論にいたるかも知れず、したがって自らの〈決断〉を有効ならしめるためには、支持者・支援者への説得、あるいは彼らにある種の“反省”を求めるようなパースペクティブの展開等が不可欠だということだ。

前首相菅直人及び現首相野田佳彦は、突然、消費税増税政策を打ち出すにあたって、自らの支援者・支持者にどんな説得を試みただろうか。どんな説得力あるパースペクティブを示しただろうか。
官僚にレクチャーされた程度のことをごにょごにょとつぶやいていたような気もするが、そういうことは全部承知の上で前回私たちは民主党に政権をとらせたのではなかったか。
いかにして官僚と闘うかを私たちは見ようと思っていたのに、見せられたのは「事業仕分け」なる法的根拠も何もない楽屋裏の一部分だけで、結局それも、誰も笑うことの出来ない“楽屋落ち”でしかなかった。

彼らは国民はおろか、党員にすら政策の180度転換を説明も説得もしていなかったゆえに、その結果として時の与党から多くの議員が離脱するという前代未聞の政治現象が引き起こされたのだろう。
彼らの主観では“追い出した”つもりなのかも知れないが、国政の実権を握る政権与党から途方もない数の離脱議員が出現するなどということは、明らかに政治的異常現象なのであり、そういう異常現象を引き起こした与党執行部というものは、本来なら何らかの責任を取るべきなのだし、あるいは少なくとも自らの責任の取り方を、支持者・支援者に問うて/伺って然るべきだ。
国民全般はおろか、自らの支持者・支援者にもそして党派の仲間にも何の説明らしい説明もせずに、単に無責任な煽り屋たる新聞・テレビ屋が味方についたことを良いことに、政権担当着任時とは180度異なる主要法案を平気で国会にかけ、野党まで巻き込んで可決させる。
「説明がつかない」とはこのことであり、未だに何の説明らしい説明もしないまま、テレビ屋に「消費税増税に賛成ですか?」などと問われて○の札を掲げる。
かつての郵政法案もそうだったが、「説明のつかない」やり方で(誰がせっついているのか知らないが)法案だけは通すような“可決パフォーマンス”みたいなことをしているから、「消費増税に賛成ですか?」などという問いが問いとして未だに成立してしまうという体たらくがまかり通っている。
本当に大丈夫なのだろうか、各々方の頭のほうは…。

結局、自分の頭を嫌というほど悩ました挙げ句に出した結論ではなく、誰かヨソの人間あるいは訳の分からない“権威”に命令されたか唆されたかした“政策”に過ぎないために、「責任」を取る気もなければ、その気にもなれないのだろうということが見え見えなのだ。
つまり、最初から無責任な新聞テレビ屋と同じ次元にまで政治家自身が堕ちて恥じなくなってしまっているのだ。

少し具体例に踏み込み過ぎたので、話を戻そう。

政治家には、状況の変化によって、時として、それまで主張していたこととは若干異なる、あるいは支持者・支援者を十分に満足させられない〈決断〉を下さざるを得ない場面が訪れるだろう。
そういう時に、どうするか?
言葉を尽くして支持者や仲間を説得する、あるいは行動によってつまり身をもって示す……その手際、手さばき足さばき、それも国民全般にとって、誰が〈重要な〉政治家とみなすべきかの指標となる。

お前は小沢シンパだから言うのだろうと言われるかも知れないが、小沢一郎が、噂だけにはさとい新聞テレビ屋にすら気付かれないような形で滋賀県知事を説得、「日本未来の党」の結党と、そこへの合流を電撃的な早業で決めてみせた際の手さばき足さばきは見事なものだったとしか言えない。
新聞テレビ屋に宣伝広告してもらいたくてワイワイワイワイ騒いでばかりいるような凡百の政治家にはとても追い付けないスピードだったのであり、それは私たちシンパにしても同じだったろう。

しかし、そこには「政策的合意性があれば、そういう動きは一気呵成にできる」という小沢一郎の信念が貫かれていることが理解できるがゆえに、私たちは彼のすることに納得することになる。

こういう動きによって小沢の元を離れて行くような者は、所詮は小沢からのおこぼれが欲しくて欲しくて、ひな鳥のように大口を開けてピーピー鳴いていたような政治屋のみだ。(国会を見渡せば、それなりの政界ウォッチャーなら一人一人指摘できることだろう)

安倍晋三は、その政策はいざ知らず、政治家の有り様という面において小沢一郎に学ぶべき点が大のはずであり、彼にそういう向上心が、ひいては国会議員全体にそういう謙虚な向上心があれば、「決められない政治」などという意地の張り合いなど自ずと遠くに退いて行くはずなのに………と、私の楽天的な部分は私にささやく。

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コメント

今日のDaily Cafeteriaより引用。
『 一国の指導者ともなれば、自らの支持者・支援者あるいはブレーンの言うことばかり聞いて、その他の国民は存在していないかのような振りをするわけには行かないだろう。 』
吉本隆明『中学生のための社会化』 第3章-国家と社会の寓話「自由な意志力」とは何か- p.163より引用。
『 統率力のある指導者というのはファシズムであってもロシア=マルクス主義であってもダメな人物であると言っていい。 』
月刊誌『選択』2012年12月号の連載〈政界スキャン〉334   p.53より引用。
『 リーダーの政治力とは何か。有能でなければならないのは当然だが、自己犠牲に徹する覚悟が備わった時、国民は敏感に嗅ぎ取り、運命を託そうとする。 』
この『選択』記事の筆者=地雷氏の古風さはさておき,政治家の“決断”は誰のためになされるのか。決断の根底には“国民の生活の未来”があるべきで,その覚悟がない政治家には“とりもどす“ような“日本”はないでしょう。
吉本隆明が講演会で何度も言った《主人公は身銭を切ってやってきた公衆だ》ということばが『情況への発言』にあったことも,おもいだします。新聞・テレビを身銭を切って見聞きしているという自覚が,わたくしたちに欠如していないかは,きっと,とても重要なことのひとつなのでしょね。

投稿: 植杉レイナ | 2012年12月10日 (月) 15時04分

植杉さま、コメントありがとうございます。

吉本隆明の本、そんな本も出していたんですね。

ファシズムも、ロシア=マルクス主義も、19世紀後半から20世紀前半を席巻した民主主義なくしては存立し得ない思想であり、その意味で、21世紀になった今も私たちは、その危険性を払拭し切れているとは言えないのでしょうね。
自由主義とは、ファシズムやロシア=マルクス主義に対抗する上で重要な思想だったはずなのに、自由主義が20世紀後半から今日まで、これほど危うい思想になってしまうとは思いもよりませんでした。

柄谷行人の哲学の起源についての思考は、そういう意味では、近代の起源となった諸思想の根源を問い直そうとするもので、非常に貴重なものではないかと思います。

ギリシャ思想の根源を問い直すことは、吉本の〈アフリカ的段階〉についての考察と呼応することになるのではないかと勝手に予想していますが、
坂本龍一の「たかが電気」という思想の言葉が、
実利しかみない人々によって下劣な攻撃を受け、まともな議論として成立しないほどに
現代日本の言論空間は劣化していると思います。

音楽の分野では、「アンプラグド」という言い方はかなり前から用いられており、エレクトロミュージック、コンビューターミュージックもいいけど、ミュージシャンとしては「アンプラグド」は、「音を奏でる」という意味における原点だよという意味で、「アンプラグド」な生も実行しないまでも常に視界に入っている、繰り込んでいる
〈アフリカ的段階〉から現代を照射する
それは未来の人類が現代を見る視線とイコールであるという考え方

こういうことは、思考実験の側面もあるので、政治言語として展開するのは非常に難しい点もあるのですが、
可能性の問題として政治の言語もそういうところまで窓が開かれていなければならない
あるいは触手が伸びていなければならない。

可能性の問題として思想言語と政治言語が接触し得る自由度を獲得している“場”、それはやはり小沢一郎が関係してきた場にしかないのが日本の現状だと思います。

日本の無自覚な買弁勢力は、自らの無知と無感性と無能に開き直り、日本にある〈可能性〉の芽を摘んで回る役割を果たしている。

どうにも許し難いことだと思っております。

投稿: にいのり | 2012年12月10日 (月) 19時40分

『日本の無自覚な買弁勢力は、自らの無知と無感性と無能に開き直り、日本にある〈可能性〉の芽を摘んで回る役割を果たしている。』
このことばは,「日本の無自覚な学者・科学者・大学人などなど」というところまで言い当てているとおもいます。
あと,アッタマ悪~い人間の好悪でしかないですけれど,柄谷行人は批評の批評をしているみたいで,胸に迫る感じの文章とは違うかなあ,と,本は読んでません。(こんな感想も,すでに1980年代に吉本隆明が言ってしまっているはずです。そのあとに,なんか頑張れ,とかも言ってるのですけどね。)でも,おすすめの1冊があれば,読んでもいいかなあ......
そして,たとえば〈文化におけるアンプラグド〉は,〈原初的〉から〈下等(動物的)・本能的・低級 〉という偏見ある意味を排除したとおもいます。で,蛇足ですが,わたくしの暮らしを気持ちよく彩ることに勝手気儘に腐心しているので,本箱の本も棚のCDも,これとおもうと全作品にこだわっていて,とても偏っています。

投稿: 植杉レイナ | 2012年12月11日 (火) 12時52分

植杉さま、コメントありがとうございます。

私も身近に置くものは、同じですね。
ブログを始めてから、からかうために朝日新聞を読むなどということもしましたが、
素人ですから、好きなものだけがあります。(仕事にするなら、そうはいかないですよね)

柄谷行人に衝撃を受けたのは、『日本近代文学の起源』で、これはまだ若いころの作品でしょうか。
もともと文学系の人間ですので、その内容は衝撃的だったのですが、一般向けではないかも。
とにかく、柄谷の場合、起源に向かう思考に学ぶべき点、多々ありです。
起源を考察することによって、通説、俗説、常識が次々と覆されていくのは、やはり衝撃的です。

投稿: にいのり | 2012年12月11日 (火) 15時15分

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