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2012年12月 3日 (月)

『維新』+マスメディアによるコラボレーションは、『ドンキホーテ商法』だ。

私が『維新ナントカ』にこだわるのは、やはり、その周囲や楽屋でうろちょろと見え隠れしている雑駁に言えば「新自由主義者」らの思惑に、私たち日本人がもうこれ以上乗せられてはならないと思うからだ。
私は以前、当ブログで、『維新ナントカ』を評して「サムスン型政党」と記した覚えがあるが、以降の右往左往振りを眺めていれば、「サムスン」のようにまがりなりにも世界の一流企業として名を馳せるまでにいたった企業と比較するのはいかにも失礼にあたることが分かって来た。
それでも、あるしゅの“商法”により、一定の知名度を浸透させて現在にいたっていることも事実である。
そこにはだから、なにがしかの先行した成功例としてのマーケティング手法が援用されており、それを的確に指摘しておけば、この「政治党派」のやり口の先が見えてくるのだし、その限界も見えてくるはずだ。
前回において、『維新』の広告宣伝を担う役割を請け負っていると解せるこの国の主要メディアは、それが“誤報”と同等の意味を有するにも関わらず、何食わぬ顔で、次から次へと変遷していく“基本政策”をその都度垂れ流してはしらばっくれていると指摘した。
こういうことというものは、社会倫理的に非難すべきものであるのは当然なのだが、だからといって、それを実行している当事者にそうした非難が“効く”か否かということになると「さして効果的ではない」とも言わなければなるまい。
「新自由主義者」として今や概括されることになった人々の特徴に「伝統的社会倫理」の喪失、あるいはそれに対する意識的な反抗という側面が見られるのであり、彼らは自らの「反社会倫理」的な言動について「合理性」というマジック用語を持ち出してきては糊塗するのを常套手段としている。
だが、彼らの唱える「合理性」がこれまで本当に「合理的」だった試しはなく、彼らの唱えた「完全な自由競争こそが均衡をもたらす」というなりふり構わぬ机上の空論は、「リーマンショック」を象徴とする「自由競争を騙る御都合主義の放逸と錯乱の表面化」によって崩壊していることが確認されてから、既に4年以上が経とうとしている。
しかしながら、一時期は世界を席巻しかけたようにすら見えた彼らの思想/思潮が、その杜撰な正体を露にして崩壊したからと言って、人間生きることをやめるわけには行かないのだから、それによって生じる混乱がカタストロフィに至らぬよう、なだめなだめしながら、新しい秩序を模索しているというのが、「今」という時代なのだとみなして良いだろう。
厄介なのは、「完全な自由競争こそが均衡を達成する」と唱えた者達は、しかし以前のロマノフ王朝のように打ち倒されてもいなければ、ソビエト政府のように自壊もせずに延命している点にある。
正確に言えば、「延命させてもらっている状態」なのだと思うのだが、それを良いことにと言うべきか、命ある限り「机上の空論」をどうしてもどうしても証明したくてしたくてたまらない人々が、未だにパラノイックな活動を継続して恥じようともしていない点にあると言えるのではないか。
むしろ、「机上の空論」であったことが既に実証された後であるがゆえに、「政治的な力」を強引に関与させてでも、「けっして机上の空論なのではなく、天上の正論」などと言い出しかねない勢いで、以前よりも遥かに悪辣化、悪質化、悪徳化しつつある点が余計に混乱を助長させていると言える。
かつて「共産主義」の“理想”を、たとえ見掛け上だけでも達成しているかのごとき“証明”をしたくてたまらなかった人々が、急進主義に駆られて人々を放逐したり虐殺して回ったように、「新自由主義」の“正しさ”を証明したくて躍起になっている人々は、今や“怨念”を内に秘め、例えばポルポト政権のような絶対権力を握ったなら、21世紀の時代にあってさえも人々を虐殺する勢いの苛政を敷きそうな“闘志”を燃やしていると見て構わないだろう。
その象徴的事例が、自由貿易に名を借り、小国相互の連帯のアイデアを横取りし、経済界のみならず法曹界をも巻き込んで練り上げられてくる「TPP」のような“帝国資本主義”的策動である。
「絶対的平等社会」を建築すると唱えていたはずの「共産主義」勢力が権力を握った途端、「平等社会」を実現するという“理想”に名を借りて「下放」だの虐殺だのを始めたのと同様に、「自由貿易」に名を借りた“帝国”の膨張意志とその意志に沿わぬ者に対する排除戦略。
それが、今日の「新自由主義」の実態/実相とみなすべきであり、その尖兵が「下克上」意識に乗っ取られて我を失いながら猪突猛進しようとする自称“グローバリスト”たちにほかならない。
「共産主義」や「新自由主義」といった「合理性」を全面的に打ち出すイデオロギーの下で、実働部隊として蠢く人々の心性にあるのは、決して合理的でスマートな動機ではなく、どろどろとした非合理な“怨恨”や“憎悪”や“敵愾心”などであるのは、その蠢き方によって明らかだと言わなければならない。
「ドンキホーテ商法」に言及しようとして、話しはどんどん「ドンキホーテ」とはまるで無関係な方向に展開したことをこの辺でお断りしなければならないが、
まず申し上げたいのは、「科学」の発展と軌を一にするように蔓延し侵入しようとする「合理性カルト」を私たちはまず俯瞰できるようにすべきということであり、
彼らが強いてくる“合理性”の軛から脱するためには、彼らが商業的な成功例から抽出して自己正当化の一助として流用してくる様々な具体的戦略をその都度指摘していくべきだということだ。
その一点に、「ドンキホーテ商法」というものがあるのではないかということを言ってみたいのである。
もちろん、断わっておかなければならないが、「ドンキホーテ商法」を「新自由主義者」らが流用しようとしているからと言って、「ドンキホーテ」が何か悪辣なことをしていると言いたいのではなく、商売上の工夫として考案された独特の商法が「政治」に流用されて人々を眩惑しようとしているということをここでは言いたいわけだ。
さて、小売り業界では既に独特の地位を占めるに至っているであろう「ドンキホーテ」という店舗に入店したことのある人は誰でも気付くことだろうが、
まずは、商品の陳列棚が通常よりやたらと高く、入店しただけでは店舗の全容が見渡せないことがこの店の特徴と言えよう。
これまで私たちが慣れ親しんで来たスーパーマーケット系の大型店舗は、入店すると同時に広い空間と豊富な品揃えに圧倒されるような仕掛けになっており、一種の浮遊感/高揚感が与えられるような仕組みになっている。
私たち消費者は、財布の中身とは無関係に、広大な店舗内を遊泳する気分になり、いつしか無駄買いまでする、無駄買いしないまでも独特の高揚感を味わいにまたその大型店舗に行きたくなる。
しかし、「ドンキホーテ」はこれら既存の大型店舗とは真逆の手法を取る。
入店すると、陳列棚に邪魔されて空間は見渡せない。しかし、外部からは大型店舗だということは分かっているので、この奥にいろんなものがあるのだろうと予測することになる。しかし、陳列棚によって仕切られた店舗内は一種の迷路のようになっており、いつしか私たちは「密林を探索する人」になっている。
従来の「宇宙遊泳的浮遊感」から「密林探検的お宝探し」への転換。
ここでどんな心理的転換が起きているのかと言えば、「店先に並んだバーゲン商品にたかる数多の客の一人」から、「店内にひっそりと隠れていたお宝的廉価商品を探し当てた私」になるのである。
まず第一に『維新ナンタラ』は流通業界の「ドンキホーテ」のように登場してきたのだ。
さらに、既存の大型店舗は、見晴らしを良くして、商品の位置案内を明確にするサービスを実施しているが、「ドンキホーテ」は、全く逆の密林効果、迷路効果を施し、必要としていた商品の陳列棚にたどり着く前に、他の商品棚が行く手を遮る仕掛けを採っている。
「モノを購入しに来た人」は「安くてオトクなものは購入しておきたい」という動機を既に十分有しているわけだから、財布がさして痛まない「安くてオトクらしいもの」に次々と遭遇せざるを得なければ、「ああこれもいいね、へえこんな商品もあるの?わぁこれってドンキのオリジナルなの?」というように次から次へと“目に付く品”が現れて来ること自体に面白み、喜びを覚えるようになる。
しかも、陳列棚の秩序は雑然としており、極端に言えば電器コーナーの角を曲がると女性の下着売場だったりするわけで、その意外性自体が一種の楽しみにもなる。
『維新』とマスメディアのコラボレーションにおいては、「誤報」同等の目まぐるしく変遷を繰り返す千変万化の政策が人々の耳目を刺激しており、一般的に言って、人は自分の気に入ったもの、目を付けたものについては記憶力を働かせるように出来ている。
「ドンキホーテ」のような雑然を嫌う人は最初から最後まで嫌い続ける傾向にあるのだが、それ以外の「お宝探しモード」に入った人は、自分のお気に入り部分にのみ記憶力を働かせ、「え?でも、橋下さんは原発反対って言ってたでしょ?」とか「あれ、消費税の増税には慎重だったよね、きっとそっちが本音だと思うよ」とか、自分がピンポイントでピックアップしたと思い込んだ“商品”にシンパシーを働かせるようになり、それを自己判断の賜物だと思い込んでいくのだ。
このようなわけで(マスメディアの世論調査なるものに仮に信憑性があるのだとすれば)、これほどの変遷を既に選挙前に示してみせている「民間では通用しそうもない」集団なのに、なぜか見放されない“効果”が生じることになり、有権者側は誰かに依頼されたのでも唆されたのでもなく「自分が見つけた、自分で判断した」と思い込んでいるのだ。
こういう、マーケットにおける先行の成功例を応用する手法にかけては、自ら「市場至上主義、市場原理主義」を唱えるだけあって、「新自由主義者」の方が一日の長があることは認めざるを得ない部分がある。
しかし、廉価販売商品を「いかにたくさん売るか」という点において工夫に工夫を重ねる小売り業界の手法をマスメディアとのコラボレーションによって「政治」に“応用/流用”するなどということは、まさに“消費者”には通用し得ても“有権者”には通用させてはならないのであり、すなわちそれは「社会倫理上の規範破り」として非難されて然るべきなのだし、私たち有権者も、政治とは消費するものではなく、選択責任として広く自分たちに降りかかってくる/適用されるものなのだということを肝に銘じるべきなのだ。
私たちは「民主党政権」を選択したことによって、どのような教訓を今や得たのだろうか。
「公約を実現できないこと」と、「公約を翻すこと」は別物だ、しかし、「公約を翻すことに何の痛ヨウも感じない政治家集団が実際に存在する」という、そういう慄然たる事実ではなかったか。
常識に照らして、与党から議員が次々と離脱するなどということは異常事態なのであり、その異常事態が実際に紛れもなく生じている。
そういう異常事態に感性が麻痺してしまうと、「公約」すらまともに纏め上げることのできない政治集団に疑問を抱くこともなく投票してしまうなどという振る舞いも起きてくる。
それがどんなに虚しいことか、後から気付くのではもう手遅れだ。
私たちの住む日本社会は、明らかに異常な状態に突入している。
異常に対する感性を自ら磨耗させ毀損していたのでは、異常状態をいつしか常態/自然とみなして目前の安心を得ようとする「歴史的に悲劇に見舞われた人々」の悲劇をまたぞろ再現する可能性がある。
「面白がり」の時期ははるか遠く昔に過ぎた。そのことに気付かず、「面白がっているつもり」の人は手痛いしっぺ返しを食らう可能性が高い。
そのことに気付きながら、“空気を読んで”長いものに巻かれてればいいんだろう的な考えの人は、巻かれたはいいがそのままぎゅうぎゅうと締め上げられるままになる可能性が高い。
そのことに気付いて懸命に対処しても、巧妙に排除される可能性ももちろんある。
状況は、それほどに悪い。
ではどうするか。
少なくとも、自らの初心/ウブな心を裏切らないようにだけはすべきだろう。
そうでなければ、自らが自らの人生を汚染する結果を招くことになるしかないのだから。

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コメント

エントリーの中盤  ≫ 有権者側は誰かに依頼されたのでも唆されたのでもなく 「自分が見つけた、自分で判断した」と思い込んでいるのだ。≪

去年4月の都知事選を思い出しました。なんと、築地からの移転反対をしていた魚卸業者とか、露骨にバカにされたはずの高齢女性が、イシハラがいいと平気で言っていて、うんざりしたことがあるんですが、根は深いのでしょうね。こういうエントリーに刺激をもらうことで、僕も自分が流されないようにしておこうと思います。

投稿: 穣 | 2012年12月 4日 (火) 00時20分

穣さま、コメントありがとうございます。

自分の感覚を信じることと、自分の感覚と思っていることが実は誰か他人に巧妙に誘導されているのではないかと疑うこと。
本当に難しくだから哲学も必要になってくるのでしょうが、
自分の判断について自信を持つためには、自分史を自分なりに振り返ってみることは一つ有効な手段ではないかと思っています。
時間がないので、本日はこれにて。

投稿: にいのり | 2012年12月 4日 (火) 09時47分

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