« そしてもはや、小沢一郎という天才一人(だけ)に頼る時代ではない。 | トップページ | 『維新』+マスメディアによるコラボレーションは、『ドンキホーテ商法』だ。 »

2012年12月 1日 (土)

いっしゅの「誤報」だらけの『日本維新の会』関連の新聞報道

いったい、誰がどう責任を取るつもりなのか。
『日本維新の会』関連の新聞報道のことだ。
私は、『日経新聞』とやらに比較的目を通す事が多いのだが(会社で取っているから)、この自称(?)経済新聞は、『維新の会』の「ナントカ八策」とやらをこれまで何度大々的に報じたことか。
印象としては、数えきれないほどという言い方が大袈裟ではないほど報じている。
しかも、報道するたびに中身が微妙に異なって行くのである。
やれ、原案が“作られた”“固まった”“修整された”“変更した”“最終案がどうしたこうした”、やんややんや、やんややんや。
と思ったら、今度は『八策』ではなく『政権公約』とやらを出したのだそうで、どうやらそれは『八策』と似て非なるものらしい。
大真面目に読むのも馬鹿らしいので、斜め読みしかしていないが、今度は、その『公約』とやらの一部分に党首様が反対し?、(ちょっと正常な神経では理解しがたいのだが)党首様がオレの権限で『公約』を書き直させると言ったとか言わないとか(知ったこっちゃないけど)。
そもそも党首の承認も経ないで『公約』なるものが発表されること自体、どうにも理解しがたいのだが、その『公約』を偉そうな態度で「書き直させる」と明言してしまう党首の精神状態も理解だとかシンパシーだとかを超越した次元にあるとしか言えない。
しかも恥ずかしいことを言っているのに恥ずかしそうにできない、これがまた恥ずかしいのであり、恥ずかし過ぎて、こっちが目のやり場を失うほどだ。
これまでももう何度も繰り返された「基本文書」の改正や変更だが、いったいご当人たちは、どういう精神状態でそれを行っているのだろうか。
ご本人らは、それを柔軟さの証とでも思っているのかも知れないが、短期間のうちにここまで何度も“発表”と“改正/訂正/変更/撤回”の類いが繰り返されたのでは、同党からの立候補者すらもどれが最終案なのかもはや分からなくなっているのではないだろうか。
ましてや、我々など、仕事を放り投げて『日本維新の会』様の発表文書を穴の開くほど見つめているわけでもなければ、その“訂正の軌跡(笑)”を丹念に追跡しているわけでも検証しているわけでもない。
にも関わらず、新聞・テレビが、やれ『維新八策』が、それ『公約』がと、わざわざ目につくよう耳に残るよう報道してみせるものだから、「え、また何かやってるの?」程度には思ってしまうことになる。
こんな泡沫政党の一向に定まらない『政策集』だか『公約』だかを、発表だの訂正だの改正だの変更だのしてみせる度に大々的に報道してみせるその報道姿勢は、明らかに常軌を逸している。
またこれまでの経緯を鑑みても、この泡沫政党は自分達の「政策」もきちんと「決める」ことができないことは分かりきっているのにも関わらず、下手をすればその日の内に変わってしまうような「政策/公約」を逐一大々的に扱ってみせるために、結果的に「誤報」と同等の意味を持つ報道が繰り返されていることは問題だと言わなければならない。
メディア側は、「いや、我々が報道するそばから変えてしまうのは政党側の責任であって、我々の責任ではない」というエクスキューズを予め確保しているつもりだろうが、しかし、しばらくフォローしていれば、「あぁ、この政党は、自分達の政策すら“決められない”、“決められる政治”からは最も遠い政党なんだな」と気付かなければウソのはずだし、その認識結果に基づき“正しく”泡沫政党扱いしてあげるのが、メディアの役割かつ責任であり、期待されている「編集権」の行使能力だったはずなのだ。
自分達の「政策」すら“決められず”、その態度とは裏腹にうろうろうろうろ右往左往しているだけの政党など、完全な泡沫政党として見切ってみせることが報道のプロの見識というものだろうという一般国民の信頼と期待に応えることのない今日の新聞・テレビの社会的役割とはいったい何なのか。
この間の主要メディアによる、とにかく『維新』と名がつけば何でもかんでも何か政治的な重大事でも生じたかのように報じてみせたその情報量を、広告費換算したなら果たして幾らになることやら。
いったい我が国のマスメディアは、これほどまでの無責任報道をいつまで続けるつもりなのだろう。あ、そうだねそうだね、公示日まではせいぜい馬車馬のように脇目も振らず報道しまくるんだよね、何か契約のようなものがそこには存在しているかのようにね。


『日本維新の会』様の、今朝ほどの朝食メニューは、「鮭に納豆、玉子、海苔、おしんこ」という実に日本人の心に訴え日本人の機微に触れる定番メニューだったそうです。さすがです。
えー、今朝のニュースですが、メニューのメインは鮭ではありませんでした。鱒です、鱒だったということです。通常ですと、今朝何を食べたか思い出せないようなら大問題のはずですが、『維新様』の場合に限ってこれを健忘症ととらえるべきではなく、あくまでも政治的深謀遠慮によるもので、実務的観点からは鮭でも良かったのだが僕たちはポピュリストではないと証明するためにもあえて「あれは鱒だった」と発表したとの事です。さすがは『維新様』、結論的には鮭ではオーソドックス過ぎるので、あえて鱒にしたのだそうで、日本の朝御飯の定番を鮭から鱒にシフトしたいという深い意図がそこには隠されていたようです。いやはや、おみそれいたしました。『脱焼き鮭依存』から、『焼き魚自由化による焼き鮭フェイドアウト』政策へ。さすがは『維新様』、使う言葉がしゃれてます。
えー、先ほどのニュースですが、『維新様』の「焼き鮭フェイドアウト」、あれは党首が直に直に焼き直させるとのことです。どうも焼きが甘かったようで、もちろん鱒などはもってのほかとのこと。これこそが「決められる政治」の真髄でしょう。『維新様』は、支持者の声国民の声に敏感だからか、ガバナンスの効いた党首の鶴の一声によって、基本政策を瞬く間に180度変更することも持さないのであり、さすがは「決められる政治」の見本のような政党です。「居丈高に朝令暮改を決める!」「前言を自信満々に翻すことを決める!」「撤回の撤回を決める!」「基本政策を党首の一存で覆すことを決める!」
これこそ「決められる政治」の待ちに待った「決定打」と言えるものでしょう。


書いていて馬鹿馬鹿しくなるのだが、延々とこの手の報道が大真面目に繰り返されて来ているのは紛れもない事実なのだ。
今朝読んだ新聞の基本政策は、夜帰ってきてテレビのニュースを見ると変わっているのである。残業で夜遅く帰宅して、翌朝慌てて出社すればそんな変更など知らぬまま、報道側は次の「変更」のお知らせに移っているのだ。
こんなことが何の決定的批判も受けぬまま、放置されていて良いのだろうか。
民主党の180度変わる「マニフェスト」の上を行く変幻自在「政策集」。
いったいそれでも何食わぬ顔をして同じような報道姿勢で同じような報道がなされ続けていることについて、いったい誰がどう責任を取るつもりなのだろうか。

コロコロ、クルクル変える方も変える方だが、それをいちいち報道する方も報道する方だ。

これほどの虚無に、通常の精神なら耐えられるはずもなく、こういうおかしな人たちというものを、私たちは心の底から見放すべきなのではなかろうか。

|

« そしてもはや、小沢一郎という天才一人(だけ)に頼る時代ではない。 | トップページ | 『維新』+マスメディアによるコラボレーションは、『ドンキホーテ商法』だ。 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

この記事の軽快さで報道できるジャーナリストは,どこに行ったのか,と,つくづくおもいますが,新聞は硬直の極み,かも。それにしても,この国に住むほぼ全員から強制的に料金をお集めになっている某国営放送は,どうしたものかと,ふとおもうわけです。11月30日午後の日本記者クラブ主催の党首討論会は何度も再放送をするべきなのですけれどね。挙げ句,今朝の朝日新聞デジタル2012年12月3日03時00分「過去に例を見ない多党乱立の衆院総選挙に、テレビ局が困惑気味だ。全政党を公平に取り上げると番組の中身が薄まり、扱いに差をつければ軽んじられた党が怒り出す。法で義務づけられた政見放送の時間枠の確保にも頭を悩ませている。」だそうです。なんだか,ふつうにやる気なし,って言ってるだけにしか思えません。
テレビを見る時間があったり,固定電話に応答する場所にいたりできる,それしか相手にしていない新聞・テレビの偏向が鼻につくこと,鼻につくこと。ただ,わたくしは,少しですが上記番組を見てしまいましたよ。 石原「フェード・アウトって何?」記者「消滅です。」石原「公約? ああ,あれは直させた。」 これってふざけているのかなあ,本気で言ってるのならサイコーに可笑しかったのに。 で,「長屋喜劇 らくだの馬」で死体に「活惚れ」踊らせる,みたいな維新だったりね。ついでに,バカボンのパパみたいに,「わあ~っ!ヘンなのだ!オモシロいのだ!でも,もう,いらないのだ!」 Daily Cafeteria の名調子に大きな影響を受けての感想です。たいへん長くなり、ごめんなさい。

投稿: 植杉レイナ | 2012年12月 3日 (月) 09時07分

植杉さま、適切なコメントありがとうございます。

彼らは、漫才師としては一流の仕事をこなしており、ビートたけしなどを見ているよりもはるかに面白いのに、その自覚が徹底的に欠落している点が、見ていて恥ずかしいですね。

一流の幇間文化は今や絶滅寸前だというのに、三流の素人丸出しの太鼓持ち達に囲まれて、自分は一流と錯覚できる程度のオポチュニスト(楽天家)に、いいように指図をされてしまうほど、人間落ちぶれてはいけないと思うのですが、
私たち庶民というのは、どうして「空っぽな自信満々」によりによって惹かれてしまいやすいのか。
これは、本当は良く考えて行かなければならないことだと思います。
なぜなら、「民主主義制度」を“悪用”しようとする人達は、そういうことをちゃんと研究していて、しかも、私たちには知らせないのですからね。

投稿: にいのり | 2012年12月 3日 (月) 18時54分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1182932/48051790

この記事へのトラックバック一覧です: いっしゅの「誤報」だらけの『日本維新の会』関連の新聞報道:

« そしてもはや、小沢一郎という天才一人(だけ)に頼る時代ではない。 | トップページ | 『維新』+マスメディアによるコラボレーションは、『ドンキホーテ商法』だ。 »