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2013年1月18日 (金)

第一期安倍政権成立の際に、「オレが安倍を倒す」と吠えていた者たちは、どこに消えたのか?

私の手元に、講談社という倫理的に退廃しつつある日本の最大手出版社が発行していた『月刊現代』の2006年10月号がある。
以前、この号に“緊急寄稿”された立花隆とかいう名前を持つ「痴の虚人」の論文をネタにして、その浮薄な近代理解を当ブログでんざんからかった覚えがあるが、今また、同コラムについて言及することが時宜にかなった情勢になろうとは、ある意味で不思議な、一面では必然的な巡り合わせだと言うべきだろう。
同号に“緊急寄稿”された立花コラムの見出しがすごい。
『憂国の緊急寄稿 安倍晋三に告ぐ 「改憲政権」への宣戦布告』
なんだそうだ。
当の安倍晋三よりよほど過激なこの標題、編集部がつけたものか、“緊急寄稿”が大好きな立花隆が指示したものか知らないが、ちょっと尋常ではないことは間違いない。
副題がまた笑えるのであって、『「岸信介のDNAを継ぐ男」と「南原繁の思想を受け継ぐ者」の本格対決が始まる』ときた。
南原繁などという、“関係者”以外誰も積極的に評価しようともしない“曲学阿世”の徒をむやみに持ち上げる一方で、一部の人種が大好きな“DNA”という単語を用いて安倍晋三その人を不当に貶めようとする、我が国のあらゆる産業中で最も低レベルな「新聞テレビ雑誌屋」に典型的な下世話コラムに仕上がっている。
南原繁という人は、立花によれば、戦後最初の東大総長として「学問の自由」を守ることを主張しつづけ、『新憲法の制定、新皇室典範の制定、教育基本法の制定など、戦後新国家の枠組み作りそのものに深く関与した人』であり、『戦後新国家のファウンディグ・ファーザー』と言えるほどの立派な人物だったらしい。
そんな立派な人物に率いられて出発したはずだった東大とやらが、では、3.11の地震津波及び原発事故の際にあれほどあからさまな形でさらけ出した醜態、あれはいったい何だったのだろう。
もし南原とやらが説いた「自由な精神的独立人」によって東京大学が戦後一貫して運営されていたなら、まずは、時を経るにつれてますます劣化著しい官僚や法曹を次々と世に送り出すような“特殊専門学校”のような組織にはならなかったはずだろうし、ましてや、そういう現実に欺瞞の蓋をするために南原とかいう人物を大声で称揚するような低レベルの“机上ジャーナリスト”も産み出さなかったはずなのではないか。
「一方の権威」から「一方の権威」へ、内的な葛藤も苦悩も十分に経た様子もなく簡単に乗り換えられるような保身優先の下劣な人間集団によって運営されてきたがゆえに、今日の社会的信用を失った東京大学というものの姿があるのではないのか。
立花によれば、素晴らしい東京大学の育んで来た素晴らしい価値観に照らすなら、『安倍がめざしている国家象は、そのような南原がめざした国家像とは対極にあるもの』らしい。
その安倍は、自民党の総裁に返り咲いて以降、先般の総選挙時にも『自主憲法の制定』へ向けたこだわりを公言し、憲法改定に向けたルール作りを政治日程に乗せる旨を明言してきた。
私個人もそんな安倍の前のめりな政治思想に賛成ではないが、しかし、安倍自身は、第一期安倍政権樹立時と、基本的政治姿勢については殆んどぶれることなく今にいたっているのである。
であるなら、立花の言うように、我が国に『岸信介のDNAを受け継ぐ者と南原繁のDNAを受け継ぐ者』とが本当に存在するというのなら、『南原繁のDNAを受け継ぐ者』は、今再び決然として安倍内閣に“宣戦布告”して然るべきだろう。
ところがどうだ。
新しい安倍内閣成立以降、かつて「我が方に正義あり」みたいな顔をして安倍叩きに夢中になっていた面々が、奇妙な静けさを保つばかりではないか。
実に不自然ではなかろうか。
政権交代の時を経てなお、変わらぬ政治信条を抱き続け、それを公言しながら組閣された安倍政権については、南原繁のDNAを受け継ぐ「自由な精神的独立人」が一斉に蜂起すべき時ではないのか。
これは、いったいどうしたことだろう。
今や講談社発行の『週刊現代』あたりは、「アベノミクスに乗り遅れるな」みたいなことをわめき散らすようなザマなのだが、講談社や朝日新聞など、大手メディアに“緊急寄稿”するのが大好きな人やその周辺の“立派なDNAを受け継いだ人たち”は、どこで惰眠を貪っているのだろうか?

……と、からかっているばかりではマズいと思うので、なぜ、安倍政権に対して満足な批判も出来ないようなメディア環境が生じてしまったのかについて、自分なりの見解も明らかにしておかねばなるまい。

「安倍政権に再び宣戦布告して然るべき人たち」が、沈黙を余儀なくされている理由。
それは、別に南原に倣ったわけではなかろうが、結果的に南原同様の「自由な精神的独立人」の結合体によって日本を運営していこうと主張していた小沢一郎及びそれに賛同する人々を、よりによって“自称南原のDNAを受け継ぐ者”たちが懸命に排除しようとする役割を“なぜか”担ってきたからに他ならない。
もし、南原という人物がそれほど立派な人物であり、かつその“DNAを受け継ぐ”者であれば、結果として南原の主張と相似形をなす主張を誠実かつ愚直に主張し続けている政治集団を支援しなければウソのはずである。
しかし、現実にはウソ/欺瞞の方が優位を占めることとなり、歴史の不連続時に、簡単に「一方の権威」から「他方の権威」へ乗り移り、舌の根も乾かぬうちに優位なポジションからのみ他者の〈愚直さ〉を笑ってみせるような卑俗な連中が、相も変わらず大量に棲息しているのが我が国の言論環境なのだ。
それどころではない、この連中は、軽減税率要求という“物乞い”を白昼堂々平然と行って、それが恥ずべき行為であるという自覚すらない得体の知れないかわいそうな集団なのである。
ゆえに、こういう連中の頭目のうちの一人を気取っているらしい“痴の虚人”が、新しい安倍内閣の前で沈黙を余儀なくされる、いや、むしろ、アベノミクスだなんだと太鼓持ちにいそしむのは当然の事態だとみなせる。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎し」的な愚劣な手法を地で行く得体の知れない連中が、このまま日本の中枢に食らい付いて生き血を吸い続けるような状態を放置しておくなら、安倍政権の政策云々以前に、政治・経済・文化・社会のいたるところで強度の退廃が生じるのは当然のことだろう。

私たちが関心を集中させるべきは、したがって、退廃した言論環境と閉塞した政治環境の接点や交点にあるのであって、そのような視点から全体的な社会的/政治的環境を俯瞰することなしには、日本の未来像の輪郭を描くことすらままならないはずだ。

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