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2013年1月15日 (火)

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「切実なものの」の一としての“歌謡界の現状”について;2

この項の1を読んでいただいた方の中には、この文章と“歌謡界の現状”と、どうつながるのかと、いぶかしく思われた方も中にはいらっしゃるかも知れない。
そのような書き方しかできないのは、私の筆力の不足が大きいのと、また、私が全体的には小説のような暗喩の力を用いたいという気持ちを持っていることとも関係しているのかも知れない。
それはともかく、私がこの文章を書き始めたのは、昨年末の「日本レコード大賞」とやらにおいて、その何とか委員長を務める服部克久という人が、その総括の挨拶で、「皆さん、これが現在の日本の歌謡界の現状です」と述べたという報に接したからだった。
服部克久本人が「現状」という言葉をどのような意図で、あるいはどのような意味を込めて用いたのかについて、ネットではそれなりに話題になったらしい。
ご本人の内的意図はともかくとして、その挨拶を耳にした多くの人が、それをいっしゅの皮肉混じりの言葉、すなわちいっしゅの暗喩語/批評的言語として受け取め、「服部克久が思わずそのような言葉を口にしてしまった気持ちは良く分かる」という形で意見表明をする人が多かったという。
もちろん、誰でもそれなりに歳を取れば、過ぎ去った自分の青春期を彩った流行歌等については美化しやすく、そうでないものについては総じて軽んじる傾向があるのは否めない。
しかし、そういう感情を差し引いてもなお残らざるを得ない“現状への不満”がくすぶっているからこそ、多くの人が服部の“歌謡界の現状”という言葉遣いに過剰反応してしまったのではないかと思われる。
そして、この反応の出所には、おそらく二種類の出所がある。
一つは、当然のことながら、服部克久のように日本の歌謡界の発展にそれなりに尽力してきた、また、いわゆる歌謡曲に慣れ親しんで歌謡界というものにそれなりに思い入れのある者たちの層。
もう一つは、私のように若い頃から歌謡界というものにシンパシーを抱けず、この世界はもう少しどうにかならないのかと思い続けて来た者たちの層。
この二つの層が、期せずして、服部発言の、本人としては何気なく発しただけなのかも知れない言の端に過敏に反応してしまったという現実。
「変わらないもの」「変わるべきもの」を巡り、四方山の人の関心と失望と残念と無念とが交錯する場。
そう、それはまさに、この一年間の政界をめぐる人々の関心の有り様と相似形をなしていたと言えよう。
誰かが、年末の総選挙を終えた日本の政治地図を広げながら、「皆さん、これが日本の政界の現状です。お楽しみいただけましたでしょうか」と挨拶したらどうだったろう。
中には短絡的に憤慨し始める人もいたことだろうが、多くの人は深く嘆息しながら、「こういうことなんだよな」と頷かざるを得なかったのではないか。
「切実なもの」をめぐる、そして「変わらないもの」「変わるべきもの」をめぐる日本人の発想の貧困と優柔不断と付和雷同と。
私など、普段、新聞のテレビ欄などというものはほとんど見ないものだから、大晦日に「レコード大賞」をやらなくなったところを見ると、あの賞と番組自体が“歴史的役割”を終えて終了したものとばかり思い込んでいた。
しかし、現実は違ったのである。
どれほど形骸化しようとも、どれほど時代からズレようとも、あるいは世界の現状からおいてけぼりを喰らおうとも、人々の嗜好の多様性に対して自家中毒的なミスマッチを引き起こしていようとも、恐るべきことにそれは意地でも継続させられていたのである。
「切実なはずのもの」が切実化せず、何を「変わらないもの」として措定するかについてプリンシプルもなく、「変わってしかるべきもの」が変わることを禁止され、ただ「形骸」のみが執拗に粘着的に継続されていく……一部の“関係者”のみを喰わせていくために。
近年の政治家の発言としてはあまりにも秀逸な「変わらずに生きてゆくためには、自分が変わらなければならない」というヴィスコンティの映画作品『山猫』から引用された言葉は、「形骸化したものの持続性」に命をかける(?)変わった趣味の持ち主たちによって、闇に葬られたとまでは言わないまでも、宙をさ迷うことに相成っている。
そもそも、「変わらなければならない」発言を受けた私たちは、小沢一郎の発言の意図を越えて、当のヴィスコンティについて、その作品について、もっともっと思いを馳せねばならなかった。
いかにもラテン的な、あえて言えば古代ローマ帝国的な“金襴緞子”調のフェリーニに比して、ヴィスコンティは、ゲルマン的な、あえて対比的に言えば第三帝国的な“陰翳礼讚”調をもってするイタリアの生んだ映画監督だった。
もちろん、これはあくまでも単純なイメージの話だ。
しかし、もはや、この二人に比す映画監督は、イタリアのみならず世界のどこを探しても再誕することはあるまい。
生前のヴィスコンティが、プルーストの『失われた時を求めて』の映画化に最後までこだわっていたという話は象徴的だ。
私たちは、今や、「失われた時を求める」時空に迷い込んでしまっている/迷い込まざるを得なくなっているのではないかと、ふと感じることがある。
「時流に乗って生きるには、形骸をも意地になって操る欺瞞こそが重要である」とでも言うべき銘を座右のものとしているかのような人々の間に紛れて生きていれば、人は往々にして、「失われた時を求める」時空にさ迷いがちになるのかも知れない。
だが、小説『失われた時を求めて』で象徴的に試みられているように、その「長さ/量」と「詳細さ/微細さ」への意志は、記号化されることへの徹底的な抵抗……というより記号化への攻撃的意志であるとさえ言って良いのではないだろうか。
「長さ」「微細さ」ということにおいては、ヴィスコンティも徹底していた。
抽象化と記号化/還元化とは自ずと異なる。
ヴィスコンティもプルーストも、抽象化の段階を当然経ていながらも、しかし、現実の表象は極めて長くまた微細なものでなければならない、あるいはそうならざるを得ないと考えられたのだろう。
どれほど抽象化されようと、それは表象において具体であり、したがって、それは還元され得ず記号化され得ない。それぞれは、どこまでも個別的であるとともに、一回性のものであり、それゆえにあらゆるレベルの植生のような重要なまとまりのある群=森となり、それが然るべき形をとるためには「長さ」と「微細さ」を必要としたのだ。
私たちは、だから、「長さ」を恐れるべきではない。
短兵急のソリューションは物事の砂漠化にしか貢献しまい。
小沢一郎が『山猫』中の台詞に言及した時、私たちが思いを馳せるべきだったヴィスコンティだが、では、服部克久の発言によって、私は誰に思いを馳せたか。
私とほぼ同世代の歌手、徳永英明に、私は思いを馳せたのだった。
若いころから彼のハイトーンの美声はめったにあるものではないと考えていたが、しかし、個人的な嗜好としては積極的に聴くというのではなかった。
しかし、いつしか私の中で、彼は重要な人の中の一人として定着していた。
それは、彼が、日本の歌謡界の歴史に着目し自らそれを体現することで、彼自身が歴史的な存在となったからだ。
彼の手によって、そして文字通りその声によって、丁寧にカバーされた日本の歌謡曲は、明らかに彼によって新たな生命を吹き込まれている。
「変わらないまま生き残るために」彼によって変えてもらった歌謡曲の姿がそこにはあるのだ。
これは、私にとって新鮮な驚きだった。
彼は、カバー曲によくありがちな奇異をてらったアレンジや歌い方をしない。むしろ、原曲にはきわめて忠実であると言える。しかし、それゆえに、リスペクトと表裏一体化したクリティークがそこには貫かれ、原曲を下手にいじらない/「変えない」ことによって、逆に原曲に新鮮かつ落ち着いた生命が吹き込まれ、新解釈/新アレンジよりももっと斬新な見事なオマージュとして成立している。
「こんなやり方が、日本の歌謡曲の非歴史的歴史の中で可能だったのか」
私は、単純に驚き、そして聴き惚れるしかなかった。
一方には、この徳永英明の仕事があり、その一方で「皆さん、これが現在の日本の歌謡界の現状です」という服部克久の発言があるとき、この二つを重ね合わせた時見えて来るものは何か。
それは、“現状の”個々の歌手や作曲家の責任というより、“歌謡界”というものを成り立たせているものの責任である。
私は、この文章を書くにあたり、多少は「レコード大賞」とやらについての予備知識も必要かなと思い、Wikipediaを引いてみたところ、驚くべきことを知った。
この、「日本レコード大賞」とやらにおける各種受賞楽曲を審査する審査員は、日本国内のあらゆる産業中最も低レベルの産業である新聞テレビ屋の連中がその大半を占めていたのだ。
その“現状”、その現実……。
「どうりで…。」
「皆様、お楽しみいただけないわけですね。」
その授賞イベントが、どれだけ形骸化しようと、無関心の中に沈殿しようと、自分たちが関与する「興行利権」については、何がなんでも手離すまいとする「欧米プレス」の猿真似連中。
それでも少なくとも我が日本にも、たとえみすぼらしいものだとしても、映画批評もあれば、ロック批評もある。
しかし、私は、まともな歌謡批評というものには、どうしたことか寡聞にして触れたことがない。
対象を自らにとって「切実なもの」として対峙するような批評なきところに、どんな審査基準があるというのだろうか?
いったい、この審査員と称する連中には、どんな批評力、審美眼、審査能力があるというのだろうか。
『ゾンビ』…米映画史上の最高傑作の一つと目することの出来る〈現代〉をしばらく抉り続けるであろうその作品には、言わずと知れた自らの心身の死を認識出来ない形骸=躯が、〈増殖〉…〈生殖〉ではなく〈増殖〉をのみ求めて、あたかも何かの“権利”を主張でもしたいかのごとく、その躯を“デモンストレーション”しながら歩くのだった。
彼らは、何があろうと、自らを理解しようとしない…それが、私たちがあの映画作品を観て、心を塞がれるような気持ちにさせられる本質的な部分なのだと言えるだろう。

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