« 「切実なもの」の一としての“歌謡界の現状”について;1 | トップページ | 「切実なもの」の一としての“歌謡界の現状”について;2 »

2013年1月11日 (金)

「切実なもの」の一としての“歌謡界の現状”について;1(検索環境に反映されないため、やむを得ず再掲)

標題の論に入る前に言及しておかなければならないと思うのは、不正選挙問題についてだ。
私も当ブログで、選挙の一日前に、「選挙管理委員会」組織の公正性(の担保)について疑念を示しておいたが、もちろんそれは具体的なものではなく、昨今の倫理崩壊的風潮から予想される懸念を述べたものに過ぎなかった。
しかし、やはり、世の中にはきちんと具体的な動きに目を凝らしている方もいるのであり、中央の「選挙管理委員会」絡みで、案の定怪しげな独占企業体の存在が浮かび上がって来ているようだ。
驚かざるを得ないのは、どの分野を切り取って来て見ても、この国には同じ構造/同じ手口がいたるところにこれでもかというほど執拗にはびこっている点であり、我が国の官僚は賄賂を要求しないだけ中国あたりのそれよりマシだなどと言われるが、その悪質性においては、我が国の方がはるか上を行っていることを私たちは正確に/正常に認識すべきなのだ。
問題は小沢どころの比ではないこういう構造を目の当たりにして、我が国のマスメディアが案の定口をつぐんでいることにある。
それもそのはず、我が国のマスメディアも言わずと知れた談合独占企業体連合という意味で、腐敗構造のれっきとした一画を担っているわけなのだから、自分たちにも火の粉が及んで来かねないこうした事案については、鉄面皮にも見事なまでに口をつぐんでみせるわけなのだ。
その一方で、消費税の軽減税率を活字に適用せよなどということについては、これまた厚顔にも良識めかして主張することについては怠りないのだから、これほどの無恥なたかり根性が徹底されてしまった悪党どもを更正させるのはもはや容易ではないことは間違いない。
我が国が再生するには、こうした諸悪党の再生産を不可能ならしめる法の制定以外もはや手段はないかに見えるが、「法学」分野の低レベルが、我が国の法的ソリューションの不在を決定的なものにしているようなのだから、私たちはもはや正しく絶望する以外に残された道はないかのような気にもなってくる。
しかし、それでもやはりニヒリズムに淫してはならないのだ。
さて、では本題に入ろうと思うのだが、私は誰に強いられたのでもなく紛れもない大衆の一人として(喜んで)生きており、知識社会の、あるいは経済社会の住人ではない。
そのような私にとって「切実なもの」とはだから、大衆の文化的な現実であり、現状であり、動向なのだ。
その「切実なはずのもの」が、(たとえそれがいわゆる大企業などと呼ばれるものであっても)たかだか会社勤めの賃労働者に過ぎない私たちのような下賤下臈の者にさえ軽々しく扱われ、彼ら/私たちは株だの金利だの、あるいはそういうものに関連する諸統計値や諸指標の上がり下がりだのというつまらない(はずのもの)に吸い寄せられては一喜一憂するようになり、そしてそれを非大衆レベルの気の利いた生き方であるかのように主観し、
一方で彼らにとって本来的には「切実なもの」としてあるべき分野を、まるでそれは「子供の領域のもの」「ガキの領域のもの」であるかのようにみなし、自らの人生を汚染し傷害していることについてはもっぱら無自覚なままにいるという哀しい現実/現状があるということを率直に認識するべきだろう。
私のような人間のみならず、多分、知識社会の人間でもなければ経済社会の人間としても本来的には存立し得ない多くの人々にとって、「切実なこと」とは、自らの生の限定的な条件下にあって、何が生/生活を(本質的に)潤し耕し昇華する要素なのかについて思いめぐらすことから始まるはずではなかったのかと思うのだが、
貨幣主義/貨幣還元主義に一旦毒され冒されてしまうと、愚かな私たちはまるで自分のことを経済社会の住人であるかのように思いなし始め、彼らからオペレートの対象、搾取の対象として侮蔑とともに措定されロックオンされているのだということすらも忘却して生きてしまうはめになる。
そういう社会的現象面における「切実なはずの問題」が、その「切実度」が考察の対象にすらならないままに捨て置かれていくのだとすれば、そこには、社会全体すなわち知識社会や経済社会をも包括する社会全体における「肝心な問題」すらも「課題」としてみなされないまま捨て置かれていることを意味せざるを得ない。
(一方で、例えばマンガだとかアニメーション等のサブ領域の場で、自らに「切実なモチーフ」を愚直かつ誠実に追い求めて来た人々の形成せしめたある“群のレベル”が、産業に適するレベルにまでなると、自らにとって「切実なものとは何か」について一切“没考証”の中にあった者たちが、突然、昔からの関係者ででもあったかのように仲間顔をして、いつの間にか我が物顔でたかり始めたりするこの社会の“現状”もしっかり掌握しておくべきだ)
ポストコロニー的環境下におけるコロニー側の「肝心な問題」は、支配=被支配の関係が二重構造化しており、しかもそれが巧妙に不可視化/タブー化されている点にある。
今日、私たち大衆が、自らにとって「切実であるはずのもの/こと」を一段下に見て、まるで、自分を知識社会・経済社会の側の人間になったかのように思いなしている倒錯的/欺瞞的“現状”は、悲しいことにコロニーの(名目上の)知識社会・経済社会の住人にも及んでいる。
彼らは、自らを“秀でた者/選ばれた者”として積極的に位置付け認識しているわけなのだろうが、それはちょうど私たちが、資産と呼べるような資産すらないくせに投資信託とやらになけなしの手持ち資金を投入して、「自分も投資家の一人になった」と思いなしている程度の滑稽さにまったく良く似ている。
客観的に見れば、それは貨幣還元主義からのインセンティブに“自負自尊の置き所”が乗っ取られている姿にほかならず、それ以上の契機を保持し得ない。
“客観的に”彼は、インセンティブを手にしたわけなでもなんでもなく、単にインセンティブに駆られているだけに過ぎないのだが、彼の主観ではあくまでも既にインセンティブを手にしたつもり(ステージが上がった、ステイタスを獲得したつもり)でいるのである。
こういうことは、貨幣還元主義からのインセンティブとは無関係な立ち位置にいる者にとっては滑稽な事態だとしか形容できないのだが、当の本人は、擬似餌かも知れない、むしろその可能性の高いインセンティブにアイデンティファイしてしまっているために、自らが昇った“高み”に自信過剰になるとともに神経過敏になった挙げ句、やがてその“高み”からの転落を畏れ始めては一切の批評や批判を受け付けなくなってしまう。まるで『蜘蛛の糸』にすがるあの惨めな人物のように。
彼は彼の主観の内にある“ステイタス”にいち早くとりついた(はずな)のであり、彼にとってその“ステイタス”は持たざる者にとっての嫉妬の対象になるはずのものであるとともに略奪や略取の対象であるはずのものとして認識されることになる。
(こういうことというものは、経済学(笑)に倣い、記号化した上で「カンダタの法則」だの「カンダタの公式」だのと命名して社会的に喧伝する努力をすべきかも知れない)
ゆえに、彼は、“守りに入る”ようになるのだ。そして、同好の士を“仲間”として募るようになる。
それは、かつてブルジョアジーと呼ばれた人たちの振る舞いと似ている面もあるが、決定的な相違点はかつてのブルジョアが少なくとも本当に不労所得あるいは使用者所得だけで悠々と生きられるだけの自己資産/自己所有の事業体を有し、加えて少なくとも何らかの見識をも有していることが多かったのに比して、今日の“投資家”はインセンティブという架空性、可能性、架構性にアイデンティファイしているのみで、現実にはただの賃労働者に過ぎないという点にある。
「より豊かになりたい」という素朴な欲動に、「貨幣主義のインセンティブ」という外部の思考が挿入されたために生じるこうした“定型的行動様式”は、したがって(邪悪な存在によって意図的に仕組まれている可能性が高い)社会心理的混乱の生じ得る一つの形態とみなし、その処方箋を練る努力をすべき事例なのだと思うのだが、脳内までもがコロニー化してしまうと、外部性が恩寵のように感じられるようになってしまい、その中毒症状から抜け出すのは容易ならざることだということなのかも知れない。
「脳内コロニー」の大部分は、「学校教育」によって形成される。“近代化”が全て“善”であり“秀”であるかのように素朴に信じられていた時代にあっては、“高い”教育を受ければ受けるほど無前提にその人物は“優秀”だとされていたし、そう考えられたのも無理のない面があった。
しかし、今日、「ワールドミュージック」的な意味合いにおける「ワールドインフォメーション」の入手が容易になり、それが普及してくると、単に「学校教育」のみを受容してきただけの人間は、脳内に「コロニー」を移植されるままに任せてきた“優秀”どころか頭に“マヌケ”だとか“バカ”のつく“従順”なだけの人間に過ぎないということが、もはや人口に膾炙されてきている点が重要だ。
だから今、着目すべきなのは、“コロニー”に居住の地を定めるという「屈辱」もしくは「欺瞞」を受け入れた者たちの“特権”が崩壊していく過程、あるいはそうした“特権”をいかにして防衛するかについて悪戦苦闘している“現状”をいかに正確に掌握し冷笑してやるか、ということにほかならない。
世界を眺めてみよう。
今、「グローバリズム」に最も親和性が強く、相互にせめぎ合っているのが、米国と中国という二国だ。
この二国に特徴的なのは、(意外に思う方もいるかも知れないが)影響力のある諸国家の中でも最も“国家主義的/国境主義的”であるという点にある。
この二国においては、あらゆる概念が、“国家主義/国境主義”に奉仕/貢献するよう自己組織化される。
象徴的な例を出すとするなら、米国における“自由”とは、この国家の“国家主義/国境主義”に奉仕/貢献する限りにおいて容認される自由なのだ。したがって、この国のエリートが「自由貿易」と口にする時、それは他者にとって「帝国主義的覇権主義」を意味するしかない。
中国において導入された“市場”もまた同様だ。中国における“市場”とは、「商取引分野の拡大」をしか意味しておらず、この国家の“国家主義/国境主義”に奉仕/貢献する限りにおいての市場なのだ。したがって、この国のエリートが「市場開放」という場合、それは「帝国主義的覇権主義」(の原資の確保)を意味するしかない。
こうした意味合いからして、米国と中国とは、誤解を恐れずに言えば、小説『未来の二つの顔』ではないが、「無神論を装った特定の砂漠化思想の影響下にある二つの顔」なのだと言うべきかも知れない。
もはや、この二国は、ヨーロッパ発の「西欧近代の理想」とは、ほとんど関係のない原理で駆動していると見た方が良いだろう。
この二国は、ある意味で、「無神論を装った特定の砂漠化思想」の精神的/心理的コロニーになりおおせていると考えた方が良い。
もちろん私がここで言う「特定の砂漠化思想」とは、比喩的/暗示的表現から出ないものであるため、そのような曖昧な概念を認めたくないという人にとっては、このような文章は無価値化せざるを得ない面もある。
しかし、「砂漠化」という現象について多少なりとも科学的な知識を持っている人なら、私が単にやみくもに「特定の砂漠化思想」という表現を使っているのではないことに気付いていただけるものと思う。
「グローバリズム」を主導する、あるいはその最も強い影響下にある世界の二大大国を観察する限りにおいて、「グローバリズム」とは、私なりに換言すれば「世界砂漠化計画」ということにほかならない。
再び象徴的な例として挙げれば、「世界環境会議」等で、最も強力な非協力的国家、反社会(世界)的国家が、米国と中国であることを考慮するなら、理解は一層容易になることと思われる。
米国人でも中国人でもない人間が、このような“現状”について、どちらか一方を擁護したくてしたくて仕方がなくなるのだとすれば、彼は自らの“脳内コロニー”の縮小化に向けた努力を最優先にすべきことに気付くべきだ。余計なことに顔を突っ込んでいる暇もなければ場合でもないはずなのだ。

(この項つづく)

|

« 「切実なもの」の一としての“歌謡界の現状”について;1 | トップページ | 「切実なもの」の一としての“歌謡界の現状”について;2 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1182932/48698709

この記事へのトラックバック一覧です: 「切実なもの」の一としての“歌謡界の現状”について;1(検索環境に反映されないため、やむを得ず再掲):

« 「切実なもの」の一としての“歌謡界の現状”について;1 | トップページ | 「切実なもの」の一としての“歌謡界の現状”について;2 »