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2013年2月 2日 (土)

司法(法を司る)機関が私法(法を私する)機関としてしか機能しない我が国の法治。(その退嬰の瀰漫に影響される看過しがたい大衆社会の退廃)

「陸山会事件」のとば口とされた「小沢秘書裁判(石川裁判)」について、事件化の際には大地がひっくり返るような騒ぎを繰り広げていた我が国のマスメディアは、高裁における裁判が結審したというのに、ろくすっぽ報道すらしない。
もう、小沢一郎自身の影響力については相当程度削ぐことに成功したのだから、後は報道にも値しない付随要素に過ぎない、そのくらい忖度しろよというわけなのだろう。
しかし、私たちにそのような配慮をしなければならない理由は一切存在しないはずだし、司法の健全性、正常な法秩序の維持という観点からすれば、明らかに「石川裁判」についてどのような審議がなされたかの方が圧倒的に重大なのであり、石川裁判の本質は、逮捕権の濫用としての「別件逮捕」が問題であるのと同様の意味合いで、司法権の濫用としての「別件裁判」とみなすべきものだと言える。
そうした喫緊の問題点の具体例については、山崎行太郎のブログが的確にまとめてくれているようだが、法律のプロであるはずの者たちは、ほんの一部を除いて相変わらず他人事のように口をつぐんでいるばかりだ。
ましてや、立場上、司法の外縁から、司法の抱える問題点について問題提起することが期待されているはずの我が国の司法記者らは、「社会的に全く役に立たないという役割を果たす」という業務/ミッションの遂行によって、相変わらず延命だけは確保しているようである。
ただし、法の支配者を自認し主観しているような層にとっては、「石川裁判」でさえ常態化された腐敗ルーティンによる日常風景であろうとも、小沢一郎関連事件(裁判)の意味は、私のように法なんかに何の興味もなく、ぼんやりと生きてきたような人間にさえも、我が国の司法の抱えていた問題を炙り出し/可視化する役割を果たしたことにあり、その意味で、小沢裁判以前と以降とでは、私のようにぼんくらな一般国民であってさえ、司法を見る目は全く異なってしまっているという点に着目すべきだ。
こういう事実、事態、状況にまるで気付かない司法関係者がいるのだとすれば、その者こそ、真のボンクラ、従順なだけのマヌケ、思考力なきヌケサクと呼ばれる栄誉に浴することが可能となるだろう。
そして、本来なら“雲の上”にいるべきような人間が、“雲の上”にいるべき努力も責任も義務も果たさず/果たす気もなく、むしろ俗知俗見と保身と目先の利益にとらわれ/まみれ、ただのボンクラである実態をさらけ出したとき、その退嬰臭が否応なしに大衆社会に伝播することも残念ながら避け得ないことだと言える。
「司法」が「私法」に化するとき、そこには「私刑」がはびこり始める、お誂え向きの卑劣メディアを巻き込んで。

ご存知の方もいることだろうが、先日、マスメディアによって公開された、人気女性歌手グループの一員が、頭を丸刈りにして反省の弁とやらを述べている映像に私は目を疑った。
それは明らかに常軌を逸した、少なくとも子供も見ているお茶の間に流す類いの映像ではなかった。
所属事務所の説明によれば、丸刈りも映像の撮影もその公表についても、全て本人の自発的な強い意志/意向によるものらしいが、仮にそうだとしても、あれだけの常軌を逸した行為と映像をオフィシャルサイトに掲載するという行為も、もはや十分に尋常ではない。
まして、その映像がいくらネット上に公開されたものとはいえ、それがオフィシャルなものである限り、それを転載放映してみせたマスメディアは、事務所の許可を得ているはずであり、許可を出す方も、得ようとする方も、当然、許可を得たからと言ってあれだけの異様な映像をお茶の間に垂れ流してみせる方も間違いなく正常さの範疇から大きく逸脱している。
私の考えでは、これは、本人の意志/意向如何にかかわらず、明白に「私刑」を構成している。
これが「私刑」に該当するか否かではなく、「私刑」という言葉及び概念が、こういう現象を言い表すために生み出されたもののはずなのだ。
考えてもみよう。
例えば、ある証券会社で、必ずしも法的な違反ではなくとも、インサイダー取引紛いの内規上の重大な違反を犯してしまい、顧客からの信頼喪失の危機に立たされた社員について想像してみよう。
彼は、自らが招いた重大な事態に対して冷静さを失い、衝動的にリストカットしてしまい、手首にためらい傷をつけたとする。
幸い、同僚が見つけて大事にはいたらなかったが、上司がなぜそんなことをしたのだと問い質したところ、自分の行為に対する反省の思いを何らかの手段で形として示したかったという証言を得た。
なるほど君の気持ちは良く理解できるし、よし君がそこまで言うのならと、その証券会社は、自らのオフィシャルサイトに、彼のリストカットした手首の傷を反省の証しとして掲載した……。
いったい、このようなことが一般社会で生じるはずがないと、私たちは思い込んでいるし、もし仮にそのようなことがあり得たなら、私たちはそれを「私刑」として認知するはずだ。
しかし、それとほぼ同等のことが今回実際に生じたのである。
これをどうとらえるか。
「たかが芸能人のすることにいちいち目くじら立てるなよ」
そういう声も聞こえて来そうだが、「たかが芸能人」だろうが「たかが証券会社員」だろうが「たかが国会議員」だろうが、「法の下の平等」によって「法治国家」は成り立っており、そのような原則について恣意的に忘れた振りをすることのできる意識が「法を私する意識」なのだ。
今回、NHKすらも「たかが芸能人」の騒動のように見せ掛けて共犯者として名を列ねていること自体が、「司法」から「私法」へ、そして「私刑」の無原則的な容認/黙認へということを画策する悪しき意志がそこに働いていることを“推認”させるに十分だった。
「裁判員制度」などという一挙に「陪審員制度」をも凌ぐ急進的な司法制度をなぜ導入したのか。
司法/法曹界が、国民をそれほど信頼し信用しているのなら、なぜ検察改革、警察改革は一向に進展しないのか。
なぜ、制度面、人事面を仕切る事務方の改革については進展どころか議論の緒にすらつかないのか。
なぜ、「法」をめぐる学会は、しっかりと国民に向かい合う形で「法」に関する議論、提言等を積極的になそうとしないのか/できないのか。
こうした芋づる式に湧き出てくる疑問については誰も答える状況が生じそうもないまま、「法の専門家」と「国民の疑問と期待」の間に立って議論の提起とリードをすべき「司法記者」連中は、「今日も無能であることをオカミに立証し続ける業務」によって糊口をしのいでいる、いや、偽りの糊口を謳歌している。

私は、先日、自らにとって“切実なものの一”であれかしという思いを込めて、“歌謡界の現状”に言及してみた。
しかし、“歌謡界の現状”とは、見ての通り「虜囚・捕虜・人質」といった言葉を連想させないではおかないあの少女の“自発的”映像のようにただならぬものになっていたのであり、「たかが芸能人」どころか「芸能人」であるがゆえに、大衆の、仕組まれた/仕込まれた“一般意志”を形成するための“酵母”のようなものとして、“合理的に”機能せしめられていることを目撃させられ、愕然とするとともに心を塞がれざるを得ないのである。

いったい、この事件における男性側当事者及びその所属事務所が、そして少女の家族が、また、当然のことながら警察が、今後も沈黙を続けるとするなら、この「私刑」は、事前に周到に準備され練り上げられていたものと“推認”するしかない。

「司法」から「私法」へ、そして「私刑」へといたる扇情と扇動。
このようなものが平然と看過されるのなら、それはあまりに恐ろしいことであり、私にとって「切実なるものの一」であるはずの大衆社会は、情報暴力によって一段と劣化/退行せしめられたことを認めざるを得ない。
悪しき“政治”の力とはかくも恐ろしいものである。

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