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2013年2月 5日 (火)

案の定、前回のエントリーが反映されないため、改訂版をつくりました。

司法(法を司る)機関が私法(法を私する)機関としてしか機能しない我が国の法治。(その退嬰状況が瀰漫することによる看過しがたい大衆社会の退廃)

陸山会事件のとば口とされた小沢秘書裁判(石川裁判)について、事件化の際は大地がひっくり返るような騒ぎを繰り広げていたマスメディアは、高裁の裁判が結審したというのに、ろくすっぽ報道すらしない。
もう、小沢一郎自身の影響力については相当程度削ぐことに成功したのだから、後は報道にも値しない付随要素に過ぎない、そのくらい忖度しろよというわけなのだろう。
しかし、私たちにそのような配慮をしなければならない理由は一切存在しないはずだし、司法の健全性、正常な法秩序の維持という観点から見れば、明らかに石川裁判についてどのような審議がなされたかの方が圧倒的に重大なのであり、石川裁判の本質は、逮捕権の濫用としての「別件逮捕」が問題であるのと同様の意味合いで、司法権の濫用としての「別件裁判」=「政治的制裁」とみなすべきものだと言える。
喫緊の問題点については、山崎行太郎のブログが的確にまとめてくれているようだが、法律のプロであるはずの者たちは、ほんの一部を除いて相変わらず他人事のように口をつぐんでいるばかりだ。
ましてや、立場上、司法の外縁から、司法の抱える問題点について問題提起することが期待されているはずの我が国の司法記者らは、「社会的に全く役に立たないという役割を果たす」という業務/ミッションの遂行によって、相変わらず延命だけは確保しているようである。
法の支配者を自認し主観しているような層にとっては、石川裁判でさえ常態化された腐敗ルーティンによる日常的風景なのかも知れないが、小沢一郎関連事件(裁判)の有した意味は、私のように法なんかに何の興味もなく、ぼんやりと生きてきたような人間にさえも、我が国の司法が抱えている問題を炙り出し/可視化する役割を果たしたことにあり、その意味で、小沢裁判以前と以降とでは、私のようにぼんくらな一般国民であってさえ、司法を見る目は全く異なってしまっているのであり、その決定的な不可逆性を認識すべきだ。
こういう事実、事態、状況にまるで気付かない司法関係者がいるのだとすれば、その者こそ、真のボンクラ、従順なだけのマヌケ、思考力なきヌケサクと呼ばれる栄誉に浴することが可能となるだろう。
残念なことは、本来なら“雲の上”にいるべきような人間が、“雲の上”にいるべき努力も責任も義務も果たさず/果たす気もなく、むしろ俗知俗見と保身と目先の利益にのみとらわれ/まみれ、ただのボンクラである実態をさらけ出したとき、その退嬰臭が大衆社会に伝播することも避け得ないことだ。
「司法」が「私法」に化するとき、そこには「私刑」がはびこり始める、お誂え向きの卑劣メディアを巻き込んで。

ご存知の方もいることだろうが、先日、マスメディアによって話題にされたAKB48なる女性歌手グループの一員たる峯岸みなみという人が、頭を丸刈りにして反省の弁とやらを述べている映像に昼食時に偶然触れ、私は目を疑わざるを得なかった。
経緯の詳細については省略するが、所属する管理事務所だかの説明によれば、そのように出で立ちでカメラの前で弁明することになったのは、全て本人の自発的意志によるものらしい。俄には信じ難いが、仮にそれを信じるとしても、あれだけ異様な映像をオフィシャルサイトに掲載するという行為自体が既にして十分に常軌を逸している。
まして、その映像がいくらネット上に公開されてしまったものとはいえ、それがオフィシャルなものである限り、それを転載放映してみせたマスメディアは、事務所の許可を得ているはずであり、許可を出す方も、得ようとする方も、当然、許可を得たからと言ってあれだけの悲惨な映像をお茶の間に垂れ流してみせる方も明白に正常性の範囲から逸脱しているとしかいえない。
私の考えでは、これは、本人の意志如何にかかわらず、明白に「私刑」を構成しているというほかない。
これが「私刑」に該当するか否かではなく、「私刑」という言葉及び概念が、こういう現象を言い表すために生み出されたもののはずなのだ。
考えてもみよう。
例えば、ある証券会社で、必ずしも法的な違反ではなくとも、インサイダー取引紛いの内規上の重大な違反を犯してしまい、顧客からの信頼喪失の危機に立たされた社員について想像してみよう。
彼は、自らが招いた事態の重大さに冷静な判断力を失い、衝動的にリストカットして手首にためらい傷をつけたとする。
幸い、同僚が見つけて大事にはいたらなかったが、上司がなぜそんなことをしたのだと問い質したところ、自分の行為に対する反省の思いを何らかの手段で形として示したかったという証言を得た。
君の気持ちは良く理解できるし、よし君がそこまで言うのならと、その証券会社は、自らのオフィシャルサイトに、彼のリストカットした手首の傷を反省の証しとして掲載した……。
いったい、このようなことが、一般社会で生じるはずがないと私たちは思い込んでいるし、もし仮にそのようなことがあり得たなら、私たちはそれを「私刑」として認知し、当該社員の衝動的な愚行よりもその所属する組織の異常性について語り始めるはずだ。
しかし、それとほぼ同等のことが今回生じたのである。
「たかが、芸能人のすることにいちいち目くじら立てるなよ」
そういう声も聞こえて来そうだが、「たかが芸能人」だろうが「たかが証券会社員」だろうが「たかが高級官僚」だろうが「国会議員」だろうが、「法の下の平等」によって「法治国家」は成り立っており、そのような原則について恣意的に忘れた振りをすることができることこそ「法を私する」意識だと言える。
今回、NHKすらも「たかが芸能人」の騒動のように見せ掛けて共犯者として名を列ねていること自体、「司法」から「私法」へ、そして「私刑」の無原則的な容認/黙認へという悪しき傾向の瀰漫が画策されているのではないかということを“推認”させる。
「裁判員制度」などという一挙に「陪審員制度」をも凌ぐ急進的な司法制度をなぜ導入したのか。
司法/法曹界が、国民をそれほど信頼し信用しているのなら、なぜ検察改革、警察改革は一向に進展しないのか。
なぜ、制度面、人事面を仕切る事務方の改革については進展どころか議論の緒にすらつかないのか。
なぜ、「法」をめぐる学会は、国民に正直に向かい合う形で、「法」に関する議論、提言等を自主独立的に積極的になそうと思わないのか。
こうした芋づる式に湧き出てくる疑問については誰も答える状況は生じそうもないまま、「法の専門家」と「国民の疑問と期待」の間に立って議論の提起とリードをすべき「司法記者」連中は、「今日も無能であることをオカミに立証し続ける業務」によって糊口をしのいでいる、いや、偽りの糊口を謳歌している。

私は、先日、自らにとって“切実なものの一”であれかしという思いを込めて、“歌謡界の現状”に言及してみた。
しかし、“歌謡界の現状”とは、見ての通り「虜囚・捕虜・人質・生け贄」といった言葉を連想させないではおかないあの峯岸みなみという少女の“自発的”映像のようにただならぬものになっていたのであり、「たかが芸能人」どころか「芸能人」であるがゆえに、大衆の、仕組まれた/仕込まれた“一般意志”を形成するための“酵母”のようなものとして、“合理的に”機能せしめられていたのである。

いったい、この事件における男性側当事者及びその所属事務所が、そして少女の家族なりが、また当然のことながら警察が、今後も納得し得るアクションを起こさず沈黙を続けるとするなら、この「私刑」は、事前に周到に準備され練り上げられていたものと“推認”するしかない。

「司法」から「私法」へ、そして「私刑」へといたる扇情と扇動。
このようなものが平然と看過されるのなら、それは恐ろしい退廃なのであり、私にとって「切実なるものの一」である大衆社会は、その情報暴力によって、一段と劣化/退行せしめられたことを認めざるを得ない。

悪しき“政治”の力とはかくも恐ろしいものである。

附記:この件について、自分なりにネット“街の声”を“取材”してみたところ、「炎上商法だってことに気付け」だの「まんまと運営(?)の思惑に乗せられて騒ぐ奴はバカだ」だの、ひどいものになると「炎上商法というビジネスモデルなんだから問題ではない」「人権とか騒ぐ奴まで巻き込んだ今回の広告効果は絶大、秋元はやっぱり天才」など、訳知り顔の意見が多いことに驚いた。
ショックドクトリン、惨事便乗型資本主義、その卑小版商法が、今や“ビジネスモデル”とやらに格上げされ、「騒ぐな、受け入れろ」「イヤなら広告効果を減じさせるためにも沈黙せよ」という情報圧力となって私たちの日常に覆い被さってくる。
新自由主義イデオロギーは、ヤクザ論理・ヤクザ商法と相互補完的な関係をなし、情報暴力として「良貨」を駆逐し始めている、というより既にそれは卑劣マスメディアを巻き込み“普遍化”しようとしている。
キモオタなどと呼ばれる(精神的被傷が常態化されてしまった)人々は、貧困商法の典型的な犠牲者/カモであるにも関わらず、手を差し伸べようとすれば頑なに拒否し、逆に「炎上商法スゲー」などと小賢しくつぶやいてみせたりするのだ。その如何ともし難いひねくれややさぐれ。
まさに末法の世であり、「司法」から「私法」へ、そして「末法」へと退嬰した行き着く先にあるものは「私刑」の瀰漫にほかなるまい。
「私刑」感情の瀰漫は、日本なら秋葉原の大量殺人事件や米国なら数多の銃乱射事件のように、当該者には全く無関係な者を巻き込む「発作」としての蛮行とそれによって来る惨事をその頻度を増加しながら定期的に生起させていくしかないのか。

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