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2013年2月 7日 (木)

「因習」と「凄惨」が、“超近代”と結びつく国

しかし、日本の経営コンサルティング業界だか何だか知らないが、この手の業界というのは、てめえんところの“商品”の“品質管理”や“イメージ戦略”もままならないまま、よくもまぁ存続出来ているものだと、私などは常々感心している。よほど“正常”ではない力を恒常的に社会に働かせているのではないのか。
今や、私たち一般国民にとって、コンサルティング、コンサルタントなどと聞けば、「胡散臭い」「価値無し」「ぼったくり」「じゃあお前が会社経営してみせろよ(笑)」「ブラック」と言った感想が自然に湧いて来ざるを得ないのであり、そういうイメージが確実に浸透し切っている。というのも、この業界が“商品”の“品質管理”すら怠って来たがゆえであり、“欠陥商品”が好き勝手に跋扈することをその鈍感な“危機管理”意識によって許して来たからにほかなるまい。
一方で、AKB48なる女性歌手グループの一員である峯岸みなみという少女を中心に引き起こされた事件は、新自由主義イデオロギーに巧妙に取り込まれてきた大衆心理(マスイメージ)の地層に走った活断層の露呈のような意味を持っている。
それゆえ、案の定と言うべきか、その筋の金融商人が、歪んだ危機意識に基づいてこの件について擁護の立場から言及し始めたのは象徴的事態とみなすべきである。
この問題において大衆から見放されることを本当に恐れているのは、AKB48なる女性グループなのではなく、あのようなものを成り立たせるにいたった“ビジネスモデル”なのだ。
まずは、その擁護の弁と論理を見てみよう。

(引用開始)
『AKBスキャンダルを「ビジネスの常識」で考える』
AKB48の峯岸みなみさんだが、坊主頭での謝罪動画は強烈な印象を与えるものだった。
「やり過ぎ」「気持ち悪い」「恋愛禁止自体がおかしい」、果ては「人権侵害だ」といった批判の声が方々から上がった。
個人の意見としては、筆者も「ここまでしなくてもよかったのではないか」と思う。坊主頭にまでしなくても、ショートヘアくらいで十分、反省の気持ちは伝わるし、その方がビジネス的な悪影響が小さかったのではないか。
また、ネット上の動画は、生々しい映像がいつまでも残るので、将来のマイナス材料になりかねない。
しかし、AKB48という組織のメンバーとして、峯岸さんの取った対応は、満点ではないかもしれないが、合格点には十分に達しているだろう。
これは、完全に峯岸さん個人の判断による行動だったとしても、関係者の演出によるものだったとしても、同じことだ。
何よりも、対応が早かった点が立派である。
熱心な愛好者が多い「アイドル」の役割を集団で演じているAKB48にいながら、 彼女が他のメンバーにも影響しかねない形でルールを破ったことは間違いない。
やり方が過剰だった可能性はあるが、「自分(だけ)が悪かった」というメッセージを「早く」発したことは、組織の一員として、危機管理のために適切な行動だった。
「若い女性に恋愛を禁止するのは非現実的だし、不要だ」というのは、いかにも鈍感な大人の意見だと思う。
一つの考え方ではあろうが、現時点では、AKB48というプロジェクトの現実に即していないのではないか。
不自然ではあっても、特殊である方が、商品として強い場合がある。
この集団は、純化された「アイドル」という役割を演じることで、たとえば「会いに行けるアイドル」というコンセプトに基づくヒット商品を作り出していた。仮に虚構だとしても、AKB48メンバーの"清純"を信じたいコアな顧客層の、他のメンバーに対するイメージは守る必要があるだろう。
今、急に商品イメージを変えることはAKB48全体としても危険だろう。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34793?page=4
(引用終わり)

ここには、オブラートにくるまれてはいるが、「社会通念」に照らして異様と思える論理が満載されている。
「ショートヘアぐらいで十分だったが、坊主頭でも問題ではない、評価すべきは、対応の早さと自分だけの問題として引き受けたことによって、ブランドイメージ及び組織の体裁が守られたことにある」というのが、この文章の論旨になるのだろうが、「森ばかり見て木を見ない、森は木の集合体であるということを見ない」典型的な杜撰論理と言える。
経済学にはマクロ経済学とミクロ経済学という二種類の経済学があるらしいのだが、そういう非整合性、使用論理の乖離、非融通性、いわば学としての「統合の失調」を放置して平然としていられるような学問領域から正常な人間が輩出されるはずがないと私などは思ってしまうのだが、そこまで話を大きくせずとも、この金融商人の用いる論理のいかがわしさというものを、まずは良く認識すべきだろう。
「ショートヘアの方がベターだったかも知れないが、坊主でもかまわない」という言い方は、「坊主にする」という行為それ自体に驚愕している「社会通念」を反古にしてでも目的達成のためには手段を問わないという反社会的商倫理を端的に露呈させている。
「事態がおさまりさえすれば」、謝罪会見だけでも良かったかも知れないが土下座でも良い、土下座だけで良かったかも知れないが、頭を丸めたなら、指をつめたのなら、それも仕方がない…。
この金融商人の論理は、「社会通念」の中にある女性の「ショートヘア」と「坊主頭」の間にあるイメージの断層をあえて不問に付しているところにポイントがある。
ヤクザ社会で行われる因習としての「指詰め」という行為は、起源ははっきりしないが、社会通念上承服しがたい「異常で不可逆的な自傷行為こそが事態をおさめるという黙契」が慣習化されたものだろう。
ポイントは、通常の謝罪行為や契約行為から断絶した異常な行為によってそれに代わるものとしている点にあり、集団内部の異様な結束を確保し、かつ集団外部に対する示威、威嚇としても機能している点にあるのであり、今回の「断髪とその公開」は、それと同等のまたはそれに準じる構造的に同型の行為だった。
したがって、これを不問に付するためには、自らを「反社会倫理」の側に置かなければ不可能である。
とりわけ、この金融商人の「反社会性」は、『関係者の演出によるものだったとしても、同じことだ』という言い方に露呈している。
当該関係者自身すら「あれはあくまでも本人が自発的にやったものだ」と逃げの一手に終始しているのに、この金融商人にかかれば、「関係者の演出だったとしても(組織防衛のためなら)問題ない」ことになってしまうらしい。
現在、一般の企業社会でも、非人間的な退職強要などが茶飯事化しつつあるらしいが、それが十分に社会問題化しないのも、このような「組織防衛のためなら人間は個人として尊重される必要はない」という論理を白昼堂々公言する者たちの非公式な暗躍によるものなのだろう。
しかし、このような論理が内在する「反社会性」については適切に問題化されないようではどうしようもない。
この金融商人の杜撰な論理はこれだけにとどまらない。
この者は「このグループの“清純さ”を信じたいコアな顧客層の信頼をつなぎとめるために、それは有効だった」ような言い方をしているが、そこには企業の社会的責任という観点が完全に欠落している。
企業が、“コアな顧客層”を大切にしようとするのは当然だとはいえ、一部の人間集団にとらわれるあまり、社会的責任を放棄するような企業は、「反社会的団体」として問題視されて当然である。
今回のことで言えば、AKB48を語る者たちに決定的に欠落している視点が、幼児や小児に対する眼差しである。
かつて(と、別に過去が全て良かったというのではないが)、「アイドル」とは子ども達のものだった。
子ども達の憧れのお兄さん、お姉さんであらんがために、彼らにはそれなりの品行方正さが求められたのだし、実際に金を出す親側の審査基準に耐えるものでなければならなかった。
また、彼らを成り立たせ、あるいは報道する側も、子ども達がショックを受けるような報道の仕方は極力控える(大人社会だけに通用するようなものにする)という配慮と抑制があった。
しかし、今日にいたってはそういう構図が歪み切り、“コアな客層”とやらが、それなりに自分で金を融通出来る層になったからか、ある程度の経験を経ないうちはおぞましいショッキングな事象からは保護されるべき子ども達への配慮というのがいつしか完全に欠落してしまったのである。
これを「異常な事態だ」と思う感性を私たちは失ってはならないはずだ。
峯岸みなみという、(内面的、実質的にはどうあれ)表面的には年齢以上に幼く見えるような少女風のキャラクターは、おそらく子どもにも人気があったのではないか。
それが突然、“極道の女”として落とし前をつけさせられている映像がお茶の間に流れるのであり、こういうものを許容しているかのような日本社会が、海外から奇異の目で見られたとしても、それもあまりに当然である。
またこの金融商人の『商品』という語の用法も、到底看過しがたいものである。
いったい、この金融商人の信奉している『ビジネスの常識』とはどのようなものなのか。
和光大学のある教授は、この件について次のように述べている。
(引用開始)
この事件についてはさまざまな疑問の声も上がっているが、特に気になるのは、今回の事件に、日本のブラック企業文化の影が色濃く感じられることだ。
「ブラック企業」は、社員に過剰な労働を強いたり無理なノルマを課したりして、うつなどの深刻な健康障害や、過労死を引き起こすとして問題化している。今回の丸刈り謝罪は、これらの企業を生む文化的土壌と、次の3点で共通している。
まず、働き手が、仕事のためとして、自傷行為にまで及んでいることだ。
ブラック企業についての相談では、社員への罰として社長が社員の髪を切ったり、ノルマを達成できないなら死んでわびろとどなったりするなど、仕事の失敗を社員が体の損傷であがなうことを当然視する例がしばしば見受けられる。
今回の丸刈り謝罪でも、「仕事の責任をとるために体を傷つけてもしかたない」という主張が映像を通じて大々的に流され、AKB側もこれを阻止しなかった。
しかも、そうした自傷行為が、「商品だからしかたない」と受け手から「評価」される異様な事態も生まれている。
たとえば、朝日新聞2月2日付記事では、この事件にからんで、「事務所にとってアイドルは商品。ブランドコントロールは何よりも重要」として正当化する広報コンサルタントの談話が紹介されている。
ここには、体を傷つけずに働ける職場環境を目指す安全衛生の思想や、「労働は商品ではない」という国際労働機関(ILO)の人権の基本はかけらも見えない。
次の共通点は、「組織が命令したわけでなはなく、当人が勝手に決めたこと」として、組織の責任が不問に付されていることだ。
(引用終わり)

ほとんど異論はない。
ILOを持ち出してしまうところなど、杓子定規な議論をしてしまいがちな知識人的脆弱性を感じてしまうが、指摘されていることはまさにその通りであり、この事件の本質は、私たちの経済社会、社会倫理の退廃が活断層のように図らずも露呈したところにあるのだ。
東大卒の金融商人が、金融村プロパガンダ商品として擁護しようとしているのは、〈新自由主義イデオロギーと極道商法の融合形態〉であって、政治的にも、これは労働問題、人権問題、商法問題のみならず外交問題の間接的な遠因になる要素をはらんでいる。
このような“活断層”に着目できなければ、「生活」もへったくれもないのであって、「大衆の自立、自律的自立」はこうした象徴的事案を契機に積極的に論議されなければならないはずのものだ。
だが、この国のメディア環境は、今後この問題を積極的に“タブー化”することには貢献しても、社会化する上で無能を貫くだろう、我が恥ずかしき自称クールジャパン政府同様に。
既に「司法」は「私法」へといたり「私刑」黙認へと傾いている。
この戦慄すべき社会に生きていることに触れたくないというのなら、私たちの「生活の質」は、ますます低下の一途をたどるよりほかになくなってしまう。

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