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2013年3月29日 (金)

『経済ジェノサイド』(平凡社新書)について③


①と②で言及したように、著者の中山智香子は、序章において、「アントロポス」と「フマニタス」という概念を先制攻撃のように打ち出して、「独善」と「欺瞞」の渦巻く“市場”に引き込もって“軍隊”の後ろ側から“自画自賛”と“策略的/脅迫的言辞”(ポジション・トーク)を弄してやまない「フマニタス改めホモ・エコノミクス」に対して『人間の暮らし(The Livehood of Man)』を見よ/読めと通告する。
「人間の暮らし」とはすなわち「営み」であり「生活」にほかなるまい。「営み」「暮らし」「生活」の何たるかを見ずして良き「人間」概念は本来成り立つはずのないものだ。
「生活」それ自体の芸術化、それが文化的に高度に発達した諸集団が歴史的に試み、求めてきたもののはずなのだが、文化的に遅れた/文化的なものから見放された/文化的に破綻した、野蛮な一部の集団が、「略奪と搾取の合法化と合理化」に“原理的に”走り始めた頃から、人間は「市場の拡大」と「機械の進歩」に“奉仕”するために自らの生命を維持するようになり、どれだけ命をすり減らし貢献したかを“ステイタス”とみなすようになった。

カール・ポランニー(ポラニー)が、既に60年以上も前に発表していた論文(「時代遅れの市場志向」:『経済の文明史』ちくま学芸文庫)は、次のような記述で始まっている。
(引用開始)
機械時代の最初の一世紀が恐怖とおののきのうちに幕を閉じようとしている。人間がみずからすすんで、熱狂的なまでに機械の要求に服従した結果、この時代の物質的成功はすばらしいものであった。結局、自由主義的資本主義とは産業革命の挑戦に対する人間の最初の対応であったのである。われわれは、精巧で強力な機械を存分に使用するために、人間の経済を自己調整的な市場システムに変形し、その思想や価値をも、新しく特異なシステムに適合するように鋳直したのであった。
今日、われわれは、このような思想と価値のいくつかについて、その真理性と妥当性を疑いはじめている。もはや、アメリカ合衆国以外については、自由主義的資本主義が今なお存在しているなどということはほとんど不可能に近い。われわれが今新しく直面している問題は、人間生活をどう組織するかということである。……
(引用、終わり)
まるで今日の状況そのままを、素晴らしく優秀なジャーナリストが的確に描き出しているかのような文章ではないか。
ヨーロッパ(EU)は、ポランニーがせっかく『不可能に近い』と予め助言してくれていたのに、それを無視して「不可能に挑戦し続けた」ために制度的な見掛けとは裏腹に実態は無惨なまでに壊れてしまった。(“自由市場”からの手痛い逆襲を受けてしまった)
アメリカ合衆国は、ポランニーが『アメリカ合衆国以外では』とわざわざ忠告してくれているのに、「野蛮な自由主義の輸出」にもう半世紀以上に渡りこだわり続けているため、世界のいたるところの文化や歴史、制度はもとより「人間の生活」全般を破壊して回っては、“恨み”と“軽蔑”を買い続け/輸入し続けている。
中山はだから、ある意味で今日を生きるポランニーとして、まさに今日的な視線から、「フマニタス」が生んだ鬼子としての「ホモ・エコノミクス」に対する訣別宣言/マニフェストを、また、訣別にあたっての餞別/贈与の一撃を加え始めたのだと言えよう。
現実には、狂信的とも言えるアメリカ合衆国発“特殊自由主義”は、ポランニーの死を待っていたかのように、フリードマンというある意味で稀有なデマゴーグを得ることにより、その理論めかした口先とは裏腹に、政府/政治/軍隊と緊密に連携をとりながら、大々的な「経済ジェノサイド」に乗り出している。
この震撼すべき現実は、誰にでも分かるような形で的確に対象化されていかなければならず、その点、全体的に穏やかかつ平明な文体ながら、“分かっている者”からすれば、相当にキツい一撃を中山氏は放っていると言って良いのではないだろうか。
(このような勇気ある研究と提言をする者を、だから私たちは適切な形で守って行く必要があるだろう。私たちは、自らの無力無能を卑下する必要はない。スポーツに例えれば、自分たちの代表であるような“選手”を守り、応援することも、立派な社会貢献になり得るのだ)
その中山の新書の第一章は、「何のための市場形成か」と題され、副題に「チリのクーデターと経済政策」とある。ここでは、『ショック・ドクトリン』でも言及されているチリにおける「ショック療法」がどのような結末をもたらしたのか、(私たちのような事情に疎い者にはマスメディアによっては十分に知らされて来なかった)最強にして最良の批判者(アンドレ・グンダー・フランク)を狂言回しとして登場させることで描き出している。

さて、その第一章を見ていく前に、問題のチリなのだが、私のように基礎教養に乏しい者は、地図上の位置くらいは辛うじて分かるものの、それ以外のチリに関する知識/情報には恥ずかしいほど疎かったと正直に告白しておかなければならない。
米国支配者層の情報戦略傘下にあって、情報の非対称性(情報目眩まし/報道しない自由)がいかに達成されているのかを噛みしめるためにも、50年前のチリとはどのような国だったのか、端的にまとめられた記述として、Wikipediaに記されているものを予備知識として参照してみたい。
(因みに、チリはTPPの参加国であるが、米国が割り込んで来てからのチリ政府あるいはチリ国民の声は全く私たちの耳には届けられていないと言って良いだろう。「スネ夫」型マスメディアしか持てないでいる私たちは、情報の非対称性が健全なバランス感覚、判断基準を狂わせる/曇らせることに全く無頓着のまま生活していることにも自戒とともに注意を向けるべきだ)

(引用開始)
「チリ革命とピノチェト時代」
1964年にキリスト教民主党のエドゥアルド・フレイ・モンタルバが、人民行動戦線のサルバドール・アジェンデを破って大統領に就任した。
「自由の中の革命」を唱えたフレイは「銅山のチリ化」や、部分的な農地改革を行った。「銅山のチリ化」、農地改革は共に不徹底なものに終わったが、政治における民衆動員は、1970年の大統領選挙における階級対立の図式を整えることとなった。
1970年の大統領選挙により、人民連合のアジェンデ大統領を首班とする社会主義政権が誕生した。これは世界初の民主的選挙によって成立した社会主義政権であった。アジェンデは帝国主義による従属からの独立と、自主外交を掲げ、第三世界との外交関係の多様化、キューバ革命以来断絶していたキューバとの国交回復、同時期にペルー革命を進めていたペルーのベラスコ政権との友好関係樹立などにはじまり、鉱山や外国企業の国営化、農地改革による封建的大土地所有制の解体などの特筆すべき改革を行ったが、しかし、ポプリスモ的な経済政策は外貨を使い果たしてハイパーインフレを招き、また、西半球に第二のキューバが生まれることを恐れていたアメリカ合衆国はCIAを使って右翼にスト・デモを引き起こさせるなどの工作をすると、チリ経済は大混乱に陥り、物質不足から政権への信頼が揺らぐようになった。
(引用者注:この一連の流れは、民主党政権の成立とその崩壊における日本政治の流れと恐ろしく似通っていることに注意しよう。我が国の民主党は、社会主義を歌っていたわけではないが、少なくともリベラルを標榜していたのは確かだし、実際、選挙基盤の柱の一つに、まがりなりにも一応は日本最大の労働者組織である「連合」が位置していた。こういうものに対する米国側の警戒心というのは一種病的なものがあると言って良いだろう。恐らく、鳩山や小沢は米国にとって許されざる裏切り者に見えていたのだ、しかし、その狭量なことと言ったら。落ちぶれ行く者たちのヒステリーを私たちが共有しなければならない正当な理由は一切ないと言うべきだ)
さらに、極左派はアジェンデを見限って工場の占拠などの実力行使に出るようになった。
こうした社会的混乱の中で、1973年9月11日、アメリカ合衆国の後援を受けたアウグスト・ピノチェト将軍らの軍事評議会がクーデターを起こしてモネダ宮殿を攻撃すると、降伏を拒否したアジェンデは死亡し、チリの民主主義体制は崩壊した。
(引用終わり)

そして中山智香子は、第一章を次のように始めている。

(引用開始)
『11'09"01/セブテンパー11』という映画をご存じだろうか。ニューヨークの世界貿易センタービルとアメリカ国防省本庁舎(ペンタゴン)に飛行機が激突した二00一年九月一一日からおよそ一年後、この事件を考えるために、世界の映画監督たちが一一分九秒一フレーム(先の日付と同じ並びになる)で短編映画をつくり、一一篇を集めた作品だ。(中略)なかでも目を引くのは、ケン・ローチ監督のつくったイギリス篇である。しかし「イギリス」はそのテーマの中心ではない。むしろ中心にあるのはチリの九月一一日、そして二00一年ではなく一九七三年である。この日チリでは、アウグスト・ピノチェトによるクーデターが行われ、チリの体制は一新されて、反対派の人びとが酷い弾圧や拷問を受けるようになった。だからチリの人びとにとって、セプテンバー・イレブンといえばまず一九七三年のことである。(中略)そしてクーデターの翌日から行われたのが、それまでとはまったく異なる経済政策であった。これこそがクラインが『ショック・ドクトリン』で第一に分析した、最初のショック・ドクトリンの試みである。
(引用終わり)

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