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2013年3月 5日 (火)

「PC遠隔操作事件」の新局面について

せっかく、素晴らしい本に出会い、その中身について詳しく言及してみたいと思っていた矢先に、「PC遠隔操作事件」が新たな局面に突入したようだ。
私自身は、「IT小学生以下」を自認しているため、事件の中身や捜査内容の詳細について云々することはできない。
ただ、当事件における5人目の容疑者逮捕報道のあまりの異様さに、不穏なものを感じて言及してみたに過ぎないのだが、内心予感していた通り、当該容疑者に対する警察の捜査は行き詰まり、検察判断は当初容疑については証拠不十分につき処分保留による不起訴という結論に達したらしい。
通常なら、刑事訴訟手続き的にはこれにて幕引きのはずだが、そうあっては沽券にかかわると思ってかどうか知らないが、警察側は別件の脅迫メール事件について「ハイジャック防止法」だかなんだかを適用して再逮捕に持ち込んだとのことだ。
なんのことはない勾留延長目的の再逮捕であり、悪名高き「代用監獄」作戦に舵を切ったのだとみなされても仕方のないものだろう。
こういうやり方というものは、昔はさほど警察や検察に批判的ではなかった私のような人間にとっても、“あの事件”以来の既視感を覚えさせるに十分なものでしかなく、本当にやりきれない思いをさせられざるを得ないものだ。
当初の5人目逮捕の報道に接した際には、私も担当の弁護士同様、さすがに今回は真犯人である蓋然性が高いのだろうと憶測し、しかし、その報道の過熱振りから「三浦ナニガシ事件」を想起したのだったが、その後の警察のだらしなさと出鱈目さを見る限り、「松本サリン事件」における「河野さん犯人視事件(?)」と似たようなパターンになりつつあるのではないかと今では思い始めている。
あの時の警察のリーク情報による報道合戦も卑劣極まりないものだったが、今度の場合、容疑者を執拗かつ徹底的に侮辱してやろうという悪意/犯意がそこに加味されている点において、当時よりさらに卑劣化しているのであり、この容疑者が結果的に真犯人であろうとなかろうと、やはり容易に見過ごしてはならないものになっている。
戦後の混乱期において、幾つかの重大な冤罪事件が発生している点については多少の同情の余地はあるにしても、「三浦ナニガシ事件」やあるいは「河野さん犯人視事件」を経てなお捜査機関と報道機関の結託による「因習」が反復され、その周囲に目隠しをされた“正義感あふれる市民”が「私刑」を構成するために配置される構図というものを、私たちはいつまで目撃させられなければならないのだろうか。
正直、そこそこの年齢に達した者なら誰しも、いい加減こういうことについてはとことんうんざりしなければおかしいのではないのか。
私たちが胆に銘じるべきだと思うのは、こういうことというものは、「ある犯罪Aをめぐり、それを解決しようとして、犯罪Bが新たに発生しているに過ぎない」という事実認識である。
いったい、「新たな犯罪Bを発生させることによって解決されるべき犯罪A」などというものがあるのか/あっていいのか。
「犯罪A」の容疑者について、捜査の進展の結果、真犯人である蓋然性が高まったのなら、然るべき刑事訴訟手続きにのせられるべきことは当然だとしても、そのプロセスにおいて本来なら発生するはずのない「犯罪B」が“なぜか”発生したのなら、その実行犯についても立件され、刑事訴訟手続きにのせられて然るべきではないのか。
この国の「無責任体制」というものは、いかに「犯罪A」よりも「犯罪B」の方が微罪に該当するような事案であったとしても、明白な犯罪が「因習」力学によって安易に見過ごされ、不問に付されることが常態化していることによって蔓延している。
一方では「コンプライアンス」なる聞き慣れない概念を連呼することによって、一般社会人のやる気やモチベーションをも摘み取り、あるいは萎縮させながら、一方の「因習」力学に関わる(明白な犯意を内包する)卑劣犯罪については、予め“必要悪”として措定され見過ごされていく…。
いったい「公正な社会」という観点からすれば、明らかに「不公正」かつ「不健全」でしかないのあり、いつまでも見過ごされたままであってはならない「前近代性」でしかないではないか。
我が国の「法の専門家」とやらの集団だか業界だか知らないが、彼らの中には「因習」の前には無力を決め込み、偉ぶる/権威ぶることにかけては人一倍“有能な”人間しかいないのか。
私たちが広い意味における司法関係者に対して敬意を抱くことがあり得るとするなら、それは、どこまで追求しても完全ということはなかなかあり得ないであろう適切なデュー・プロセスを、それでも追求しようとするような姿勢を見せる人に対してであって、“有能”めかして人様をやたらめったに逮捕したり、やってもいない行為について自白に追い込んだりするような人ではない、当然のことながら。
厚労省の郵便詐欺事件では、“有能”でありたいがために証拠をでっちあげてしまった検事が罪を問われている。小沢事件では、“有能”でありたいがために、虚偽の捜査報告書を作文した検事が、なぜか公の罪に問われないながらも、しかし、検察の決定的/不可逆的な権威の低下というものにこれ以上ない貢献をしている。
そういう特捜検察の失態を横目で眺めていたはずの警察が、しかし、「因習」の前に無力をさらけ出し、むしろ「因習」力学に頼りきってブザマな醜態をさらけ出しているのが人をして“観衆”である気力を萎えさせるような始末に負えない実状であり実態なのだ。
これほどの短期間の内に、何回同じことを繰り返せば気が済むというのだろうか。
焦れば焦るほど、有能にみせかけようとすればするほど、事態を悪化させ、愉快犯(予備軍)を図に乗らせる結果を招来していることに、なぜ気付こうとしないのか?
なぜ、自らを客観視する「肝心な能力」については、これほどまでに劣っているのか?
どれほどのメンツやプライドや自負や矜恃があるのかないのか知らないが、客観的には“喜び勇んで墓穴を掘りに行っている”ようにしか見えないではないか。
まず、何よりも自分で自分がイヤにならないのだろうか?
今回の事件を契機として、ある“聡明な”精神科医が、〈自己愛〉と〈自己顕示欲〉というキーワードを提出したのは示唆的だ。
その“聡明な”精神科医は、その“理知的な”分析結果をあくまでも容疑者に対して投げ掛けたつもりでいるようだが、むしろ、〈自己愛〉と〈自己顕示欲〉についてよくよく吟味しなければならないのは実は「捜査機関」側と「報道機関」側ではないのか。

だが、それでも私は、これほどの失態をされけ出しながら、あくまでも相対的にではあるが、「捜査機関」側には同情的である。
彼らは間違いなく生じた「犯罪A」に対して、その解決/解明に対して責任を負っており、それをどういうレベルであれ職員各々が自覚しているのも確かだから。
もはやどうにも許しがたいのは「報道機関」側だ。
彼らは、リーク情報を垂れ流すだけでは飽き足らず、そこに輪をかけて、当該容疑者のプライバシーの侵害ばかりか、周囲の者の平穏な生活を送る権利をも徒に侵害してやむことがない。
そういうことをすることで、「権力」には逆らうことの出来ない無能感、不全感を取材対象全体に投影し、容疑者に対しては自らの偏執的変質者的犯罪衝動を転嫁することによって、その歪んだ「自己愛」と「自己顕示欲」とをこれ以上ない穢いやり方で満たしているのだ。
このような者たちが、徒党を組んで社会を荒らし回ることをこのままの形で許して行けば、当然、「権力」の側は、健全な社会ならば与えられるはずの内省の契機/機会というものを与えられないままその独善性が亢進されるばかりになるのだし、私たちの生活あるいは民度は、歪んだ「自己顕示欲」の形成する喧騒の渦の中に捲き込まれて、適正な方向感覚を失わされるままになってしまうのだ。

いい加減、こういう事の反復には、とことんうんざりするべきだし、こういう事の解消/解体に向けて、どんなレベルであれ声を挙げるべきだ。
これ以上、自分の生活を、哀しみと恐怖とうんざり感、倦怠感で満たさないために。

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