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2013年3月15日 (金)

『経済ジェノサイド』(平凡社新書)について②

私は、当ブログにおいて、自分の思い付きだったか、誰かの受け売りだったか忘れてしまったが、政治経済の〈1970年問題〉に注目すべきだと書いた記憶がある。

本書にあっては、序章部分で次のような記述がある。
(『』内、引用文)

『それ(政府の介入・統治)に対する反発が次第に高まり、「一九六八年」に頂点に達した。社会運動や学生運動は国家権力に抗い、別の「自由」を求めた。しかし他方でフリードマンの経済学が評価を受けはじめるのも、ほぼこの頃からである。本書はここに照準する。』(18頁〜)
著者も私の問題意識を共有してくれているようで、単純に嬉しかった。
柄谷行人ばりの「起源思考」は難しいにしても、あらゆる問題は、やはり「起源」を照準とすることで解きほぐされる必要があるだろう。

では、「1968年」とはどんな年だったのか。
象徴的に1968年と言う場合、主として「パリ五月革命」の起きた年という意味で用いられることが多いだろう。
同時に、1968年は「プラハの春」の年でもある。
しかし、米国に目を移すなら、この年は、キング牧師暗殺の年であり、ベトナム戦争の北爆一時停止の年であるとともに、ニクソン大統領誕生の年であることも忘れてはならないだろう。

つまり、第二次大戦後、東西の両陣営に分断された双方において、その最も洗練された地域と言って良い場所で、思慮深い民衆らが新たな「自由」を求めて声を上げたのがこの年だった一方、著者の言う通り、実質的に「戦後」という区切りが存在しなかった米国では、西側陣営の「自由」を防衛するという名目で始めたベトナム戦争が目論見通り展開しないまま、米国史において最も尊敬されるべき人物の一人が暗殺された年であると同時に、ニクソン体制が産声をあげようとする年でもあったことになる。

誰もが「人間」という語を肯定的に用い、誰もが「自由」という語を肯定的に用いながらも、しかし各々が、それらの語に勝手なリミットを設け、それ以外をオフリミットとして様々な囲い込み運動を始めていたのだ。

「プラハの春」が、東側の覇権国家であった当時のソ連を震撼させたように、「五月革命」と「ベトナム戦争長期化」は、西側の覇権国家である米国主導のブレトンウッズ体制の崩壊の序曲を奏でていたのだが、民衆の側は、しかし「人間」だとか「自由」といった概念に対する素朴な信頼について根底的に懐疑するまでにはいたらなかったために、東西双方の側から「冷戦構造」を民衆主導によって崩壊させるに至る力もまた結局持ち得なかった。

いったい、東西それぞれの陣営に分断された私たちは、しかし、同時期にそれぞれの地でそれぞれの体制の内にあって何が許せない/何を打破しようとして声を上げたのだったか。

今日それは改めて再考されるべき課題であり、著者は、そこに一つの回答として、「フマニタス」と「アントロポス」のせめぎあい/対立があったのだとする差異線を引いてみせる。


『「アントロポス(anthropos)」はギリシア語で「人類」、「人間」をあらわす言葉で、ピテコス(猿)と結びつくとピテカントロポス、つまりジャワ原人などの「原人」に通じる人間概念である。しかし人間が猿から進化したという考え方は、進化論の生まれた頃から現在に至るまで、人間を高みに置きたい人びとにとっては認めたくない事実のようであり、アントロポスという用語はその筋からは決して評価されない。
一方、これに対してラテン語の「フマニタス(humanitas)」、つまりヒューマニズムとかヒューマンという言葉につながるもうひとつの「人間」概念があり、とくにヨーロッパ起源の思想史のなかでは、ずっとこちらが優位に立ってきた。諸動物、畜生とは違う人間サマという位置づけの人間概念である。』(21頁〜)


私たちは、一口にヒューマニズムと言うと手放しで称賛してしまいがちなのだが、しかし、例えば、当時としては確かに画期的には違いなかった合衆国憲法やフランス人権宣言に見られる「人間」の範囲が、実態的には、今日想像するよりも驚くほど狭いということも予備知識として知っておくべきだと思う。(ちなみに、米国で公民権法が制定されたのは、1964年というごく最近のことでしかないことは記憶にとどめておくべきだ)

もちろん、こう言ったからといって、ヒューマニズムが達成した数々の人類史的な意義が減じられるわけではないが、しかし、ヒューマニズムが宿痾のように内包する「独善と欺瞞」(たぐいまれな眩惑効果を有する自己宣伝と自画自賛)に気付き、ヒューマニズムを生み出した本家の地においてそれが本格的に相対化され始めたのは、東西に分断された民衆が双方で声を上げ始めた時期とシンクロするということも、著者が強調している通り、私たちが押さえておくべき事柄だろう。

そして、こうしたキー概念の拡張化と混沌化の中にあって、(著者の用いている表現を若干過激化して言い換えるなら)フマニタス、アントロポス双方を、経済学的に純化/単純化された「ホモ・エコノミクス」に見立て囲い込み、フラットに偽装された牧場=市場に投げ込んでおいて、「難しいことは考えずに競争できる自由に酔いしれろ、そしてそれを自由概念の最上位に位置付けよ」とご託宣を垂れ始めたのが、「フリードマン主義」というものの役割であり効果ということになるのではないか。

これは、「自由」という概念をめぐる一種の文脈の換骨脱胎戦略とみなすことができ、「自由」という名の美酒を求めてさ迷う人々に、「自由」という名の阿片を投げ与えて眩惑させるようなものであって、いってみれば、1970年以降、〈概念の新阿片戦争戦略〉が遂行され始めたのだとも言える。(リベラリズムに対してリバタリアニズム、ニューリベラリズムに対してネオリベラリズム……「自由」は次々と装いを新たにして人々を誘惑し眩惑し、倫理的な麻痺状態を常態化させていく)

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コメント

こんにちは。
事後承諾となりたいへん申し訳ありませんが,『2012年3月23日 (金) 吉本隆明が亡くなった。』 http://m-d797c8f9d5a37500-m.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-61fd-1.html#comments
を,「銅のはしご」に引用いたしましたことをお知らせ致します。アタマとカオが悪い上に体調不良まで言い訳にしたくなかったのですが,まとめ方が上手いとは言えません事を,今回はお許し下さい。
昨年,この記事を拝見してから,なにか自分でも書いてみようという勇気が出ました事も再度あわせてお礼申し上げます。
なお,批評的態度は取りたくないのですが,これも今アタマが良く回りませんのでザックリ申し上げます。今月になってからのDaily Cafeteriaの記事は特に新しいステージに昇った,凄い,という感想を持ちます。今後も御健闘下さいませ。

投稿: 植杉レイナ | 2013年3月17日 (日) 07時59分

植杉さま、コメントありがとうございます。

体調の方はいかがですか?
吉本が、日本社会にどれほどの影響力を有していたのか、よく分かりませんが、しかし、大きな羅針盤の一つを失い、ますますこの社会はオンボロ漂流船のような様相を呈してきた気がしますね。

それにしても、言論とは難しいもので、例えばヒューマニズム批判をしていると、ヒューマニズムを乗り越えて覚醒すべき相対的に真っ当な人々が意気消沈してしまい、最初からヒューマニズムのヒの字もなかったような悪党どもが逆に活気づいてしまう、といったことが起こりますね。

マスコミ批判にしても同じことです。

「ネット」にしても「市場」にしても、「自由」であればあるほど、むしろ悪党どもに都合が良く、悪貨が良貨を駆逐しやすくなってしまいます。

かといって、「人間は極力、個人として自由であるべきだし、個人として尊重されるべきだ」という近代の理想を安易に放棄してしまうと、悪貨だの良貨だのを超越した「力=権力」が全てをコントロールし始めてしまいます。

「自由」な環境とは、良貨にとっても悪貨にとっても居心地が良いことは間違いないのであって、「悪貨が良貨を駆逐する」ような環境は「自由」にとって望ましくない環境ですが、「良貨が悪貨を殲滅する」ような環境もやはり「自由」にとっては望ましくない環境でしょう。
したがって「自由」と「寛容」はいつでも双子の兄弟であるべきであり、吉本が常に警戒的に語っていたように、悪党どもに煽られて「倫理的になり過ぎると、かえって自らの自由をも殺してしまう」ということが生じがちだと思います。

だからこそ逆に言えば、「自由」を尊重したいがゆえに「なし崩しの自由、強権を呼び込む自由」に対する批判を怠ってはならないし、指導的立場にある人たちはそういう両義性に耐えるべきですが、
小沢だとか一部の政治家を除いて、そういう「大きな存在」がどんどん消えて行っているのが今なのでしょうね。

両義性は、マニュアル化、法文化に適しないものです。
ファーストフード店のマニュアルに、「お客様は満面の笑みでお迎えすべきだが、しかし、お客様だからといって無闇に愛想よく振る舞う必要はない」などと書いてあったら、むしろ従業員の側から苦情が出るのでしょうね(笑)。
しかし、現実とは本当はいつでも両義的なものではないでしょうか。
小粒のマニュアル人間しか生産できない「合理性」が、したがって、むしろ不合理な、ぎくしゃくとした社会を形成してしまうのは当然かと思います。

植杉さんが、医者に感じる違和感、それも、やはり、たとえ医学専門知においては相手の方が優れていても、マニュアル知を絶対化しているような小粒感に辟易してしまうからだと思います。

「市場原理主義」も「ルール絶対主義」も、「合理性」に頼りきったマニュアル化社会のつまらなさそのものと言えるのではないでしょうか。

長くなってしまいましたが、どうぞお大事になさってください。

投稿: にいのり | 2013年3月17日 (日) 21時13分

期待以上のお返事をありがとうございます。次回入院まで,ムリせずやりすごそうと思ってます。

投稿: 植杉レイナ | 2013年3月18日 (月) 09時25分

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