« 私たちは、<のび太シンドローム>から、いつになったら/どうすれば、帰還/脱出することができるのか。 (カーゴ・カルトの一類型としての「ドラえもん」/「日米安保」) | トップページ | 私たちは、<のび太シンドローム>から、いつになったら/どうすれば、帰還/脱出することが出来るか?3 »

2013年4月20日 (土)

私たちは<のび太シンドローム>から、いつになったら/どうすれば、帰還/脱出することができるのか。2

(『経済ジェノサイド』を読み進めるにあたっての補助線⑤)

(前項からのつづき)
「ドラえもん」物語とは、このように(進歩的合理主義者を気取れば気取るほど説話構造の内部に取り込まれないではいられない)「近代的未開構造」もしくは「近代型カーゴ・カルト構造」を巧みに取り入れた説話集とみなすことが可能なのだが、一方で、戦後日本人として「ドラえもん」物語に接触する時、「ドラえもん」物語の持つ普遍性とは別の〈特殊日本性〉とでも言うべきものにもひっかからざるを得なくなるところがある。
そして、それはとりもなおさず、「のび太」という主人公の在り方によるものだ。
「のび太」とはいったい誰なのか、あるいは何なのか。
この重要な問いを考えるにあたって、海の向こうは米国の、恐らく今でも世界の多くのみんなが知っているマンガ作品にご登場いただければ、事態はかなり明瞭な輪郭を帯びてくるのではないか。
『ピーナッツ』(スヌーピーとチャーリー・ブラウン)、それが米国マンガ作品代表としてご登場いただくものだ。
思えば、日本生まれの「のび太」と能力的にはほぼ同種同レベルの人物に見える米国生まれの「チャーリー・ブラウン」……。
彼を主人公とするマンガ『ピーナッツ』とは、多くの米国人の無意識に何らかの“風景”を形成せしめている教訓に満ち満ちた巨大なマンガ作品のひとつなのであろうが、まず『ピーナッツ』物語の特徴と言えば、その荒唐無稽なイメージとはうらはらに、私たち人間が送り得る物理的な日常性からはけっして離脱しない点に求められるだろう。(強いて超常現象を挙げるなら、スヌーピーが時々、変身をしてみせる程度か。しかし、その変身にしても、ほとんどはコスプレの類いであり、スーパーマンのようにマントを羽織っただけで、超物理的現象を引き起こすようなものではない)
そういう意味で、デフォルメされているとはいえ、とても冴えない男の子の日常が、どんな同情も介在する余地すらなく、「冴えない男の子の日常って、いつもこうなのさ」という感じでシニカルに描き出されている。
米国人がこのマンガをどのように受容しているのか、米国人でもなければ、その内情にも通じていない私には実感としてよく分からない部分はあるのだが、少なくともこの作品世界の内部では、「チャーリー・ブラウン」が「野比のび太」のように地団駄を踏みながらワガママを叫んでみたところで、それを受け止め、なおかつその解決/解消に向けて動いてくれる能力を持つ人物は誰一人として登場しない/登場できない。
ロボット猫「ドラえもん」同様、主人公のそれを遥かに凌ぐ人気を有する愛犬「スヌーピー」にしても(キャラクターグッズとしては、その愛らしい存在感だけで人気を博しているようにも見えるが)、ストーリーの中では、いたずらし放題のやんちゃ犬に過ぎず、飼い主を助けるどころか、飼い主の困惑を余所に様々な騒動を引き起こしてはご満悦の様子である。
そればかりか、「ドラえもん」物語では、ロボット猫の方が飼い主よりも圧倒的に高い能力を持つのに、主従関係はどこまでも固定的に維持され、従は主に対する“配慮”をけっして放棄することはないのだが、
「ピーナッツ」物語では、時として、飼い犬自身が自分のことを主であると思い込んでいる節がある。
他にも、この両作品にあっては、余りにも対照的に過ぎる要素に満ち満ちているといえる。
「のび太」の憧れのマドンナたる「しずかちゃん」は、おそらく「のび太」に恋心を抱くことはあり得ないようには見えるのだが、しかし、ダメダメな「のび太」をけっして見放そうとはせず、良き隣人、良き遊び相手として彼を暖かく見守り続ける。
一方で、「チャーリー」の女友達「ルーシー」は、ほとんど「チャーリー」を人間扱いしておらず、自分の内側から湧き出る訳の分からない“ウサ”を晴らすための遊び道具にしかみなしていないのではないかと見えるような乱暴娘だ。
「のび太」なら、「ジャイアンに苛められるんならまだ分かるけど、何でボクがしずかちゃんに意地悪されなきゃならないんだよぉ、ドラえも〜ん」とコブシを振り上げながら地団駄を踏み、「ドラえもん」を困らせるところだ。
もちろん、「ピーナッツ」物語も微細に読み込めば、登場人物相互の親密な心理交流も描かれてはいるのだが、しかし、「チャーリー」の置かれている状況とは、日本人(東洋人)の微温的な人間関係からは想像しにくいような過酷なものであることは確かだ。
これ以上、両作品の詳細に言及している余裕はないが、しかし、私たちが(あるいは私たちの社会が)いかに「ドラえもん」物語と親和的なものであるかを理解するための、格好の比較考察対象として、「ピーナッツ」物語があるのは間違いないし、その両者が、何よりも双方の原産国において息の長いポピュラリティを獲得しているのも偶然ではないだろう。
(「ピーナッツ」作品より20年ほど後発作品となる「ドラえもん」の作者が、どれほどの知識を持ち、どれほど意識をしていたのか、私のような門外漢的人間には分からないし調べようもないところがあるが、少なくともこの両作品は、どちらも冴えない男の子を主人公にしながら、周囲の環境はあまりにも対比的、対照的に描き出されており、このような作品の発生とその受容については、比較文化学やカルチュラルスタディーズなどの興味深い対象であるはずであり、きちんとした人に論じられて然るべきものではないだろうか)
いったい、米国人にとって、「チャーリー・ブラウン」とは何者なのだろう?「チャーリーが好き、チャーリーに憧れる」という人は滅多にいないだろうことは理解できるにしても、「チャーリー」がひたすら忌避すべき否定すべき対象であったなら、いくらスヌーピーの存在があったとしても、この作品が、これほどのポピュラリティを獲得することはなかったろう。
私には、「チャーリーはスーパーマンの夢を見るか?」程度の問いしか浮かんで来ないのだが、アメリカ事情に詳しいらしい町山智浩あたりならどう言うのだろう。(残念ながら、私は彼の著作を読んだことがない)
だが、「のび太」と彼をめぐる神話的/親和的世界についてなら、もう少し何か言えそうだ。

|

« 私たちは、<のび太シンドローム>から、いつになったら/どうすれば、帰還/脱出することができるのか。 (カーゴ・カルトの一類型としての「ドラえもん」/「日米安保」) | トップページ | 私たちは、<のび太シンドローム>から、いつになったら/どうすれば、帰還/脱出することが出来るか?3 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1182932/51309877

この記事へのトラックバック一覧です: 私たちは<のび太シンドローム>から、いつになったら/どうすれば、帰還/脱出することができるのか。2:

« 私たちは、<のび太シンドローム>から、いつになったら/どうすれば、帰還/脱出することができるのか。 (カーゴ・カルトの一類型としての「ドラえもん」/「日米安保」) | トップページ | 私たちは、<のび太シンドローム>から、いつになったら/どうすれば、帰還/脱出することが出来るか?3 »