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2013年4月18日 (木)

私たちは、<のび太シンドローム>から、いつになったら/どうすれば、帰還/脱出することができるのか。 (カーゴ・カルトの一類型としての「ドラえもん」/「日米安保」)

(『経済ジェノサイド』を読み進めるにあたっての補助線④)

戦後日本人の無意識に突き刺さっている、あるいは無意識が包摂されていると形容すべき巨大マンガは何かと言えば、「サザエさん」と「ドラえもん」の右に出るものはないのではなかろうか。少なくとも、その息の長いポピュラリティの獲得という一点を取り出しただけでも、大きな異論は出ないように思う。
日本には歴史に残るべき偉大な漫画家とそのマンガ作品とが数多くあれど、例えば手塚治虫のマンガは、やはり作家性の強いものであり、手塚治虫亡き後に、他人が勝手に手を出すのを許さないところがある。
「ゴルゴ13」あたりは、作者が亡くなってとしても弟子筋のスタッフ集団が新作を作り続け得るものではあろうが、登場人物全てが物語の基本構造を担うものではなく、考え得るあらゆる説話パターンに「東郷」という特異なキャラクター一人だけを投げ込めば成立し得るものだ。
他にも歴史的に重要と言うべき作品は多々あるのだろうが、仮に他人が関わってもいかにも「サザエさん」らしい「サザエさん」、いかにも「ドラえもん」らしい「ドラえもん」物語を作ってしまえるような、すなわち登場人物全てが特有の説話構造を支える際立った役割を持ちながら、決して飽きさせないシンプルにして多様な表現を実現し得るポテンシャルを持つマンガ作品は、他にはなかなか見出だせないように思う。
そういう意味で、私たちは/私たちの無意識の相当部分は、双頭の鷲の旗の下ならぬ、双頭のマンガの構造の内部で生きて来て(しまって)いるのであり、この二つのマンガは、たとえ大袈裟に聞こえようとも、戦後日本人の〈世俗神話〉として定着し作用していると言い得る。
特に「ドラえもん」は、物語の中心に「ドラえもん」と呼ばれる〈まれびと〉が関わっている点において、より神話世界に近い構造を有している。
そして、〈まれびと〉たる「ドラえもん」の四次元ポケットからもたらされる様々な愉快にして便利な機械・道具を常に待望し続ける「のび太」は、まさに〈カーゴ・カルト〉の信仰者にほかならない。
仮に「ドラえもん」がある日突然「のび太」の許を去ってしまったなら、あわれ「のび太」は、「タケコプター」のように何十キロもの物体を空中に浮遊させる能力をけっして持つことのない昔ながらの文字通り竹製「タケトンボ」を毎日作り続け、「ドラえもん」の再臨を祈願し続けることになるのだろう。
私がいま使用した〈カーゴ・カルト〉なる用語は、文化人類学の方の用語であるようだが、それは現実問題として、かなり偏見に満ちた差別的視線とともに誕生した用語ではあるようなのだが、しかし、文明、特に近代文明との接触を強いられた人間(それは文明とは離れた環境で歴史を形成してきた(成人)集団の場合もあれば、やがては近代人として独り立ちすることを期待される新生児、幼児、小児という場合もあることになる)に生じがちな欲望と信仰をある側面において端的に表現し得ていることも間違いない。
(「ある側面」とあえて言うのは、Wikipediaの『「カーゴ・カルト」概念に対する批判』の項で紹介されているナンシー・マクダウェルの考え……『「カーゴ・カルト」なる概念は西洋人の偏見が作り出した虚構のメラネシア文化であり、現実にはそのような文化は存在しない……突如現れた旧来の常識では理解不能な異文明を、旧来の常識をもってどうにか止揚した彼らなりの解釈のしかたであり、この思考自体は何ら突飛なものではなく、全世界普遍の反応であって、「カーゴ・カルト」とは人類普遍の考え方の一部を切り出して名前をつけただけのもの』……というものが最も妥当な見解だろうとは思うのだが、ということだ。現実問題として、贈与経済が、今よりはるかに普遍的な意味を担っていた時、「積み荷」としてもたらされる贈与物に対する儀礼的な象徴交換のような行為は、むしろ一般的なものだったと考えられる。)
そうとはいえ、世俗化した信仰環境においては、「カーゴ/現世御利益的なもの」を待望する欲望/願望と信仰心というものは、おそらく密接な関係を有しており、例えば「東方に叡智/神秘あり」という古代ローマ市民の漠然とした願望/期待とキリスト教の浸透とは恐らく密接に絡んでいるとともに、そのキリスト教の世俗的信仰の場ではやがてサンタクロース伝説のようなものが生まれくるのであり、今や(キリスト教圏ならずとも)空を飛ぶトナカイに乗った〈まれびと〉たるサンタクロースのカーゴ(積み荷)には子ども達の並々ならぬ熱い視線が注がれることになっている。
つまり、人間にとって〈未知なるもの〉との接触と、信仰の発生との間には切り離せぬ要素があると言える。
そして、機械文明を生み出し、主観的には世界化/普遍化したとみなされた「近代」における〈未知なるもの〉は、だから、球体として閉じていることが明らかになった地球上の空間的な位相にはなく、時間的な位相に移って行くことになった。すなわち「未来」である。
閉じた球体においてグローバル化したと信じられた文化文明において、だから〈異界〉とは「未来」の中に存在することになる。
当然、〈異界〉から来訪/来仰する〈まれびと〉たる「ドラえもん」のような存在も、どこか遠い「場所」からやって来るのではなく、「未来の時間」の方からやって来ることになるのだ。
その意味で、近代ご自慢の「進歩主義」とその派生系であるような「改革主義/革命思想」のようなものは「未来」という〈異界〉からの「積み荷」を待望して、その似姿を懸命に作り続けている「カーゴ・カルト」、カーゴ・カルト信仰の一種あるいは亜種とも言えるのであり、私たちは“良き未来”という〈異界〉から、〈まれびと〉が本物の「幸福の積み荷」を搭載してやって来るのを、その似姿を作り続けながら儀礼的行為を反復している「未だに真の文明に接触したことのない未開集団」であると言っても差し支えないかも知れない。
そしてまた、中でも強欲な現世御利益派(?)は、「積み荷」が到来するのを待望する儀礼的所作に厭きたらなくなるのであり、「未来の先取り」的行為(=未来からの略奪的行為/未来へのつけ回し的行為)を傍若無人に/越権的に公使し始め、その成果を「敬虔な待ち人」たちに誇示し始める。
この、謂わば「近代人型まれびと待望」を、巧みに説話化してみせたのが「ドラえもん」なのであり、だから「ドラえもん」が、子どもたちのみならず、成人の間にあってさえ、人気を博する/好意的に受け止められ続けるのは当然なのだとも言える。
(この項つづく)

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