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2013年5月 5日 (日)

私たちは〈のび太シンドローム〉から、いつになったら/どうすれば、帰還/脱出できるのか。5

(『経済ジェノサイド』を読み進めるにあたっての補助線⑧)

近代的精神が支えられてきたのは、誰もがやり方次第で(立派な)近代人になり得るという意識が、中間層を中心として民衆の間にも浸透し定着していったからだろう。
そのような意識が広がるにあたって、啓蒙思想の系譜に連なる人々の果たした役割は大きいし、中でも近代小説は、それを読み、その世界の中に入り込む者のアイデンティティ形成に、現実的な強い力を発揮してきたと考えられる。
特にドイツの文豪ゲーテによって始まったとされるビルドゥングス・ロマンの系譜は、読者が、近代人とはいかにあるべきかについて、小説=内=人物の人格形成の共体験をすることで、学問的な知識の入手といった前頭葉的な次元を越えて、意識の深層にまで染み渡り血肉化されるほどの力を有したと考えられる。
私の世代(昭和30年代中盤から40年代中盤ぐらいまでに生まれた者)には、いわば、そうした古典近代型とも言うべき文芸作品の名声が、まだ辛うじて轟いてはいたのである、実感上。(それは、明治近代の我が国の文豪の足跡が観光地として商売になっていたことによっても推し量られる)
しかし、戦後生まれ/団塊世代以降が子を生み始める、昭和45年以降、すなわち1970年以降あたりから、社会の雰囲気は大きく変わり始めたのであり、したがって70年以降出生の子どもたちあたりから、それまでの社会的なテーマの一つであった〈近代人としての自覚と成長、成熟〉という文字通り〈物語〉は、重苦しいものとして忌避されるようになり、むしろ、〈成熟の拒否、回避〉が、子どもたちの生き方の中にも、各種の作品の中にも、一つのテーマとしても浮上するようになった。
それは、60年代に盛り上がり70年辺りから急激にしぼんだ/しぼまされた「反抗の季節」の終焉にも関係しているだろうし、同時に〈成熟〉というものを拒否したところで、そこそこ喰って行ける程度には(先進国の)社会経済全体の底上げが達成されつつあったという側面も関係していよう。
そうした時代性を背景とし、奇しくもと言うべきか、小児向け教育雑誌に『ドラえもん』の連載が始まったのが69年なのであり、同じ年には『サザエさん』のテレビアニメ放送も開始されている。
これは、単なる偶然なのだろうか。
仮に単なる偶然なのだとしても、このような事実を前にして、私たちは何を思うべきだろう。70年以降を共に過ごし、今がある/今を生きる/今を生きざるを得ない私たちならば、このような事実に「震撼すべき」というのが真っ当な感性といって良いのではなかろうか。
ちなみに、その69年という年は、ジョン・レノンの離脱宣言によって、ビートルズ(ビートルズとは年を重ねるごとに聴き手の予想を大きく越えてどんどん変遷/成長する稀有なバンドだった)は、事実上解散状態となった年でもあり、日本では芥川賞に庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』が選出された年でもあり、70年の三島由紀夫の自決行動に影響を与えたと言われる憂国青年の焼身自殺もこの年だという。
例を挙げ始めれば切りがなくなるのかも知れないが、これらの一つ一つが、仮に偶然なのだとしても、統計的な現実としては恐るべき文化的共振性を示していると考えるべきだろう。『経済ジェノサイド』の中でも言及されているように、69年は、もはや悪名高き「いわゆるノーベル経済学賞」(アルフレッド・ノーベル記念経済科学スウェーデン銀行賞)が開設された年でもある。
これらの世界的動向を加味するなら、日本の(知的な若者たちの最後の闘争のように神話化されがちな)「70年安保闘争」などというものは、(「60年安保」に比して)民衆から乖離した醜悪な壊滅的敗北をあらかじめ宿命付けられていたとみなすべきものだ。(このような言い方がきついとするなら、世界的な動向を反映した当局の目論見通りに善戦むなしく壊滅させられた、と言っても同じことだが。)
内田樹が、最近の『学校教育の終わり』という論説で、次のような指摘をしているのも参考になる。
(以下、引用)
近代学校教育システムは「国民形成」という国家的プロジェクトの要請に応えるかたちで制度設計された。
つまり、学校の社会的責務は、「国家須要の人材を育成すること」、「国民国家を担うことのできる成熟した市民を作り出すこと」に存したのである。
……
この合意が崩れたのは1970年代以降のことである。
……
このとき、学校教育の目的は「国家須要の人材を育成すること」から、「自分の付加価値を高め、労働市場で高値で売り込み、権力、財貨、文化資本の有利な分配に与ること」に切り替えられた。
……
このとき国民国家はほぼまるごと「営利企業モデル」に縮減されたのである。
(以上、引用終わり)

このような指摘も加味して考えるなら、自ずと浮かび上がってくるメッセージがあると考え及ぶべきではないだろうか。
それは、
「国家モデルの欧州由来の法哲学モデルから米国由来の経済学モデルへの転換/衣替え」
というメッセージであり、また、
「成熟したくなければせずとも良い。むしろ、成熟した市民、自ら判断できる市民など“危険”であり、キミたちは、自ら判断のできない従順な労働者/騙されやすい浪費者であってくれれば、それで良い、それがこれからの“国民/市民”だ」という「国民モデル/市民モデル」の転換/衣替えのメッセージだ。
チリは、この「国家モデル/国民モデルの転換」のいわば、暴力的な(ハードパワー型)実験台とされたのだったが、情報操作的な(ソフトパワー型)実験台とされている国家もあると言わなければならない。
言うまでもなく、典型的なのは、日本国および韓国というべきだろう。
恐ろしいことに、おそらく作者自身すら与り知らぬところで、そのようなソフトパワーオペレーションの中で、抜擢/抽出されているとみるほかないものが、マンガ作品『ドラえもん』なのだといえる。
この、物語の基本構造はもちろんのこと、「連載」という商業上の要請によって、登場人物たちが何十年経とうが一向に成長しないという徹底的なアンチ・ビルドゥングス・ロマンの有り様というものを私たちはそろそろ直視しても良いころだろう。
私たちは、いい大人になってさえも、そのようなものに親しく接して何の警戒心も疑問も持たないでいる「ネギカモ」なのだということを十分自覚すべきときに入っているのではないだろうか。

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