« 私たちは〈のび太シンドローム〉から、いつになったら/どうすれば、帰還/脱出できるのか。5 | トップページ | 〈のび太シンドローム〉7 »

2013年5月18日 (土)

〈のび太シンドローム〉6

(『経済ジェノサイド』を読み進めるにあたっての補助線 ⑨)


自らの内にひそむ〈のび太〉を克服するということが〈社会的了解事項〉とならない限り、日本人個々はいかに齢を重ねようとも〈自立的/自律的に振る舞うことをもって良しとする大人〉にはなれまい。
「強い日本」を作ろうと言い出す者たちは、必ず、「みんな一丸となって強力な集団となろう」と言う。
「強力な集団」に見えるものの〈脆さ〉は、先の大戦時にも、近年のバブル崩壊現象においても、イヤというほど思い知らされているはずなのにもかかわらず、相変わらず、我が国の凡庸な指導者が声を張り上げるのは、「みんなが一丸となってこの難局を突破しよう!」という百年一日的な哀れむべき強制語/統制語でしかない。
第三者が、その意図を怪しみたくなるほどの、尋常ではない統制や忍耐や長時間業務/労働によってしか達成できないような“成功”/“勝利”の虚しさは、北朝鮮を見れば分かろうはずだが、そのようなやり方における“勝利”がどのような結果をもたらすかについては、20世紀の日本がより鮮明に表象/表出しているにもかかわらず、その教訓は、必ずしも人口に膾炙されていない。
〈現在〉を犠牲にすることにより、あるいは、〈現在〉を不問に付することにより、〈未来〉において何かが達成される、あるいは何かがもたらされるという思考パターンは、典型的なカーゴ・カルト心性とみなすべきだろう。
重要なのは、カーゴ・カルトにおいては、〈利他〉を達成するために〈自己〉を犠牲にする/〈自己〉を等閑に付するのではなく、あくまでも〈利己〉を達成するために、〈現在〉を犠牲にする/〈現在〉を不問に付する……そうすれば、何かがもたらされるという思い込みにとらわれていることだ。
来るべき〈良き未来〉のために、〈現在〉の問題を不正な/不正常なやり方で解決する、というのは、そしていみじくも『ドラえもん』物語の基本構造にほかならない。
たかだか、児童向けマンガに何をムキになっているのだということなかれ、正常な社会心理状況なら、「のび太」のように何らかの僥倖に遭遇した際に、なるほど当初は「利己」目的で“それ”を利用していたとしても、やがては、“それ”を〈利他〉とは言わないまでも、〈社会化〉してみたいという方向で〈欲望の再帰化〉が図られるのが普通だ/一般的だと言うべきではなかろうか。
だが、強度の内向的自我が形成され、“僥倖”については一部の“身内”にしか開示されないまま秘匿され続け、〈良き未来〉のために「利己」目的で“僥倖”が利用され続けることに、何ら良心的な痛痒も懐疑も悔悟も生じないのだとしたら、そのような内向的自我が成立する社会的条件や、そのような自我のあり方が許容されて行く社会的条件について広範な議論が生じなければおかしなはずだ。
だが、「個人」とは“利己的遺伝子”のプログラムに則って、ひたすら“合理的に”自己利益増大を目指す存在であるという〈神話〉が瀰漫するようになると、何が「社会的価値」であるのかは置き去りにされ、「価値」に関する共通了解の失踪により、「貨幣量」に「還元」され得る測定可能なものだけが「価値」として流通するようになってしまう。
『ドラえもん』物語とは、現代に瀰漫するこうした「価値神話」を強固にすべく、失敗にいたる内閉的自己の未来を、“良き未来”に改変すべく、不正常な手段によって“現在”を改造しようと“努力”する人物をフィーチャーし、持ち上げてやまない「価値」喪失の時代に相応しい、あるいはそうした時代傾向を加速し大衆化すべく流布される“異様な”物語とみるべきだ。
このようなものが、想像を越えたポピュラリティを獲得して行く中で、“夢”を見る能力においては藤子・F・不二雄に一目おいていたものの、ソリッドな“作家性”を有する藤子不二雄Aが、強いストレスを感じなかったはずがない。
藤子不二雄Aの『笑ゥせぇるすまん』という作品は、『ドラえもん』登場以前に、既に『黒ィせぇるすまん』として作品化されているようだが、その前後関係はともかく、基本的なプロットは、語り手でありかつ主人公でもある「喪黒福造」という怪しげなセールスマンに唆されて、未だ満たされたことのない“夢”を満たそうと全開になる一般庶民の姿を描きながら、その庶民が“夢”の実現に漕ぎ着けたかと思うのも束の間、彼によって奈落の底に突き落とされるというものである。
いったい、近代以降の「自己実現神話」とは何だったのか。
少なくとも、良質のビルドゥングス・ロマンにおいては、「自己実現」は必ずしも達成され得るものとみなされていたのではなく、「自己」として誇れるアイデンティティを確立しようとする過程で生じる様々な障害や苦難を、あくまでも「自己」の問題として引き受けようとする「個人」の発生が描かれていたはずなのだが、いつしか、「自己実現は可能である」という近代のキャッチセールスとでも言うべきセールストークのみが、「世俗的近代神話」として流布され流通してしまった。
その最も卑俗な表象が、「アメリカンドリーム」などと呼ばれる「成功者神話」なのであり、1%の“成功者”以外は、“夢”の実現に失敗したか、未だに実現していない“非成功者/未成功者”として定義されることとなった。
そして、そのような卑俗な「近代神話」を、真正面から大真面目に受け止めてしまうような生真面目かつ“謹厳実直な”小市民であればあるほど、「ココロのスキマ」を抱えながら生きているはず、ということになってしまったのだった。
すなわち、卑俗な「成功者神話」というものと対をなすように卑俗な「小市民神話」というものも、よりによって当の一般庶民に受容され瀰漫してしまったのである。
『笑ゥせぇるすまん』という作品は、いつの間にやら成立してしまったこうした「卑俗近代神話」を信じるにいたった小市民をあざ笑うというよりも、そうした神話が成立している構造自体に、『ドーン!!!!』という突然の驚愕音とともに亀裂を走らせようとするモチーフを有していると言え、それは、「のび太」型小市民の安易にしてみみっちい、「内閉的にして利己的な夢」をもって良しとするその構造そのものを唾棄しようとする“悪意/善意”を根底に持つ。
ここで、ロボット猫「ドラえもん」の中身、「ドラえもん」という着ぐるみを着ている者の正体は、「喪黒福造」である、あるいは、そうあるべきだ、などと言えば、良くありがちな、奇面人を驚かす類いのトンデモ解釈本の解釈と同等のものになってしまうだろうか?
しかし、私は、冗談で言ってみたのではなく、この両者は、ヤヌス神ではないが、「藤子不二雄」という一人格の中に混融し混在しながら、二つの人格に分裂した後に明白化した対照的な“顔”を担っているのであり、同時に、「喪黒福造」を単に悪人呼ばわりする者がバカ者扱いされるべきように、「ドラえもん」を単に善人(善ロボット?)扱いする者もやはりバカ者扱いされるべく両作者から流れ出た表象であるとともに表徴なのだと言える。
いわば、ジョン・レノン的なリアリティ(=God)を提示してみせるのが藤子不二雄Aの『笑ゥせぇるすまん』なのだとすれば、マッカートニー的なはげましや慰撫(=HeyJude)を提示してみせるのが藤子・F・不二雄の『ドラえもん』なのであり、こうした両人格が渾然一体化しているのが最強ではあるのだが、やがて分裂することを運命づけられている悲劇下に成立してきた作品なのだと言える。
おそらく「喪黒福造」は、「夢をかなえてあげますよ」と囁かれた小市民が、いつも抱いてみせるいかにも小市民らしい“利己的にしてみみっちい夢”に絶望し、それを嫌悪し憎悪している。
「お前も所詮は、カンダタの一族か……」
「喪黒に見切られることを畏れよ」、それが、おそらく藤子不二雄Aのメッセージなのであり、「ドラえもん」がけっして「のび太」を見放さないのは、「ドラえもん」が“善”なる存在だからというのではなく、未来の利己的遺伝子によって組み込まれたプログラム言語に忠実なだけだからだ何故そこを見ようとしない、という沈黙の言語がその底には流れているだろう。
(モーセが、なぜ、自分の大切な同胞の多くを虐殺しなければならなかったのかといえば、つまりは、そういうことなんだろう。)

|

« 私たちは〈のび太シンドローム〉から、いつになったら/どうすれば、帰還/脱出できるのか。5 | トップページ | 〈のび太シンドローム〉7 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1182932/51682440

この記事へのトラックバック一覧です: 〈のび太シンドローム〉6:

« 私たちは〈のび太シンドローム〉から、いつになったら/どうすれば、帰還/脱出できるのか。5 | トップページ | 〈のび太シンドローム〉7 »