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2013年5月 2日 (木)

私たちは、<のび太シンドローム>から、いつになったら/どうすれば、帰還/脱出することが出来るか?3

(『経済ジェノサイド』(平凡社新書)を読み進めるにあたっての補助線⑥)


ある時点まで、外部からは完璧な一人格に見える統合体として創作をしていたマンガ作家、藤子不二雄が、途中から、本来の二つの人格に分裂してみせたのは、様々な要因が重なりあってはいるのだろうが、文化的次元から見て、非常に大きな出来事だったと見ることが可能だ。
一人格に見える、つまり、二人一組で一つのアイデンティティを共有し巧みに更新して来たように見える優れた才能を有する意志的な統合体が、もはやそのアイデンティティを更新することが不可能だと判断するにいたるプロセスというものは、本当なら下手なドラマや小説作品をはるかに凌駕し、また、近代的な意味におけるアイデンティティの問題を再考察するに相応しい深く微妙にして哲学的なストーリーがそこには存在するはずだからである。
本来なら、私のような門外漢が勝手な妄想を膨らませて適当なことを言うようなことは、憚れるような領域のものではあるのだが、ふとした思い付きによって「ドラえもん」物語を分析すればするほど、「一人」として振る舞っていたはずの「創作体」がついに「二人」に分裂せざるを得なかったのは、当然のことだったし、不可避的な事態だったとしか思えなくなってくるのだ。
以前、私は当ブログで、大澤真幸の「多重人格」が頻出する社会的条件に関する考察を肯定的に取り上げた記憶があるが、元来、物理的には二個の個体であった人物が、意志的に統一人格的な存在として振る舞い、やがて分裂するという、戦後のマンガ界というエポックメイキング的な場で繰り広げられたこのドラマは、作品論とともに作家論としても、誰か優れた人によって取り上げてほしい題材だ。
私の、門外漢的な単純なイメージで言えば、分裂してから明白化した二人の人格は、陽の藤子・F・不二雄に対して陰の藤子不二雄Aということになるのだが、しかし、その一方で、動の藤子不二雄Aに対して、静の藤子・F・不二雄という一面もあるのが興味深いところだ。
ただ、一般的に漫画作品における「作家性」という視点から見ると、藤子不二雄Aの方が藤子・F・不二雄よりもどう見ても圧倒的に優れていたということは、コンビ解消後の両者のクレジットが冠されたマンガ作品を比較してみるなら明らかだと言えるのではないだろうか。(もちろん、そう言ったからといえ、藤子・F・不二雄が凡百の才能を超越していたことを否定するものではいささかもないが…)
この二人の関係性を見てみると、私は自ずとレノン=マッカートニーコンビを思いおこさずにはいられなくなる。
この二人も、単純なイメージについて言えば、陽のマッカートニーに対して陰のレノンということになり、一方で動のレノンに対して静のマッカートニーという側面があり、奇跡的なコンビである藤子不二雄と、この辺が共通しているのも興味深いところだ。
ビートルズと言えば、一般的には、圧倒的なポピュラリティの獲得であり、今日どこにでも出現することが許されるようになった“熱狂的なファン”というもの/社会現象を産んだ生みの親のようなものではあるのだが、単にポピュラリティという側面から見たビートルズとは、『イエスタデイ』であり『ヘイジュード』であり、あるいは『レットイットビー』であったりする。(ロンドンオリンピックで、マッカートニー本人が『ヘイジュード』を地声ノーギャラで熱唱したのは、まだ記憶に新しいし、確かに素直に感動モノではあったが、しかし、それは、“商品”として利用されるにいたった肯定されたポピュラリティの屋上に、単に屋根を重ねる行為でしかなかったのも、また事実なのであり、それはスポーツ的/アスリート的な現実から遠く離れたものでしかなかったことも事実なのだ。)
そして、これらはいずれも実質的にマッカートニー作品である。
確かに、それらはどれを取っても、(欧州的な文法における)上質のポピュラーミュージックなのであり、マッカートニーなくしては生まれ得なかった歴史に残って当然の歌唱曲であることは間違いない。
だが、(好悪の情を越えて)圧倒的に重要な作品は何かと言えば、それは『トゥモロウ・ネバー・ノウズ』であり、『アイアム・ザ・ウォルラス』であり『ストロベリーフィールズ・フォーエバー』であり、あるいは『カム・トゥゲザー』等にほかならない。
そして、これらは全て実質的にレノン作品になる。が、みんなが肩を揺らしながら唱和できるような作品ではないため、ポピュラリティという点においては、残念ながら今一歩ということにならざるを得ないものだ。
このビートルズ作品に象徴的に見いだせる「人気と重要性」「人気と質」「人気と価値」「人気と歴史性」という問題は、未だに十分に解きほぐされていないし、もしかしたら、十分な考察の対象として議論されてさえいないかも知れない。
しかし、これは政治制度や経済社会の問題にも通底してゆく問題にほかならないし、また、「沈黙の言語」は伝達されることが可能かという思想的/文化的に強度の問題をはらんでもいる。
規模はビートルズよりも大分小さくなるとはいえ、同じようなことが、二人の藤子不二雄作品についても言える。
藤子不二雄A本人からは、おそらくけっして口にはされないだろうが、『ドラえもん』がポピュラリティを獲得すればするほど、「作家性」の観点から、藤子不二雄Aは、『ドラえもん』の一人歩きについては容認しがたい地点に(ある意味で)追い込まれて行ったのだと思う。
シングルA面のマッカートニー作品に対して、シングルB面のレノン作品…。ジョン・レノンは率直に「おかしなことだった」旨を、インタビューで明らかにしている。このレノンの言葉は、けっしてポピュラリティに対する嫉妬の言葉としてとらえられるべきではない。
しかし、ポピュラリティによる活性化という社会/経済からの要請を中心に置くなら、これはやむを得ざる面もあるのだ。
だが、ポピュラリティとは、しかし、〈ナニモノ〉なのか?しかも、民主主義というものが当面のデファクトスタンダードとして機能するはずの現代社会において。
これは、民主主義以上に優れた政治形態を今後とも産み出せそうにはない人類の政治/社会/経済問題に重要な問いではあるはずだが、問題に真正面から対峙せず、当面の常識的現象として、それを単に見越し、内在的な意味を予め排除/無意味化した上で平気で動くような悪質な者たちは、「ポビュラリティなるものを操作して民主主義現実を偽装してしまえば、それで良いではないか、バカは我々に騙されなくとも結局誰かに騙されるのだ」と平気でのたまうような主体に成り果てているのだし、作品業界/興業業界においても、CDに握手券なるものを付けて売り払うのが「優れた(コンテンツ)ビジネス」ということに成り果てているらしい。
確かに、侮辱されることのうちに愉悦を見いだすような、とても“現代的な”人々も実際に存在するようなのであるが、対幻想(恋愛幻想)同様、幻想なしにはアイデンティティを維持できぬ人間にあってみれば、突き詰めて行けば、何が「騙し/騙され」なのか霧中の内部に入って行かざるを得ない部分もあるのだが、しかし、あまりにもあからさまな「騙し絵」に騙されてしまうような人が存外多いのも現実なのであり、そのような人々にどのような言葉を届けるべきなのか。未だに誰もその有効な方法論を見いだしてはいない。
ただ、藤子不二雄Aが、例えば『笑うせぇるすまん』のような物語ベクトルを、どんどん突き詰めて行くようになるのは/行かざるを得なくなるのは/その必要性を責任化していくのは、結局、『ドラえもん』物語のあっけらかんとした〈受容のされ方〉に対して、どこまでも「作品」の力によってアンチテーゼを打ち立てようとする「作家」の本能のようなものが、そうさせているのだと言わざるを得ないところがあると思う。
そして、問題は、(編集者に急き立てられ〆切に追われる中で、安易なあるいは直観的な思い付きと無意識の結果的に奇跡的な溶融によって)『ドラえもん』物語を産み出してしまった藤子・F・不二雄自身にあるというよりも、それが、あっけらかんと受容され、思いがけずにも息の長いポビュラリティを獲得してしまう“社会の質/マスイメージの質”の側にあるのだし、それは社会のいわゆる中間層を形成している(これまで社会的に無責任な真空状態の中で野放しになっていた)メディア従事者(編集者/記者ら)や教師、教育者の質ということにも本来なら言及されるべきことでもある。


(ちなみに、ジョン・レノンは、ビートルズ解散後の重要インタビューの中で、「ビートルズになっていなかったら何になりたかったか?」と問われ、「漁夫」と答え、時間を置いていたと思うが、「自分が通ったアートスクールで、きちんとした現代芸術の教育がなされていたら、アーティストを目指していただろう」と答えている。)

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コメント

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投稿: ray ban outlet | 2013年5月20日 (月) 13時59分

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