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2013年5月23日 (木)

〈のび太シンドローム〉7

(『経済ジェノサイド』を読み進めるにあたっての補助線⑩)

いわば安倍政権銘柄とでも言うべきなのかも知れないが、しかし、ある意味では“にわかに”というおもむきで、従軍慰安婦問題を契機とする「日本異質論」的な議論が、そうと明言されはしないものの、米韓を中心にまたぞろ燻りはじめている。
だが、〈のび太シンドローム〉との関連でみれば、「日本異質論」が、国際関係のダイナミズムに揺らぎが生じそうな局面において、タイミングを見計らいながら、ここぞという時に持ち出されて来るのは当然だと言わなければならない面がある。
戦後の国際関係において、日本が緊密な外交関係を築いてきた国々こそ、実は、日本にイニシアチブを取られることをもっとも恐れている国々なのであり、日本にイニシアチブを取られないためのいわば“長期連載モノ”として、戦前戦中の日本軍の“蛮行神話”はあるのだ。
その一方で、日本人自身が“罹患”している〈のび太シンドローム〉は、自らを「被害者」または「あらゆる悪意とは無縁の存在」として主観し、「良心にしたがってなした行為に責任は発生しない」とでも言うかのような異様な主義信条をもって良しとするようなマスイメージをはびこらせてしまったために、“蛮行神話”のリアリズムを実感することが一向にかなわず、“神話”が仮に真実に近いものであっても、フィクションに近いものであっても、どこかでそれを他人事/余所事とする感覚しか持ち合わせていない者が多い。
そういう環境下で、一部の与太者が大きな声を上げれば、待ってましたとばかり飛び付くのは、国内のいわゆる人権派よりも、まずは日本にけっしてイニシアチブを取られたくない国々の人々であるのは、だから、当然のことだと言える。
(私が、ここであえて括弧付きの「神話」という語を持ち出したのは、「神話」には荒唐無稽な嘘しか書かれていないという意味で持ち出したのではなく、事実もフィクションも縦横無尽に駆使しながら、強度の秩序形成力(ダイナミズム)を保有させるために巧みに練り合わされている物語こそが“神話”なのだという意味合いで用いている。)
私たちが、自分は政治的な与太者ではないと少なくとも自認したいのなら、既に流布されてしまった“神話”の、どのような点がほぼ事実に即しており、どのような点は政治的プロパガンダの機能を持たされているのか、自ら十分に検証することの内にしかないはずだ。
にもかかわらず、私たちのエスタブリッシュメントらが率先して誇示してみせるあたかも自らを「被害者」のように見立てた上で、「無責任」を実現しようとするその姿勢は、日本の現在を良く知る他者によって完全に見透かされているため、日本が能動性を示そうとすると、“連載説話”の効力によってそれをスポイルするという黙契が、関係者間に行き渡っているとみることが可能だろう。
直近では小沢問題が典型であるように、誰にどう指図されようがされまいが、彼のような人物を、国内の諸組織をあげて陥れるような談合型無責任集団が、他の分野の言い分については信用されたい/されようというのはどう考えても虫の良すぎる話なのであり、哀れ主観エスタブリッシュメントらは、自らが“神話”の続編作りに全力で取り組み続けているにもかかわらず、その荒みきった“業務”に自覚的ではなさ過ぎる。
だからこそ、そのような様/ブザマさを指して〈のび太シンドローム〉に罹患していると言うのである。
そしていったい、仮に、自らの上位者にそう指摘されたなら、現行の日本の哀しき支配者層はどのような反応を示すだろうか。
「え?だって、あなた方が、小沢は危険だと言ったのではなかったですか?」
やれと言われれば何でもやるのか、まがりなりにも蓄積してきた法体系も何も全て打ち捨てて、ひたすら指示通りに突っ走るその“努力”を誉めてもらいたいのか?「あなたは“我々にとっては”有為な人材です」と大書された証明書を発行してもらいたくてうずうずしているのか、薄汚い「自己愛と自己顕示欲」の僕/虜となって……。
そういう欺瞞集団が、私たちは過去にも現在も法理念に照らして疚しい点はない、だから私たちを信用してくれなどと、あるいは、この点だけは申し訳なかったこの点についてのみは誠意をもって謝罪するなどと言ったところで、いったいどこの誰が信用すると言うのか。
要は、脇が甘過ぎるのと同時に、(合理的という単語はあまり使いたくはないが、しかし)合理的かつ主体的な整合性、体系性の顕著な欠落が見られるのであり、なおかつ、その欠落について病的なまでに無自覚なのである。
むろん人間の作る組織などというものは、大抵が必要以上に融通がきかず、個人が直属の上司の業務命令に逆らうことはほとんどかなわない。
しかし、ものには限度というものがあるのだし、そうした限度/閾値を逸脱しないようマネージメントできる能力のある者が、組織の上位に来るべきなのは最低の条件だろう。
そういう最低限の条件すら満たされぬまま、妙な領域にだけは猪突猛進的に定向進化してしまったような連中が、「わたしを信用してくれ」と泣きわめこうとも、一向に信用されるはずがないのは理の当然である。
一方で、(残念ながらと言うべきか)「お前を信用しない」と言明してみせる相手方が、では、正義を独占しているのかと言えば、そんな事もまたあり得ないのも当然である。周囲の者たちからまともに信用されたことのない私たちでも、例えば、ユーラシアの新興(?)超大国である人々の基本的な商倫理について信用してはいまい。
「なぜなら、あなた方の輸出した食品検査をすると、問題事例が多数報告されてくるから」言い訳無用。本質的な改善が可能か否か、それが全てだ。
自らを「無責任の楽園」に置いておきたい者たちは、自分が相手を信用していないのとほぼ同じ度合いで、相手からも信用されていないという点を認知する能力に完全に欠落している。
戦略的互恵関係などというものを本当に構築したいのなら、お互い言い訳無用、相手からの信用を獲得し得る実績を積み上げられるか否か、それしかない。
恥ずかしいことに、国連からも指摘されるにいたった我が国のヘイトスピーチ容認姿勢。
もはや多くの国で、ヘイトスピーチ=ヘイトクライムなのであり、すなわち非合法であることは周知の事実だろう。にもかかわらず、なぜ日本の支配層はそのようなものを泳がせ続けているように見えるのか?
この一点を取り上げただけでも、どんな言い訳をしようと信用に値しないのは自明の理だ。
そもそも、国策上の大失態である原発事故を目前にしても、誰も責任を取らず、それどころか被害者に対する妙なはげましと一体化した棄民政策を堂々と実行しているような支配者層/政府を持つ国が、どこをどうひっくり返せば、外にいる他者から信用され得ると言うのか。
「自国民に対して、あれだけのことが出来る政府を持つ国家が、ましてや他国民/他民族に対してはどれほどのことをなしおおせるか」
このような判断基準が、諸国民の間にはあることを、各国の為政者には十分にわきまえてほしいものだ。
「国民の生活を第一」とすることも出来ない為政者が、なにゆえ他国政府、他国民との互恵関係を築くことができようか、できようはずがない。
超長期連載マンガ『ドラえもん』を見ると分かるように、「のび太」は自らに起因する多くの問題について、その都度、見事な“解決”を繰り返している、少なくともその主観においては。
しかし、言うまでもなく、「のび太」自身は、「ドラえもん」という存在なくしては何一つとして解決することが出来ない無能の典型である。
「のび太」にとって、頼みの綱は、どこまでも/いつまでも「ドラえもん」オンリーなのであって、時に本来なら自らの手/力によって解決すべき/解決できる問題であっても、ドラえもんに向かって「もっと強力な道具を出してよ、ドラえもん」と駄々をこね始める始末なのだ。
当事者能力を欠き、しかも徹底的に無責任な存在であるのにもかかわらず、「ドラえもん」のような〈まれびと〉の威光と威力を笠に着て居直り続ける、見るからに哀れなくせして妙に居丈高な始末に負えない存在。
日本のガバメントを少しでも観察してみれば誰でも容易に気付くとおり、日本国統治上の特権と実権を実質的に握っているあるしゅの法人格のようなものは、常に「のび太」のように振る舞って倦むことを知らないようである。
彼らのソリューションは、一話完結型の『ドラえもん』物語同様、ジャイアンが騒いだら/ママが騒いだら/スネ夫が拗ねたら、「ドラえもん」道具で黙らせる、ただそれだけだ。黙ったらそれで終わり、つまり、黙らせることが彼らにとってのソリューションなのであり、当然のことながら、いかに一話完結の振りをしようと、諸問題は何一つ根本的には解決されない。
だが、現実の登場人物たちは、「ジャイアン」のように気の荒いだけのお人好しのままではいてくれないのであって、都合良く“前回の話”を忘れてくれたりなどしない。
たとえ、一時的に体よく黙らされたりしても、「ああ、またですか、また、ドラえもんのポケットから何か取り出したのですか」と思われるだけで、むしろ軽蔑の度合いは深まり、重畳されていく。
そういう〈問題の先送り〉を〈ソリューション〉だと思い込んでいるのは、哀れ「のび太」一人きりである。「のび太」が惨めなのは、それほどまでに自分が何をしているのか知らない点にある。
実際には、「のび太」は、「ドラえもん」の降臨(?)以降というもの、あからさまに“特権者”としての位置を獲得しているのであり、事実、その“特権”を頻繁に行使し駆使している。つまり、「のび太withドラえもん」とは、“弱者”どころか、その気になれば、相当のことが出来てしまう紛れもなき“強者”に他ならないのである。
にもかかわらず、「のび太」の主観は、「自分は弱い弱いいじめられっこ」という被害者意識にどこまでもとどまるのであり、自らが得た“特権”については、あくまでも/どこまでも/いつまでも受動的に行使されるに過ぎない。
今、まさに“特権”を行使している最中にも、「のび太」の頭の中は常に“エクスキューズ”の台詞と論理で満ちているのであって、棚ぼた式“特権”を行使して敵対者を持続的に平伏させようとするわけでもなければ、それを駆使することによって、自らの周辺とは無関係の多くの第三者によって成立している「社会」というものの発展と向上に役立たせようとするわけでも、当然ながらない。
「のび太」の極めつけの“特権”は、自分と、せいぜいその半径5メートル程度の人間関係の中で行使されるに過ぎない。
「のび太」の〈防御的特権行使〉、〈血族/血脈の中に閉じて“身内”にのみ“特権”を享受させてあげようとする“良心”〉、これらは、我が国の(民僚を含む)特権官僚(=戦後エスタブリッシュメント)に代表される人々のデファクトスタンダードに他ならない。
その結果、せっかくの“特権”が、それが行使されるべきもの/ことには向かわず、単なる〈防御のための障壁〉と化し、何のための“特権”だったのかという意味すらもやがて喪われていってしまう。
国内問題においてのみ、この“特権行使”がなされている限りにおいては、第三者は「ああ、またのび太がやってるよ」と苦々しげに眺めるだけだろうが、利害関係が自らの領分に浸入してきた時には、「のび太、のび太、お前はその不正な特権行使を直ちに中止し、なおかつ過去の行為について謝罪しろ」と、訳知り顔で迫り始める。
今までも何度となく反復されてきた“連載神話“の一場面であり、これだけ反復されながら、「のび太」という人物は、では次に来た時はどう対処しようかという事前の下準備すら始めない。
私たち日本人が、「のび太」を似た者同士とみなし、受容し甘やかし続けるのなら、「のび太」とは、単に狭義の“特権者”のカリカチュアライズされたキャラクターというにとどまらず、まさに戦後日本のカリカチュアライズされた姿と見るしかなくなって来よう。
「のび太」という「甘ったれ王子」「ゴネ得王子」は、戦後日本人である私たちそのもの、まさに似姿/絵姿にほかならない。
これを「屈辱」とみなす感性を、どの程度の現代日本人が持ち合わせていることだろう。

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