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2013年5月26日 (日)

〈のび太シンドローム〉8

「のび太」という「弱者」を装う“特権者”が、そのまま放置されていてはならない邪悪な存在であることが、これまでの拙論でだいぶ明らかになってきたのではないかと思う。
「のび太」とは、“敗戦”という事態を受けた私たち戦後日本人の似姿であるとともに、とりわけ、我が国の戦後エスタブリッシュメントのカリカチュアライズされた姿であるとみて良い。
特に棚ぼた式“特権”の行使における内向性/閉鎖性……自らの属する閉鎖的共同体のみを利し、利せんとして恥じない過剰な自己愛と自己防御の姿勢が、瓜二つ/構造的相似形なのである。
エスタブリッシュメントのうち、たとえば国家官僚の場合、この内向性と閉鎖性の度合いが、国民国家共同体のレベルにとどまっていてくれるなら、職責上は大きな問題にはならないはずなのだが、現行官僚の内向性は、まさに「のび太」レベルにまで退嬰しているとみるべきであり、血族レベルではせいぜい3〜4親等の、地理的/空間レベルではせいぜい半径10km圏内のことしか考えていないように見受けられる。(そうでなければ、端的に直近の事例で言えば、福島原発の事故処理が現在のようなことにはなっていないはずなのである)
先の項で触れた内田樹の教育論の言葉を援用すれば、教育の本質的(本質という言葉が大袈裟なら本格的)な目的とは、『国家須要の人材を育成すること』でもなければ、ましてや『自分の付加価値を高め、労働市場で高値で売り込み、権力、財貨、文化資本の有利な分配に与ること』のできるような資本の論理に過剰適応する人材の育成でも当然なく、なによりも「人格の陶冶」のはずなのであり、また「師のもとを離れても独力でそれを追求し得る人材の育成」というところに帰着するはずなのだ。
だが、「のび太」のように、潜在的期待を表出するかわりに、ただむやみに神経質に凍りついた小言を浴びせるだけの母親と、確かに精一杯家計を維持してくれてはいるのだろうが、高度成長に追い付くのに全精力を使い果たしてしまい、他には何の役にも立たない父親と、自らの未来の子孫によって派遣されてきた、やたらと愛想は良いが“利己的ソリューション”こそが最上であり全てであるかのように囁き続けるロボット(様の存在)に囲まれて生き、まともな教育というものに触れたことすらない者は、内向性と閉鎖性に絡め取られ、おおらかな想像力を欠落させた、目前の利にだけはさといモンスターに育って行くしかない。
理知的な作家性に富んだ藤子不二雄Aが一目置くほど、直観力と無意識性にあふれた作家の生み出すものは、時として予想だにせぬリアリスティックな象徴性を作品の中に埋め込むことに成功するのだが、藤子・F・不二雄にとっての『ドラえもん』物語もそのようなものだったのであろう、登場人物たちの“暗い未来”を予想させるに十分なそのキャラクターとその関係性とは、ある意味で圧倒的なリアリティーを帯びている。
そこで試しに、「野比家」の時間が動き出し、「のび太」がリアルに成長していく姿を想像してみることは、今日の日本というものを考えるにあたって、無駄な仕草にはなるまい。
周知のとおり、「連載」という商業上の要請によって、本来フィクションの上にも流れているべき時間が停止させられているのが、『ドラえもん』や『サザエさん』のような一話完結型のエピソード集なのだが、例えば、「カツオ」にリアルな時間が流れた場合、彼はどんな大人になることだろう。
物語内では「カツオ」は、いたずら好きの少しやんちゃな小僧という設定なのだろうが、しかし、気弱そうな級友「中島」をいじめるわけでもなく、むしろ凸凹コンビ的な良い友人関係を築いている。
女の子たちともきちんと交流し楽しくやっており、あまり見目麗しからずともカツオに憧れている女の子もいる。
勉強は好きではなさそうだが、きっかけや目標さえあれば、それなりに努力することは可能だろう。
父親は父親らしい、母親は母親らしい存在感を家内で保っている。(その下の世代は微妙だが)
一つ心配があるとすれば、青年期にシスターコンプレックス的なものがどの程度現れて来るかだが、幸いほがらかで気の優しいワカメという妹もおり、性的に極端にぶれることもなさそうだ。
こうしてみると、カツオは身体にも精神にも必要なバランスの良さというものを体現しており、(誰にでも生じ得る極端な運/不運というものを捨象して考えれば)、成人後はまっとうな社会人として当たり前に生きて行きそうだ。
一方、「のび太」には、とてもではないが、そういう明るい、少なくとも普通の未来を想像してあげることが出来ない。
最初にきついことを言ってしまえば、「ドラえもん」というのは、妄想患者の妄想内容に過ぎないと言ってもしまえるのだが、周囲の者も「ドラえもん」の存在を認知しているようなので、そこまで酷な解釈は採らないにしても、さすがに「のび太」らが、高校受験をするような年齢になれば、「ドラえもん」という存在そのものが許されないものにならざるを得ないだろう。
「ドラえもん」は、だから自らが破壊される前に恐らく未来に帰ることになる。
そこで、「ドラえもん」を失った「のび太」少年にはどのような変化が生じるか。
一番、可能性の高いのが「引きこもり」だろうと思われる。
それまでは、「ドラえもん」に依存することで、困難や努力を回避してきた「のび太」が、依存対象を失い、それなりの我を通すことすら不可能になれば、後は「引きこもり」という不活発な“ソリューション”に一条の光を見出だすしかなくなるのではないだろうか。
高校生ぐらいの年代になって「のび太」が“引きこもり”という“ソリューション”を選択した場合、では周囲はどのような反応を示すことだろう。
母親は、ますます神経質かつ剣呑な態度を示すようになり、やがては完全に見限り、老いぼれたペットに餌だけを運ぶような日常に入っていくのではないか。
父親は、どこまでも成り行き任せで、「ドラえもん」のかわりに「パソコン」がなっているのなら、それでいいではないか、後は知らん、という態度を取りそうだ。
高校生にもなれば、しずかちゃんは、イケメンのカレシでもつくって、「のび太」のことなど歯牙にもかけなくなるような気がする。
ジャイアンやスネ夫もまた、小学校時代の近所の仲間などどうでもいい存在となり、それぞれがそれぞれの居場所を確保して過ごしていそうだ。
ただ、「のび太」一人のみが、「ドラえもん」のおかげでそれなりに我を通せた小学校時代の思い出から離れられず、相応に成長していく周囲の同年代の人々の中に居場所を見つけられず、引きこもるしかなくなっていきそうだ。
そうなれば、やがて彼は、親もしくは社会に対して、漠然とした不満/憤懣/憤怒を募らせていくことになるに違いない。
いつだったか、私が青年期に達した頃、傍目から見ればきちんとした家庭で、子が実父を金属バットで殴り殺すという、いわゆる「金属バット殺人事件」が生じたことがあったが、それはやはり一つのメルクマールだった。
その後、あり得べき戦後の核家族モデルというものは崩壊の一途をたどり、今では殺されるどころか、親が子を育てる忍耐すらなく、成長する前に殺してしまうような事件が頻出するまでにいたっている。
「のび太」とは、ネガティブな方向に引きこもりが深化した場合、親殺しに走るか、あるいは、パソコンの世界に入り浸り、投稿掲示板サイトの投稿マニアとして、醜悪な差別的言辞を無分別に撒き散らすようになる典型的人物とみなせよう。
彼が、仮に親にではなく社会に不満を募らせて行った場合、「ドラえもん」の代わりに「国家」を依存対象として“発見”し、社会にヘイトスピーチを撒き散らしては、良識人が眉をひそめる様子を見てはやにさがる始末に負えないゴロツキ右翼になる可能性も高いだろう。
しかし、「のび太」のような人間が、本当に恨むべき、あるいは改めて対話すべき相手とは誰だろうか。
やはり、「成長」だとか「愛情」だとか「教育」といったことに何の関心も示さず、“才能”を感じさせない我が子に無関心を貫いてきた自分の親なのだというべきだろう。
「のび太」が「のび太」のような人間のまま、まがりなりにも成人に達してしまったとするなら、もちろん、自らの責に帰するところも大とはいえ、自分でも扱いかねるような憤怒や敵意や差別意識が沸き上がって来るのだとすれば、それは自らの親に埋め込まれたものなのであり、私たちはそこを勘違いしてはならないと思う。
一方、「のび太」の引きこもりベクトルが、若干、ポジティブな方向に向いた場合、彼はどんな成長を遂げることになるだろうか。
1969年に連載が始まった当時、小学生3〜4年生、10歳程度だっとして、高校受験の時にはニクソンショック後で、通貨の価値までが相対化していくことを親の世代が実感する時期だ。
思えば、まさにこれを書いている私と同世代の人間であり、大学受験の時には共通一次(今のセンター試験)が始まっている。
私たちは、若い頃、筑紫哲也により「新人類」と名付けられた世代なのだが、もし「のび太」が引きこもりベクトルの中で勉学に目覚め、あるしゅの聡明さを増して行った場合、学校教育目標が内田樹の言う『自分の付加価値を高め、労働市場で高値で売り込み、権力、財貨 文化資本の有利な分配に与ること』に変遷していることを察知し、そのための蓄積行動に走った可能性が高い。
そうなると、どうだろう、あれほど剣呑な態度を取っていた母親が、「やれお夜食は、やれ塾はどこがいいかしら」と、まるで自分の小間使いにでもなったかのようにかいがいしい態度を示し始め、父親については相変わらずぞんざいに扱うためにまるで自分が一家の長になったような気分にさえなってくる。
“厚待遇”というものの居心地の良さに味をしめた「のび太」は、ますます勉学に打ち込むことになり、やがてトータルに見れば、最も『有利な分配』に与れそうな国家上級職を目指すことになるだろう。
確かに、カオス理論ではないが、ちょっとしたきっかけで、ネガからポジに移り変わり、最終的にキャリア官僚として安定的な人生を送れるのなら、万々歳のような気もするし、「ドラえもん」を送り込んだ未来の血族も満足するかも知れない。
しかし、果たしてどうか。
この「のび太」の成り行きの中で、どちらにも決定的に欠落しがちなのが、どこで「人格が陶冶される契機を手にするのか」ということにほかなるまい。
旧体制は良かったなどという郷愁に浸るつもりはいささかもないが、しかし、かつては、公式の学校制度の中で『国家須要の人材を育成する』ために人格の陶冶はその前提であったし、そこから落ちこぼれても、社会の中で“一人前”として認められるための行程において、立派な親方や先輩から薫陶を受けるべき機会には事欠かなかったはずだ。
だが、国家モデルの市場化が、官僚や教師の間にも浸透して以降というもの、公式の場ではもちろんのこと、いわゆる民間、一般庶民社会においても、「薫陶」などというものはどこかに雲散霧消し、誰もが「オレもお前も利己主義者、営利主義者だ、それでいいし、むしろ、そうあるべきなんだってよ」という“神話”を半ば開き直り気味に反復するようにいつしかなっていたのである。
教育目標が、市場主義に絡め取られることによって、かつてあった子育て目標というものも同時に喪失させられている。
あちこちで「利にさとい人間たれ、それが優秀な人材というものなのだ」などと吹き込まれていれば、乳飲み時期でひたすらかわいい時だけはキラキラネームをつけておもちゃやペットみたいに、まさにもてあそぶように可愛がり、自分で勉強するようになったら、オレの子供がたくさんの資本分配に与れるよう学校側が“コース”を準備しろ、“就活”まで面倒みろ、となるに決まっている。(そもそも、“就活”などという薄気味の悪い略語がいつの間に一般化していたのか)
「のび太」とは、結局、ネガ/ポジどちらに転んでも、結局「のび太」でしかない。
どこを見渡しても、ネガ「のび太」、ポジ「のび太」みたいな奴であふれかえっているような社会が、だんだん気持ちの悪い社会になっていくのは当然だろう。
少子化が進行するのも当然なのであって、私たちはこの事から目を逸らすべきではない。

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