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2013年9月22日 (日)

訃報ふたつまで(藤圭子さん、谷川健一さん)その10

前回、見たように、私たちが馴れ親しんでいる「個人の率直な気持ち」を「歌詞」にし、その歌詞にふさわしい「メロディ」をつけて「歌う」という形式は、ロマン派の「歌曲」を先駆とし、その思想的影響下に、特に近代化が進展している国々で一気に広まって行ったものとみることが可能な楽曲形式である。
若干のタイムラグはあるものの、歴史の大きな流れとして俯瞰的にみるなら、近代社会の進展と軌を一にしているのであり、今風の言葉で言うなら、“同時多発的に”各国各地域の専門音楽家が、素人も巻き込む形で、様々な試みを開始していたのだ。
日本も、その試行の開始という意味では、決してそれほど遅かったわけではないが、21世紀を迎えて10年以上を経た今日から見て、世界に最も広範な影響を与えた近代的「歌曲」形式の楽曲と言えば、それは〈ブルース〉をおいて他にないだろう。
だが、それはなぜなのだろうか。
ここで、米国の黒人音楽の歴史を詳細に振り返る余裕はないが、ブルースも、コード(和声)進行を基礎にしている点では、ベースは当然欧州音楽にある。
だが、ブルースの場合、当時のアフリカ系アメリカ人の置かれた過酷な状況が逆作用して、楽曲の形成に“高等”音楽教育を受けた職業作曲家が、観念的あるいは人工的な形で関与することが少なかったことなどから、民衆音楽としては非常にピュアな形で形成されていったことが、その後の世界的評判を呼ぶ上で、まずは非常に大きな要素だったと思われる。
同じことの裏面として、アフリカ各地にルーツを持つ黒人らは、そのルーツからはほど遠い北米の地にあって、自分たちのルーツではそれぞれそれなりに強固に機能しているはずの伝統主義/共同体主義の負の拘束から自由だったこと、なおかつ、アフリカ系アメリカ人として自分たちの自分たちらしい音楽を作り上げて行こうというモチベーションを強く高く保ち続けることが出来たという環境があったこと、これも大きな要素だろう。
加えて、米国が、一次・二次大戦ともに、国内が戦場にならなかった点も大きいはずだ。折しも、当時の最先端テクノロジーであるレコード産業が発達を始め、音が文字通り記録/レコードとして残されるようになり、さらには市場を介して流通するようになって行った。
第二次大戦が終わり、戦場になっていた国々が落ち着きを取り戻すころには、米国で独自の発展を遂げた「歌曲」であるブルースは、器楽中心のジャズとともに、一気に世界中に広まり得る社会的条件を満たしていたのだ。
さらに、音楽的側面で言えば、アフリカ音楽の遠い記憶と西洋音楽の濃厚な影響下にある黒人霊歌などが融合し、日々の呟きの中から発生してきたようなブルースの楽曲としての単純素朴さが、逆にそれゆえに、ロマン派的近代を超越する超=近代性をひとりでに有していたことも大きな要因だろう。
ブルースの基本形式は、12小節の歌詞を、4小節ごとに3コードに乗せて歌うものとのことだが、現在、私たちのような素人でもとっつくポピュラーミュージックの原型のようになっているのがこの3コード演奏というやつなのだが、これは、循環コードというところが最も大きな特徴であり、着目すべき点と言える。
職業音楽家中心に発達した欧州のロマン派歌曲は、当然のこと、プロの作曲家としての個性と力量/才能を示すためにオリジナリティあふれるコード進行とメロディの創作に心を砕く。
もちろん、それはそれで素晴らしいことには違いないが、そのようなやり方は、欧州で発達した音楽に特徴的なのだが、音の循環や反復とその組み合わせ/掛け合わせから生じる、今で言うグルーヴを形成する方向には決して行かない性質のものだ。
欧州音楽の特徴は、やはり和声=コードの極度の発達にあるので、和声=コードとそこから生じるメロディそれ自体を聴かせることに重点が置かれ、音の循環と反復の中から生じる〈何事か〉に着目するという視点に乏しい。
ブルースも、リズムセクションについてはあまり重視しないまさに「歌曲」形式の楽曲ではあるが、その循環性から、リズムセクションを重視したリズム&ブルースや、ロックンロールというまさに「ゴロゴロ回転する音」を重視するポピュラーミュージックを派生的に生み出していく。
また、この単純素朴なコード進行は、どの曲を聴いても似たような印象の曲に聴こえてしまうという弱点を有するが、だからこそ逆に歌手/奏者の個性が前面に打ち出され、誰々があの声と歌い方で歌うあの曲が最高だ、という評価の仕方が主流になっていく。
一方、西洋音楽では、作曲家が絶対優位にあり、演奏の仕方や強弱の付け方まで作曲家がこと細かに指示をし、演者はいかにそれを“完璧に再現してみせるか”が評価の軸となる。
だが、最も素朴な形では、そもそも歌詞と3コードしかないようなブルースにあっては、歌手奏者がいかにしてその単純な楽曲に魂を込め得たかが、評価の軸になるのであり、ジャズのインプロビゼーションなども、だからこそ発展する余地があったものである。
つまり、ブルースは、その楽曲形式自体に、欧州型/ロマン派的歌曲形式からすればオルタナティブな要素を満載する形で産声を上げ、後に世界を席巻することになるポピュラーミュージックの原型となるべき形式を最初から満たしていたのである。

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