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2013年9月23日 (月)

訃報ふたつまで(藤圭子さん、谷川健一さん)その11

さて、世界各国各地域で、同時多発的に生み出されていた「歌曲」系統の時代的意味と、とりわけ米国で自生的に生み出されたブルースの潜在的先進性を横目でにらみながら、日本の状況をみるとするならどうなのか。
まず、ロマン派系「歌曲」作曲という点では、日本も山田耕作のような天才を生んでいる。例えば、山田耕作の「からたちの花」とシューベルトの「野ばら」を比較した場合、小品の歌曲としては、まったく遜色のないものになっていると言えよう。しかも、山田耕作の場合、日本語の音韻及びアクセントと西洋音楽のスケールを用いたメロディが全くバッティングしないようにするという難しい条件をクリアしているという意味で、困難な音楽的課題を解決する才能という側面ではシューベルトを上回っているとさえ言える。
当時の困難な条件下で、完成度の高い自然で明朗かつ可憐な曲を書いた山田耕作は、間違いなく天才と呼んで良いと思う。
一方で、こういう儚くも繊細なメロディを作る作曲家に、軍歌を作らせるような真似をするのが、当時の日本のエスタブリッシュメントを自認する者たちの実態だった。
たとえ、そこに山田自身の意志がどれだけ関与していたか否かとに関わらず、それは山田のキャリアにあまりに不釣り合い/不似合いなものだったのであり、藤圭子が蒙った悲劇とはまた別様の悲劇が、西洋音楽を自家薬籠中のものにした天才をも襲っていたのだ。
まさに日本文化に対する二重の抑圧と欺瞞が機能していた証左とみなして良いだろう。
ちなみに、戦後、というか現代日本において、アメリカンミュージックの影響下にあるブルース、ロックの分野で山田耕作並みの天才を発揮した人がいる。RCサクセションの忌野清志郎だ。日本の“高等”音楽教育を受けながら、自らも良質のポップミュージックを生み出し、彼と共作/共演したこともある坂本龍一が、彼には才能においてかなわないところがある旨、どこかで述べていたが、ムベなるかなというしかない。
一方、アップテンポの音楽にはあまり適しているとは言えない音韻体系を持つ日本語をロックのノリに適合させるために、英語の歌詞を混ぜ込んだ上、訳の解らない英語訛り(?)の発音によって、それを一面においては確かに可能としてみせた人に、サザンオールスターズの桑田佳祐という人がいる。
こういうものは、一種のクレオール化ミュージックとして積極的に評価する軸もあり得ようが、忌野清志郎の天才の前ではやはり色褪せざるを得ない。
日本語で歌う本格的なロックミュージックふう音楽を聴きたいという聴衆の欲求は満たしたことになるのだろうが、クレオール化は、ハイブリッド化とは言えない(クレオール化肯定は自尊心の回復には寄与する面があるのだろうが、時間軸上の優位性を手にした側がそれを手放そうとはしないという意味で、あくまでも過渡的なものと認識する必要があると思われる)点において、歴史的評価の面では時代を彩った「流行歌」という以上の評価にはなりがたいだろう。
このいわば、“桑田メソッド”を用いた流行歌作りは、その安直さ、容易さによって、たちまちの内に蔓延することとなったが、現代日本においては「演歌」の代替機能(後に触れるが、自らの内に眠る、より普遍的な要素を抑圧する機能)を担っているとみなせる。
さて、少し時代が前後してしまったが、山田耕作については、日本語の抑揚と音韻を極限まで生かす“西洋音楽”を作る作曲家として、称賛を惜しもうとは思わないが、それはあくまでも、音楽的には欧州型ロマン派歌曲の作曲家としての評価になる。
では、大衆音楽の分野ではどうだろう。
ここで、二人のビッグネームを登場させてみたい。
中山晋平と服部良一だ。
この二人は、中山が1887年生まれ、服部が1907年生まれであり、若干世代的には離れるが、第二次大戦前後の日本の大衆音楽を語る上では欠かせない存在と言えるだろう。因みに、山田耕作は1886年生まれだから、中山と同世代。当時、苦学生は珍しくはなかったのだろうが、三人とも苦学の後に名声を勝ち得ている。ただし、山田は三菱の岩崎にその才能を見出だされ、東京音楽学校=今の芸大を卒業した後にベルリン音大に留学しているいわばエリート中のエリート。中山は、東京音大予科から本科を経て卒業ということであり、服部は、学校制度上のエリートではないが、個人的なツテで西洋音楽を学び、一時は大阪フィルにも所属していたようだ。
このように経歴からも明らかだが、全員が基礎的教養として、いわゆる正統的な西洋音楽を学んでいることが分かる。
その意味では、明治初期に志された教育効果は、本場に伍する実力派から大衆音楽の担い手まで生み出したという点においてそれなりの成果をおさめていると見ることも可能ではあるが、時代を下るにしたがい、特に大衆的/国民的次元では混迷を深めていく。
では、具体的に中山や服部がなした仕事は、どのように評価されるべきだろうか。
中山初期の名曲『カチューシャの唄』(1914年)は、山田の作る曲のような気品には若干欠けるかも知れないものの、日本語の抑揚を生かしながら、ハイカラな雰囲気をも十分に出した名品と言えよう。
その他にも、中山は特に童謡で傑作というべき曲をたくさん残しているが、中山の作る音楽は概ね明朗で快活かつ伸びやかだ。
このような歌が大正から昭和初期までは好まれていたということを覚えておきたい。
服部の戦前の名曲としては『蘇州夜曲』(1940年)をあげたい。情感豊かにして、当時の汎東アジア的広がりを感じさせる名品と言えるだろう。
もっとも、服部は、経歴をみてもエリートとは言えない点や世代的に若干若いという点もあってか、大衆音楽の担い手として、最も反骨心旺盛なタイプだったのだろうか、アメリカンミュージックに大きな関心があったようで、事実、「ブルースの女王」と呼ばれるようになる淡谷のり子と組んで、大成功をおさめている。
ところが、『別れのブルース』(1937年)などを聴いても、どこがブルースなのかさっぱり分からない。「気分はブルース」だったのだろう、そうとしか言えない。
そもそも、戦前の歌謡界で一世を風靡した藤山一郎にしても淡谷のり子にしても、あるいは李香蘭(山口淑子)にしても、西洋音楽の正統的発声法を学び、その発声法によって勝負している歌手だったのであり、そういう人にブルースを歌わせようということ自体に無理があり、そういう人が「ブルースの女王」と呼ばれ続けたのも、ある種の悲劇と言えるだろう。
淡谷のり子は、しかし非常に気丈なところのある人であり、死の直前まで第一線のスターとして活躍し続けた稀有な人だったが、今や「視て聴く百科事典」として機能しているYouTubeには、服部良一の追悼番組においてブルースではないものをブルースとして歌わせた旨のエピソードを、淡谷独特のユーモアとも毒舌ともつかぬ形で披瀝している動画が投稿されており、非常に興味深く視た。
恐らく、服部は、何かの機会に本場のブルースを聴き、非常な感銘を受けたのだろう。しかし、楽曲としてのブルースをまともに研究することも分析することもなしに、まさに「気分はブルース」というノリで、それふうの音楽を作り、強引にブルースと名付けてしまったと思われる。(もちろん、これはあくまでも想像に過ぎないが。)
ただし、服部の名誉のために言っておけば、1947年というのだから、戦後まもなく発表され大ヒットした『東京ブギウギ』は、間違いなく傑作であり、ブギという音楽を十分に研究した上で作ったものであることが分かる。
しかも『買物ブギ』にまでいたると、ブギのリズムに捲し立てる大阪弁を乗せるという実験性まで加味され、しかもそれが高度の完成度を有している。
既に戦後であり、なぜ、こういう実験性を引き継ぐ者が現れず途絶してしまったのか。不思議で仕方がないと言うべきだ。

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