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2013年9月24日 (火)

訃報ふたつまで(藤圭子さん、谷川健一さん)12

話を中山晋平に戻そう。
中山が手掛けたのは、ハイカラで情感豊かな歌曲や明朗快活な童謡ばかりではなかった。
明治維新によって、近代化が始まった当初、西洋音楽を模倣するばかりでなく、日本に眠る多様な音楽的素材から、近代的な視点で曲想を得ようとしていた作曲家にとって、その素材群は横一線上に並んでいたはずだ。
だが、そうとはいえ、雅楽や能楽系統の音楽は、強固な家元的伝統に防御されて、西洋音楽を学んだだけの庶民出身の作曲家には手出しが不可能に近い領域に見えただろう。(それは教育行政の不在によって現代でも変わらない)
だが、様々な主要なルーツとルートによる濃淡はあれど、民衆化した形の(あるいは元々民衆のものだった)神楽や田楽・申楽・能楽系統の音楽を始め、シルクロード以来の北東アジア系統の要素、海上路経由の東南アジア系統の要素など、極端に言えば世界各地の音楽的要素が多様な形で入り込んでいるとみなせる日本各地で歌われていたいわゆる民謡は、音楽的素材の宝庫だったはずだ。
事実、信州の田舎育ちだった中山ら、西洋音楽教育以前の日本の音環境を肌身で知る作曲家は、そのような民謡に着目して、「新民謡」と呼ばれる伝統的民謡から曲想を得た新曲を創作するようになり、しかもやがて一大ブームを巻き起こしている。
中でも、中山晋平の『東京音頭』(1933年、S8年)は、大ヒットとなり、Wikipediaの記述者によれば(にわかに信じがたいような気もするのだが)、当時だけで120万枚のレコードセールスを記録したとのこと。
当時の蓄音機所有率も考慮すれば、これは空前絶後と言えるのではなかろうか。
既に時代は昭和を迎えており、ロマン派ふう歌曲も相当程度行き渡っていたことを加味すれば、大衆間に、新しい小唄、新しい音頭、新しい民謡に対する渇望のようなものがあったのかも知れない。
明治以降の新体制政府側からしてみれば、それはあるいは反動のような形で受け止められたのかも知れないし、統制に重きを置く官僚らには、娯楽的要素が強すぎると感じられたかも知れない。(ちなみに、治安維持法は、1925年に既に成立している。自分たちが、まさか思想統制の対象になるとは思っていない庶民大衆は、このような活気溢れる歌に閉塞の度合いを強める社会からの捌け口を求めている点もあったのだろう。中山自身は、戦中・戦後、音楽界の名誉職的な役職のみあてがわれ、戦後はほとんど曲を作ることがなかったという。こういう古代と現代との間に通路を開け得る才能が、戦後創作上の沈黙をしたこと、これは戦中の誰にも分かりやすいあからさまな思想統制よりもある意味で“問題”としなければならないことだろう)
いづれにしても、現実問題として中山の『東京音頭』は、爆発的にヒットしたのであり、今でも盆踊りの定番として、また、ヤクルト(球団)の応援歌などとして、聞けば多くの日本人が「ああ、あの曲か」と分かることだろう。
一方で、大きくはロマン主義思想運動の間接的影響ともいえようが、いわゆる伝統社会の側からも日本各地の民謡の発掘や再解釈なども盛んに行われていたのであり、今日にいたっても民謡系の〈歌舞〉に大きな需要があるのは、(手放しでは喜べない側面もあるとはいえ)「YOSAKOIソーラン祭り」といったイベントに多くの活きの良さそうな若者らが参加していることからも推し量られる。
いったい、日本人大衆にとって民謡とは何か。どのような時と場所で歌われていたものか。
いつからか分からないが非常に古くから歌われていた印象のある民謡だが、新作の新民謡を除いても、今日私たちが良く知る民謡は、近代になって改めて発掘され、今様にアレンジされたものが多いようだ。
そうとはいえ、その音世界には古代から連綿と続くものも内包されており、例えば、民謡の中でもうたうのに高度な熟練を要し、日本各地の追分節の原型と言われる信州の『小諸馬子唄』や『追分節』のメロディは、遠くモンゴルにもみられるような節回しになっているとのこと。
正直、知識不足のため、あまり詳しく語れないのは口惜しいところだが、時代の変遷にともない今様/今風にアレンジされながらも、民謡の中には、日本国内だけにとどまらない様々な音楽的な系譜が流れていることは押さえておきたい。
また、馬子唄、船頭唄といった名称に示されるように、民謡は労働歌としてうたわれてきたものが多いこともポイントだろう。それと同時に、民謡はまた、盆踊りでうたわれるようにダンスミュージックでもあったし、多くの民謡の歌詞に見られる通り、それは外来者に対する地元自慢、すなわち今日で言う観光キャンペーン曲であり、おもてなしの曲でもあったことも分かる。
こういうことが何を意味するか。
まず、労働における身体の動きというものは、成果を得るための合理的/合目的的な行為であるとともに、それは即、舞いであり踊りに通じるようなものであったこと、そう認識されていたことを意味していよう。
多くの人が知る分かりやすいところでは、出雲の『安来節』における滑稽な『ひょっとこ踊り』というものがあるが、あれはドジョウ掬いの身体の動きを形式化したものであり、すべりやすいドジョウを捕る時には誰もが滑稽な体の動きにならざるを得ず、その滑稽味をそのままお座敷芸的に応用したものが『ひょっとこ踊り』というものだろう。
そこには、労働・遊戯・舞踊というものが、分離されず、本来渾然一体化したものであるという思想が横たわっているとみなすことが出来る。
こういう思想は、当然より洗練された舞いや踊りにも当然適用されていたはずだ。
今日で言えば、アスリートの合理的で合目的的な身体の動きが「美」そのものと感じられるのと同じことだ。
労働を“悪”とはみなさず、「美」に直結するような身体表現の一種としてとらえるような思想は、欧州型パラダイムには乏しいものだろう。(ただし、このような思想が何の分析的内省/分析的観照もなしに近代システムに流れ込んでしまえば、それは際限のない残業やワーカホリック的な状況を「これがオレの生き方だ」のように逆自慢してしまうような、それこそ滑稽な現象にもつながりかねないのだが……実際、日本の戦後高度成長はそのようなタイプの人に担われたのだ、それはだから“冗談にならない滑稽劇”として語り伝えられなければならない)
アジア地域の洗練された舞踊における身体表現の所作、形の象徴性が著しく高いのも、日常の所作/立ち居振舞い自体が、身体言語としての意味を有するという広義の思想として浸透していたことを意味するだろう。(無知とは恐ろしいものだが、所作という語は、もと仏教用語であるらしい)
お国名物紹介的な観光キャンペーン的要素については、恐らく近世以降の軍事的には平穏な時代が続き、人々の行き来が盛んになることによって生じて来た要素だろうが、これは地域地域の独立自尊と客観化とが、健康な形で成立していることを意味するだろう。
簡単に見ただけでいきなり話を大きくするが、このように、日本の民謡の中には、誤解を恐れずに言えば、中東に起こりヨーロッパに広がった一神教的世界観を相対化する汎地球的世界観を音楽世界に内包しているのであり、とりわけ重要なのが、前々回あたりで指摘したとおり、アフリカにルーツを持つ人々が、奴隷として大量に北米大陸に連れ去られるという不幸な現実が逆作用し、彼らが音楽を通して情報発信を始めたことにより、ほとんどユーラシア大陸のことしか知らなかった人々が、ぐるっと世界を一周してアフリカ大陸をも捲き込む地球的普遍性要素を認知し始めたという点にある。
これは、経済の“グローバリズム”とは、“逆回転”の動きなのであり、経済的グローバリズムのように〈押し付け、強要〉を伴わないものである点が重要だ。
かわいそうなことに、というか惨めで醜悪なことに、経済のグローバリズムを〈押し付けたい〉側にいる人々は、それが〈押し付け、強要〉であることを自ら知っているために、「交渉内容」を開示することすら出来ずにそれで開き直っている始末である。それはつまり、「グローバリズム」などとと恥ずかしげもなく強引に名付けるだけは名付けた偏狭かつ狭隘な思想の〈押し付け、強要〉を意味していることが、あまりにも明らかだということだ。
このようなものに、対峙し反対する時に気を付けなければならないのは、〈偏狭A〉に対して〈偏狭B〉によって対抗しないようにすることだろう。
〈偏狭A〉が「グローバリズム」なる欺瞞に満ちたものを強要してくるとき、受けて立つ側は、実質的により普遍性を持つものによって対峙していくべきなのだ。
そのようなものにヒントを与えるものがポピュラーミュージック/民衆音楽の中には眠っている。
そして、このように思考をめぐらせていくなら、中山の系譜、服部の系譜ともに、戦後になってあっけなく途絶えてしまうのは異様だと気付かなければならない。
戦後、自由になったはずの言論・表現の分野で、長生きをした中山も服部も、それなりの名誉職はあてがわれたものの、なぜ演歌なるものが蔓延していくのを甘受したのか、本当のところは不明としか言えない。
もっとも、演歌作曲家に聞けば、中山や服部の系譜を意識的に排除したのではない、我々は大衆が求めていたものを探り当て、大衆が求めていることが分かったがゆえに、演歌を作ったのだ、というだろう。
だが、あえてきつい言葉を用いて言わせていただくなら、演歌の発展史とは、日本の“偏狭性”遺伝子による“普遍性”遺伝子の排除だったのだと言うべきなのである。排除というのがきつ過ぎるなら、日本各地にあった音楽的多様性を反古にするための劣悪な水準での統制だった。
実際、これまで見てきたように、戦時のめちゃくちゃな思想統制に入る一時期を除いて、その直前まで、明治初期の近代化の志は、為政者らの思惑を越えたところで、実作者の尽力によって、今から見ても〈多様〉と言えるだけの様々な表現上の開放をまがりなりにも達成しつつあったのだ。
戦後、表現の自由を獲得したはずの私たちは、したがってますます多様な表現上の試行や実験をする環境を手にしたはずだった。
しかし、実際には、まるで自己規制をしているかのように狭隘の側に入り込み、つまり、自らの内にあるより普遍的な要素を投げ捨てて、穴倉の中で、ちまちまちまちました歌を歌い始めたのである。
明らかに、おかしいと言うべきだろう。
この〈おかしさ〉に気付くこと。それが私たちに今、必要とされていることにほかならない。

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