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2013年9月17日 (火)

訃報ふたつまで(藤圭子さん、谷川健一さん)その8

このような記述と、藤圭子さんと、何の関係性があるのかといぶかしむ向きもあるに違いない。
だが、藤圭子とは、身体/肉体それ自体が自然な形で歴史性を宿した、つまり歴史が本人の意志を超越した場所で肉化され(てしまっ)たような存在だったという視点を持つなら、いわば〈官製の歴史〉と〈自律的民衆史〉とが、その身体を媒介して対峙しているとみなせるのである。
このような歴史性を身体に内在化させ(てしまっ)た存在は、文化的ヒエラルキーの上層では、一般的に“人間国宝”としてカテゴライズされるような存在なのであり、その多くは、近代的時間軸の外側で“保存”された伝統的な家元制度等によって“保護”された中から出現する。
だが、藤圭子のような存在は、“近代化”からも“保護・保存”からも、エスタブリッシュメントの側から半ば見捨てられ、置き忘れられた場所で成立した肉体だった。
もちろん、私たちの知る藤圭子という人は、1951年の生まれだというから、今日で言う戦後団塊世代の人だ。
しかし、藤圭子という歴史的肉体は、例えば、泉鏡花という金沢生まれの作家が、現代を生きる私たちに示唆してみせるような芸事=即=人生であるかのような歴史的条件(内の)存在として否応なしに存在を開始していたのであり、それは私たち凡人には思いもよらない“運命”と幼いころから格闘せざるを得ない環境の中にあったということを意味している。
金沢という街は、大規模空襲を免れた数少ない大都市の一つとのことで、街中に古い大規模な茶屋街が昔ながらの形で“保存”されている。
これをストレートに藤圭子に結びつけるのは誤りの謗りを免れないかも知れないが、しかし、その茶屋街の風流な佇まいは、私たちが抑圧してしまった「粋」だとか「風流」とは何かということを自ずと想像させずにはおかない。
私にとって「粋」だとか「風流」だとかいったものは、それを身につけるためにかいた汗や涙や血や恥を「表出」としては一切感じさせない「肩肘張らない/肩をいからせない」ものだ。
そういう意味では、当ブログなどは、その対極に位置するようなものになりおおせているのだが、「風流」だの「粋」だの「伊達」だの「いなせ」だのという美意識が成立したきた場の雰囲気を濃厚に感じさせる作家が、近代文学の形を取りながらも、明治から昭和前半までは存在する余地があり、泉鏡花や永井荷風らの名前はその代表に挙げられるだろう。
もちろん、芸事をものとする女性らの境遇、境涯、運命といったようなものは、現在の価値観からすれば、安易に容認すべきものではないかも知れない。
しかし、そこから何らかの調べが聞こえて来るとするなら、それは「演歌」といったようなものではないはずだし、ましてや「怨歌」などではない。
現状はいざ知らず、金沢の茶屋街から「演歌」が聞こえて来るとしたなら、それは余りにも不似合いだ。この「似合わなさ」というものは、何事かを雄弁に語りかけてくる。
「艷」だの「怨」だのというウェットなものは、忍従を強いられてきた者たちのウィットによって昇華させられてきたはずなのだ。
藤圭子の若い頃の素顔がそうであったと伝えられるように、それは、案外あっけらかんとした、しかし、圧倒的に質の高い諸要素が互いに響き合う形で蓄積されてきたもののはずだ。
藤圭子の身体に否応なしに結晶化する〈自律的民衆史〉は、そうであるがゆえに「権力」に馴れ親しまないものとして、また「欧化」文法に馴染まない要素として、また伝統的ヒエラルキーにあっては下層に位置するものとして、注意深く切り捨てられ、あるいは見て見ぬ振りをされ、あるいは積極的に無視された。
だが、そのような安直な姿勢は、いったいどのような結果を招き、そして、“世界史”の中にどのように位置付けられることになるのか。(一度、思い上がった人たちには、自らを客観視することが困難になってしまう)

今、文庫本の帯宣伝を鵜呑みにすれば、中央公論新社から出しているウィリアム・H・マクニールの『世界史』が、東大・早稲田・慶応で文庫ランキング1位になっているとのこと。
購入して読んでみると(といって、まだ通読したわけではないのだが)、即席の印象論ながら人気を得るのが分かる気がした。
著者の記述の位置が、吉本隆明ふうに言うなら、人類史の通史としての「無限遠点からの眼差し」を極力確保しようと努めているものであることが理解できるからだ。
その文庫版『世界史』の下巻、268頁からは、『産業主義と民主主義に対するアジアの反応』という章の中で『日本の自己変革』という節が立てられている。
その節の最終部分の記述が、相当印象的なものとなっているので、ここに一部引用させていただく。

(引用開始。……は中略の意)
一八五四年から一九四五年までの時期に、産業革命と民主革命というふたつの分野で日本人が成し遂げた成果は、どのような基準から見ても著しい成功といえた。文化や知的分野でも、この国は驚くべき変革を成し遂げた。とくに日本が自己変革を開始した最初の段階で、西欧の思想と様式がおびただしく導入された。……
早くから政府は、初等教育制度の発展を重視していた。まもなく日本の子供たちは全員文字が読めるようになった。西欧式のさまざまな技術専門学校やいくつもの大学が作られ、専門化した高等教育の担い手となった。その結果として、一九三〇年ごろになると、科学研究所では科学者たちが活発に世界の知識に貢献しはじめており、この国の技術者や技師たちは世界のどの国にも負けないだけの能力を身につけていた。
それでいてなお、日本の伝統芸術は消滅することはなかった。実際、一九三○年代には陸軍を中心とする強い愛国主義の風潮がすべて日本的なものを強調し、外国の様式や習慣をおとしめる傾向にあった。伝統美術や演劇、日本建築などは、大衆化した神道の形式と結びついて、以前とかわらず強力なままだった。
文化的、知的分野においては、全体として古いものと新しいものの適応はうまく行われず、ぎこちない様相をみせていた。……芸術の分野では、ひとりの人物が日本的作品と西欧的作品の両方を作りだすこともしばしばあったが、そのふたつの伝統を結びつける強力な統合芸術や、あるいは新しい創造性の表現などは、ほとんど見られなかった。

(引用終わり)

下巻だけで400頁に及ぶ大著だから、日本に集中的に言及している部分は僅かなものだ。
だが、その僅かな言及箇所で、日本のある意味で致命的な部分に事実の記述という範囲内で的確に言及しているのは、驚くべき博識と力量だと言うべきではなかろうか。
ただ、日本に生まれた者として一言付け加えたくなるとすれば次の点である。
『伝統美術や演劇、日本建築などは、大衆化した神道の形式と結びついて、以前とかわらず強力なままだった』が、それらは学校教育の外部におかれ、強力な伝統の一つである世襲制または徒弟制の存在ゆえに生き残ったものであり、知識・技術の開放と共有という意味での近代化とは無縁であり続けた。
それゆえ『文化的、知的分野においては……』と、最終段落につながれば、私個人としては申し分ない。
それにしても、この最終段落の記述は、「近代的日本人でありたいと願う者」にとっては「強烈な痛み」をともなうものではなかろうか。
あくまでも想像/憶測の範囲に過ぎないが、おそらく藤圭子は、自らの声と声を操る技術を、世界に通用するものと確信していたのではないかという気がする。
だが、私たちは、彼女の才能をなす術もなくスポイルしたのである。


(この項つづく)

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