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2013年9月16日 (月)

訃報ふたつまで(藤圭子さん、谷川健一さん)その7

問題は、「日本回帰」に舵を切ったかのように主観していたのかも知れない当時のエスタブリッシュメントらが、“明治・維新”の失敗振りを自覚していたとしても、だからと言っていったん立ち止まり、熟慮の後に日本人の本来性について考察を始めるのでもなければ、日本文化の〈内からの近代化〉に愚直かつ地道に取り組もうとするのでもなく、
結局はそれらを抑圧し/見て見ぬ振りをし、いかにも安直な「軍事国家、全体主義国家」を形成し、アジア諸地域への膨張主義によって、明治以来の自己抑圧/自己欺瞞を糊塗する/あらぬ方向に解き放つように動いたことにある。
ここには自己の本来性に対する二重の抑圧/欺瞞が機能していると言え、当時の政治的なスローガンとなったような表面的な「日本回帰/アジア回帰」とは異なり、実態は、「強き者に挫かれることによって生じるフラストレーションを自己を含む弱き者に転嫁する」という最悪の転嫁行動をソリューションであるかのように思いなす自己欺瞞へとのめり込んで行ったことになる。
今、私は、「強き者に挫かれることによって生じるフラストレーションを弱き者に転嫁する」と、わざわざ「」でくくったが、その歴史的な具体的経緯はどのようなものなのだろう。
現在の自称「保守主義者」や「ネット右翼」と呼ばれているような者たちの主流が、今、最も抑圧/隠蔽している歴史的事実とは何かを考えれば、それは明白だろう。
当時の帝国主義全盛期にあって、(そして現在の経済帝国主義=グローバリズム全盛期にあっても)、中国における利権を誰が最終的に握るかは、世界的な覇権を決定付ける絶対的テーマだった。
したがって、動機は実に不純なものだが(そもそも軍事同盟に、不純ではない軍事同盟など考えられないと言うべきだが、それは措くとしても)、中国に対するロシアの進出を牽制/阻止するという利害一致性によって、日英同盟が締結されたのは明らかだろう。
しかし、この同盟は、当時、若干の陰りは見せていたとはいえ、逆にそれゆえに、七つの海を支配したと謳われた英国と同盟関係を結べたことは、その後の日本が世界の一等国として認められ行く過程において実に有効に機能したのであり、なくてはならないもののはずだった。
世界を驚かせた日露戦争の日本の勝利にしても、日英同盟における英国の潜在的な援護なしにはあり得なかった。
今日、欧州近辺における継続的な親日国は、日露戦争における日本の勝利という歴史的事実から発生したものが多く、今でも続くロシアという大国の、周辺の小国家群にとっていかに脅威であるのか(時にはいかに頼もしい味方であるのか)を雄弁に物語っている。
英国はまた、ロシアを牽制するのと同時に、ドイツの欧州における覇権(中国における権益拡大)阻止のためにも、日本には融和的に接し、日本の中国における利権拡大行動にも寛容だった。
やがて勃発した第一次世界大戦において、日本は地理的には遠方だったものの日英同盟に基づく協力体制を敷いたために、戦後は、前回記した通り、アジアにおけるドイツの権益を譲られるばかりか、連合国側の一画を占めていると正式に認定され、やがて発足した国際連盟においては、常任理事国の一つとなっている。
この状態は、間違いなく現在の日本より、圧倒的に高く有利な位地にあると言うしかないだろう。
当時のエスタブリッシュメントらが思い上がるのも無理からぬ面はあろうが、しかし、それもこれも全ては英国の、その外交力を始めとする国際的影響力の賜物だということを、彼らはどれだけ自覚していたことだろう。
当然、この「出る杭」を不愉快な面持ちで見詰めている国も多いわけで、その筆頭格が米国だったことを当時の為政者のどれほどが認識していたことか。
国際連盟については、自らの国の大統領が首唱したはずの世界初の“グローバル機関”に、あえて加わらないことにした米国の国家意志に、どれだけの日本の為政者が不穏なものを嗅ぎ付けていたのだろうか。
欧米人(要するに白人社会)の中で、ちょっと認められでもした途端、有頂天になり浮き足立ち、とんでもない思い上がり行為にまで突き進んでしまうような(一部の)哀しい日本人の性向は今も昔もさして変わらない。
バブル経済絶頂期に(そもそも、そのバブル自体が、米国のグローバル金融戦略上の要請と黙認の上に成立したものであるにもかかわらず)、エンパイアステートビルを買い取るだの米映画会社を買い取るだのといった奇行に日本の(一部の)巨大企業が走った際に、これはとんでもないことになるという危機感を抱いた日本人がどれだけいたことか。
当時の日本も、英国の外交的采配の流れに乗ったがゆえの一等国お仲間入りだったはずにもかかわらず、単独の実力だと思い上がった連中が、中国利権に我が物顔でのめり込んで行ったために、日本の近代化以降最初の絶頂期は、実際には線香花火ならぬネズミ花火のようにはかなくも小うるさいこけ脅かしとして機能しただけでしぼんで行った。
第一次世界大戦終結が1918年であり、その後、米国の介入により日英米仏による「四カ国条約」が締結されるのが僅か3年後の1921年である。日英同盟は“発展的解消”とされ、ここからいわゆる「ABCD包囲網」までは、あと数歩の距離に過ぎない。
一体、この流れに当時どれほどの人間が気付いていたのか、いや、中枢は認識していたとして、そこにどんなソリューションを準備するだけのパースペクティブなりストラテジーなりがあったことか。
「四ヵ国条約」からわずか10年後の1931年、「満州事変」が勃発することになるのだが、短期的な軍事的成功とは裏腹に内政は関東軍の単独的行動を抑制できないほど最早ガタガタになっていたことを意味するのであり、このような暴走的国際秩序からの逸脱行為が、世界的に容認されるはずもない。
第一次世界大戦後、先勝国の一員として、象徴的には国際連盟の事務総長に新渡戸稲造が就任するといった華々しい出発をしたはずの日本、一方、逆に敗戦国として、戦後は別の意味で華々しく生まれ変わったはずのドイツは、外交巧者らの手にかかり、相互に孤立化への道を歩まされ、今から思えばやけくそ気味の同盟関係へと追い詰められてゆく。
だが、ドイツのドイツなりの苦悩はいざ知らず、日本に関して言えば、一連の成功体験と引き換えに浮上してきた“明治の失敗”の自覚に基づき、腰を落ち着けて本来性の回復、すなわち〈内からの近代化〉を改めて志そうとするのではなく、軍事的ソリューションへと身を委ねる自己欺瞞を選択したことにより、同盟国からの援けなどとても期待出来ない状況下で戦線だけは無制限に拡大していくという、ほとんど自己破滅的な軍事的投機行動にひた走るしかなかったのは、クレイジーと形容する以外、他に形容する言葉が見当たらないほど悲惨なものだ。


(この項つづく)

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