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2013年9月14日 (土)

訃報ふたつまで(藤圭子さん、谷川健一さん)その6

Wikipediaには、『暗殺された人物の一覧』という興味深い資料が載っており、有史以来の世界各国の被暗殺者が網羅されている。
日本の項も当然あり、ここで私が注目したいのは、近代以降に暗殺された要人らである。
1853年にはペリーが来航しているのだが、そこを日本の近代の夜明けとすれば、1945年の敗戦は、いわば日本の初期(前期)近代の終焉とみなせよう。
この間、およそ100年、一世紀。
まさに日本史においてはもとより世界史的にも一国家の変化として激動の一世紀と言えるものだろうが、暗殺された人物の数もすさまじく、Wikipediaに掲載された要人とみなせる人物だけで28人を数える。これに加え、権力側から抹殺されたり処刑された重要人物を加えたら、いったい我が国はどれほどの貴重な人材を失って来ていることだろう、頭がくらくらしそうになる。
そして、この暗殺者の一覧を眺めていると、ある傾向があることが分かってくる。
具体的には、最初の半世紀にあたる1860年の井伊直弼から1909年にハルビンで暗殺された伊藤博文までは、暗殺される側もする側も、仮に主観的なものであろうと、対等な政治的対抗勢力、対立勢力間の抗争の中で命を狙われた者とみなすことが可能なのだ(もちろん、一部を除き)。
ところが、後半の半世紀になると、1919年の安田善次郎から1943年の山本五十六(山本の暗殺説というのはどこまで信憑性があるのか疑問は残るが、その死には不審な点が多いらしい)まで、暗殺の意図や動機が、政治的パースペクティブを著しく欠いた、言うなれば社会的怨恨感情のようなものを動機としてなされたものであるという傾向が浮上してくるのだ。
特に安田財閥の創始者である、つまり社会的には財界人でしかなかった安田の暗殺は、一つのメルクマールになっており、安田が暗殺されたのは、前々回で取り上げた1918年の翌年にあたり、すなわち第一次世界大戦が終結し、パリ講和会議が開かれヴェルサイユ体制が始まろうとしていた年にあたるのであり、日本は先勝国側としてアジアにおけるドイツの利権を確保した。
名実ともに一等国の仲間入りを果たした当時のエスタブリッシュメントらの鼻息がいかに荒かったことか、2020年に東京オリンピックが決定しただけであれだけ人前で興奮してみせる我が国エスタブリッシュメントらの系譜を思えば、まるで想像に難くない。その後の軍部暴走の拠点となる関東軍が創設されたのもこの年だ。
だが、その陰では、(当時の新興財閥の横暴が目に余るものであったとはいえ)その後の日本の行く末を示唆するような文字通り暗く湿った暗殺事件が起きていたことになる。
実際、明治半世紀後に訪れた日本の絶頂期は短く、英米ら連合国に連なる一等国としての国際的地位を確保する一方で、戦後の不況に悩まされ、挙げ句1923年には関東大震災が生じ、それに続く昭和恐慌、世界大恐慌という経済的な荒波の中で、成功体験を忘れられぬ軍部のみが膨張主義的な暴走を重ねていくという最悪の道筋をたどって行く。
安田暗殺に話を戻せば、これ以降の暗殺事件は、制度上、また規模的には、どんどん強固で巨大になっていく近代システム(政軍産複合体)に対して、反逆を企てようとする秘密結社のようなものがテロ実行犯の主流になっていく。
特徴的なのは、彼らは今日から見れば正当性が高いともみなし得る強烈な危機意識を抱きながら、しかし、その危機意識と大それた行為とがうまく噛み合うことがなく、傍目からすれば、何ら深慮も遠謀もなしに直情にまかせて暗殺行為を実行しているようにしか見えない点にある。
やがて、軍部の一部の中にも強烈な危機意識を持つものが現れて来るのだが、だからといって、これといった政治構想、政権構想も練ることなしに、行為だけがエスカレートしていったのだ。
とはいえ、当時の生真面目な軍属を理論面から支え、今日の堕落し幼稚化した“保守論壇、ネット右翼”らとは似ても似つかぬ思想を掲げていた識者、理論家として頭山満や大川周明、北一輝らがいたことは、今日それなりの意味を持つ。
やがて「昭和維新」を唱え、実力行動をともなって急進的社会改革を実現しようとする勢力が非合法的な蠢動を開始する以前の、1910年代から20年代は、「大正デモクラシー」と総称される民主化運動が盛んになった時期でもあるが、反復する恐慌と、社会不安に輪をかけるようにして生じる自然災害は、明治新政府以来、「欧化熱」に浮かされていたはずの人々の心性をあっという間に反転させていくことになるのは周知の通りだ。
だが、なぜ、そのような人心の急転回が生じなければならなかったのか。
私たちの多くは、この点をいつも見て見ぬ振りをしているのであり、出来るだけ考えないようにしている。そこにこそ恥部が眠っていることを、本能的に薄々感付いているからだろう。
二・二六事件が、クーデターとして成功していたなら、人心及び政治的急転回が生じたとしてもまだおかしくはない。
しかし、二・二六は、先にも触れたように、「革命」あるいは「維新」として成立させるための十分な政治的根回しも計画もなく、「とにかくやってしまえ」的な怨恨型の大量暗殺行為だったのであり、特に秘密結社の構成員として活動していたわけでもない青年将校ら軍属が、まるで秘密結社の構成員のように振る舞い、要人暗殺には成功したものの、あっという間に「賊軍・反乱軍」として制圧されたものである。
にも関わらず、その後の日本政府自体が、あれよあれよという間に国粋主義化し軍事政権化していくのは、通常の社会学的、政治学的流れからすれば、著しく論理的整合性を欠いている。
なぜ、そういうことになってしまうのか。
“明治の失敗”ということを、政府中枢側にいたエスタブリッシュメントらも、本音ベースではいつも苦虫を噛み潰すようにして自覚していたからではないのか。
つまり、自らの本来性を長年に渡って抑圧し過ぎていたがゆえに、似合わない着ぐるみを着てダンスを踊っているような自己の滑稽な醜悪さに我慢がならないという心性が一気に暴発する形になったのだ。
“明治・維新”は失敗した、“昭和・維新”にこそ大義あり……そんな考えに、「昭和維新」勢力を制圧したはずの側が一気になだれ込んでいった……このバランス感覚のなさは、けだし異常であると形容するほかないが、精神分析学/精神力学的にはそれほど説明に困難を要するものではないだろう。

(この項つづく)

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