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2013年9月 2日 (月)

訃報ふたつまで(藤圭子さん、谷川健一さん)その2

前回の続編を書くにあたって、元来いい加減な性格なものだから、さて、大風呂敷を広げたは良いが今後どう展開すべきかと、正直なところ途方に暮れていたところ、『日本経済新聞』なる新聞紙上で、『熱風の日本史』という連載が始まっているのを偶然目にした。
読んでみると、連載の主要なテーマは「日本近代のタブーなき再考」ということになるのだろうか、今後このテーマなりモチーフなりを『日本経済新聞』とかいう怪しげな場でどの程度まで貫き得るのか、多少なりともスリリングな期待感だけは抱かせるものになっていた。(井上亮という編集委員の企画発案なのだろうか)(かりそめにも、『日本経済新聞』なる新聞が、ジャーナリズムの側から、経済現象を探索するという志を僅かながらも有しているのなら、一見迂回的であろうとも、このようなアプローチは絶対必要であるはずなのは間違いない)
第1回は、『旧物破壊の嵐(明治)』と題され、当ブログでも指摘してみたことがあるはずの「廃仏毀釈、廃城令による寺院、城郭などの旧物(文化財)破壊」に言及していた。
怪しげな「グローバル化」なるものが、しかしまさに“熱風”のように吹き荒れる中、そのフラット化への強圧に拮抗し、経済的にも文化的にも価値を生み育む源泉となるものは実は健全なローカリティ、ローカライズであるということは、前回の連載でも言及してみたことだったが、さほどの努力も要らず既に手にしている「資産、遺産」が、継続的に経済的価値をも産み出してくれることに気付いて初めてその文化的精神的価値にも目覚めるというのは、いつまで経っても自力で思考しようとしない思慮分別なき者達にいかにもありがちなことで、鼻白むことこの上ないというしかない面もあるのだが、しかし、自らの容貌を直視することなく、全身の体毛を金色に染めてイキがるような“クレイジーモンキー”であり続けるよりは、遥かにマシであることもまた確かだろう。
「努力知らずで手に入れられる/既に手にしている資産・遺産」の恩恵に与って生きることは、一方で別の恥ずかしい生き方に十分つながり得るのだが、しかし、そういうことがあるがゆえに、「貴重な資産・遺産」を“タダで”遺していってくれた先人に対する感謝や畏敬の念も自然と生じてくるということもまた起こり得るのも事実であろう。
そういう前提を無視して、近代イデオロギーというものは、それが左側からのものであれ右側からのものであれ、とかく「断絶」による「清新さ」(ブランニュー)ということを強調しようとするあまり、せっかくの資産を無価値のものとして切り捨て排斥したために、かえって大いなる精神的貧困、ひいては社会的災厄をも招き寄せてきたのである。
端的に言って、一応保守主義の側に分類されやすい私たちのナショナリズムにしてもパトリオティズムにしても、“熱風”のように吹き荒れる「欧化」「米化」に対する“反動”としてしか表出されて来なかった/表出できなかったのであり、岸田秀などを持ち出すまでもなく、それは精神病理学的に見ても実に不健全・不健康な事態なのだが、未だに「ネット右翼」だか「在ナントカ会」だか「保守論壇」だか何か知らないが、脳の働きのかわいそうな人たちが、「患った熱病の治療をうわ言のように要求だけはし続ける意識朦朧者」のように大衆的・国民的次元においても相当数存在し続けているのが現実のようだ。
彼らは、彼らが大嫌いらしい中国や韓国の分別なき“愛国者”らと同じ次元にまで退嬰していることに全く気付いておらず、そういう意味では、せっかく今ある「近代化先行者」としての「資産・遺産」すらをも全く活かせずにいる者として、まさに極端な普遍主義者、グローバリスト、フラット主義者と構造的に同型の次元で淀んでいると言える。
時として、過激なグローバリストと過激なナショナリストが同衾しやすいのも、“精神構造・脳構造”がそういう“未開”の次元で停滞しているからだと言うしかない。
こうした“未開”の構造を打破するには、したがって、様々なレベルにおいて存在している起源についての思考を活性化させるしかない。
どんな下らない、つまらない“起源”であっても、それが起源として一旦機能しはじめれば、それはいつしか権威主義者らの暗躍/活躍によって、案外あっけなく常識となり、やがては無意識の中に沈殿し、私たちの意識を規定しはじめる。
このようなメカニズムを持つ人間の精神やそれが形成する制度というものについては、したがって常に/不断の検証と批評のメス/光があてられていなければならないはずだ。
にもかかわらず、そうしたメスや光を、悪口、罵詈どころか秩序破壊行為のようにみなすのが、我が国の諸共同体に顕著にみられる悪弊としての過同調性圧力なのであり、「和」という概念とは似ても似つかぬ共同体主義を逆手にとって、「メス」や「光」すなわち「分析」や「検証」や「批評」を「和を乱すもの」として排斥してしまう。(「和」という概念が異質なもの同士の共存を企図する概念であることは、多くの言を要しないはずなのだが)
こうした誰にでも分かる悪弊というものは、衰退期にあって切り捨てることこそ、勇断と呼び得るもののはずではなかったか。
件の新聞の連載企画のリード文は次のようなものであり、当ブログのモチーフと共通性のある言として、ここに引用しておこうと思う。

(以下、引用)
(『日本経済新聞』9/1付『熱風の日本史』より)
明治から始まった日本の近代は、史上初めて「国民」が誕生した時代だった。国民意識は日本人の力を一つに結集し、国力を増進する原動力になった。しかし、その力はときに熱風のような圧力ともなり、立ち止まって冷静に考えることを難しくした。熱風現象には激しい「熱狂」や深層海流のような「空気」など、様々な形があった。これらを単に歴史として概観するだけではなく、教訓として見直すことは大きな“国益”といえるのではないだろうか。
(引用、終わり)

(この項、つづく)

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