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2013年10月 3日 (木)

訃報ふたつまで(藤圭子さん、谷川健一さん) その14

前回、私は、『(クラシック音楽の)バロック派』とすべきところを、『ゴシック派』と記している。
とんだ恥さらしだが、打ち込んだ時のことを思い出してみると、「日本のナントカ愛国大臣がパリでゴスロリのコスプレをしてクールジャパンを売り込んだ」とかナントカいう、まさにクレイジーなニュースに接して、『ゴスロリってのは、ゴシック&ロリータの略なのかぁ、ふぅーん、へぇー、ほぉ〜』と感心し続けていたので、どうやら『ゴシック』という言葉が頭の中で永劫回帰状態にあり(?)、『バロック派』と打ち込むべきところを『ゴシック派』と打ち込んでしまっていたらしい。
まぁ、笑っていただくしかないのだけれど、それはさておき(笑)
前回まで、アメリカンミュージックとしてのブルースの奇跡的/歴史的普遍要素と、80年代辺りから意識的/理論的にポピュラーミュージックの中に取り込まれてきたミニマリスムの普遍的要素に触れた。
もちろん、ここでいう普遍性というものは、ヨーロッパ近代が唱えた“普遍性”とは若干意味が異なるのであり、言ってみれば人類学以降の普遍性という意味で用いている。
換言すれば「こうあるべし、という意味の普遍性」ではなく「こうしてきた、という意味の普遍性」である。
それを「深層知的普遍性」と呼んでも良いかも知れない。
そのような「知」あるいは「普遍性」は、「近代」を経ることによって改めて“発見”されているものである限り、私たちに近代化というものは必須なのであろうが、しかし近代とは当然近代化によって終了する概念のはずがないのであって、間違いなく我々は近代を経たという自覚と自信のある者たちは、だからこそ「深層知」に対して謙虚であるべきだし、また、そのような「知」から多くを学ぶことによって、「再帰的自己」を手にすべきなのだろう。
その、民衆文化ひいては文化全般におけるポスト近代としての(普遍的)「再帰的自己」を考えるにあたって、下手な学術書よりもよっぽどタメになると思われる書物が今、私の手元にある。
『アルテスパプリッシング』というところから出ている『ポップ・ミュージックのゆくえ―音楽の未来に蘇るもの―』(高橋健太郎著)だ。
『未来に蘇る』とは、まさに言い得て妙であり、未来に「再帰する」あるいは「回帰する」ものから、私たちは多くを学ぶべきであり、それは「内向することによる他者の拒絶」ではなく、「外向することによる自己の発見」であるとともに「内省することによる他者の必要性への気付き」とでも言うべきものだろう。
上記の本は、1989〜90年に書かれたものとのことで、まだ、比較的社会が/世界が明るかった時代(……それは東西対立の時代の終焉期だった……だからまだ、バブル崩壊は本格化していなかったし、私たちは、湾岸戦争も、阪神淡路大震災もオウム事件も、イラク戦争も、リーマンショックも、東日本大震災の巨大津波も原発事故も経験していなかった時代であり、更に言えば、インターネットなどというものも、まだまだ普及していなかった時代だ)に書かれたもので、その意味では、今から見れば“牧歌的”とすら言いたくなる楽観性に貫かれている部分がある。
思えば、当時は、エレクトロニクスが、これから加速度的に発展することが期待されており、逆に言えば、まさに未来が加速度的に近付いて来るのだろうという期待感と実感が確かにあった。そして事実、エレクトロニクスは加速度的に“進化”し、携帯電話とパソコンは必需品として急速に普及した。
それと同時にデジタル革命という言葉がもてはやされ、確かに、周辺の電気機器は、瞬く間にデジタル化していき、今やデジタル技術など当然過ぎて、デジタル革命などという言葉自体が死語にすらなった。
その頃は、どちらかと言えば、悲観的で鬱傾向の強い私のような人間でさえ、エレクトロニクスを駆使することで、世の中は/世界は必ずや「良く」なるという漠然とした希望を抱いていた。
しかし、実際に進行した現実はどうだったろう。
実際には、世界は確実に悪い方向にしか向かっていないのではないか。
今、生じていることを、人類の大半が、明晰には把握し切れていないというのが実態であり、そのため様々な弊害の方が強く出つつあるというのが“今”なのではなかろうか。
だから、今、起きているのは、私なりの表現による言葉を与えるのなら、エレクトロニクス技術による〈短絡〉現象に過ぎないという言い方になる。
特に顕著なのが、近代において理想とされた〈自立した個人〉となる前に、エレクトロニクス技術を媒介とする個と個の〈短絡〉が生じてしまうため、〈個人〉というものがほとんど成立しにくくなっているという点だ。
確かに、この後触れるように、近代初期に想定された理想的〈個人〉というものに、人間は十全にはなりがたいのである。それゆえに、例えばモデルケースとしての「合理的個人」によって形成される「市場」というものを前提とする経済学は、21世紀に入って次々と破綻していった。
個人として自立することを模索する個々なくしては、エレクトロニクスは、人間相互を幼稚状態のまま〈短絡〉する回路形成に貢献する機能しか有しないのではないかという危惧が私には強い。
この章で、私は、19世紀を〈大いなる不安の時代〉と呼んでみた。「個人たれ」という理想主義が叫ばれ、だが、「個人」とはどうあるべきか、どう生きるべきか、答えを見出だせない多くの人々が、「ヒステリー」と呼ばれるような神経症的感情表現をするようになった時代だ。
そういえば、フロイトの主要な研究対象は、「ヒステリー」に関するものだったのだそうだが、ムベなるかなというべきで、賢明にもフロイトは、観念的近代主義者の「個人」という概念に対して、仮に「個人」として相応に自立していたとしても、個々の人間の精神構造は、自分でコントロールできる範疇を越えた「無意識」やそれ以上にコアなものを含む多層構造であることを示してみせた。
それは今日の脳神経科学から見ても、脳が通時的機能分化と共時的機能分化とによって多層的に連関し合うネットワーク構造であるという意味で、脳自体が観念上の近代的個人とは背理する機能からなることが認められるのではなかろうか。
その観念的な個人たることを強いられ、大いなる不安が増幅していく時代が19世紀だったとするなら、〈混乱と戦争と技術進化の20世紀〉を経て、21世紀は〈個〉が〈短絡〉する〈無駄に虚しい喧騒の時代〉に入っているような気がしてならない。
それでも、1980年代から90年代初期辺りまでは、「これから発展することが確実なエレクトロニクス技術の高度化とパーソナル化とによって、未来を手繰り寄せる速度を加速することができるはずだ」という楽観主義の中にあった。
そして、その時点で生じていた未来化社会の理想の萌芽というものについて、たとえ多少の紆余曲折を経ることが予想されようとも、私たちは簡単に手放してはならないのだと思う。そういうものを安易に手放してしまうなら、後に残されているのは、醜悪な反動化しかないのだから。
その意味で上掲書には、今を生きる私たちがヒントとすべき楽観的理想が多数埋め込まれている。
同書は、1991年に『音楽の未来に蘇るもの』として刊行されたものの新版にあたり、2010年にいわば再発売されたものだ。
その再刊の後書きで著者の高橋健太郎が印象的なことを記しているので、ここに引用しておきたい。

(引用開始)
世界は狭くなった。しかし、本書にも記したように、はるか昔から世界は意外に狭かった。繋がっていた。そういう思いは、インターネットの時代になって、よけいに強くなってもいる。
文化を繋げるもの、それは通信手段ではなくて、人間の想像力なのだ。そして、2000年代になって、インターネットによって文化の様々な領域で起こったことが、音楽の世界では80年代にすでに試行錯誤されていた。そのことを僕は証言することができる。本書はその証言集と言ってもいいかもしれない。
(引用終わり)

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コメント

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投稿: what is jimmy choos | 2013年10月 9日 (水) 14時03分

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