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2013年10月18日 (金)

訃報ふたつまで(藤圭子さん、谷川健一さん) その16

もちろん、私は、民俗学系統の学者や研究者、学生/学徒の方々を非難したいのでもなんでもない。
むしろ、「褐を被て玉を懐く」ことをもって潔しとすることが多いだろうような学問領域にある人々は、広告屋がしきりに触手を伸ばすような光のあたる世界に出る羽目になればなったで、逆に浮き足だってしまって良いように利用されてしまう場合も多かろうことを思うと、米国あたりでは既に制度的に整えられているらしいが、優れたコーディネーターすなわち「回路の設計/接続役」を担えるような人材も日本には乏しいことを思い、思わず、八つ当たり的な愚痴を発してしまっているというに過ぎない。
優れた研究者がいて、それと社会一般とを媒介するきちんとしたメディアがあって、先端的な応用分野を民生に適用/応用するような実作分野があって……といった当たり前で健全な回路が、工業/工学分野ではいざ知らず、なぜ、我が国では文化的分野において機能しないのか。
我が国の“政治的不幸”と“文化的不幸”は、残念ながらもシンクロし、国民の“やる気”を著しく削いでいるのが実情だ。(だからこそ、我が国では、若年者の死因の第一位に自殺があげられるような羽目に陥るのだ。)
ちなみに私のような人間は、光があたると雲散霧消してしまうようなドラキュラ系統の生き物なのだが、今日では、光があたっても消えなかったことに味をしめ(?)、クリエイター兼コーディネーター兼プロデューサーとして活躍するような寺山修司みたいな人もほとんどいなくなってしまった。
電子工学の分野では、「電子回路接続技術士」なる資格があるとのことだが、文化分野でも、「文化回路接続仲人」とでも呼ぶべき人材を育成してどんどん活躍してもらうべきではないのだろうか。
米国などは、さすがに目端がきくと言えば良いのか、情報収集にぬかりはないと言うべきなのか、「MITメディアラボ」という先進的な研究所の所長に伊藤穣一という(一般的な日本の価値観からすれば得体の知れない)日本人を抜擢するなどということをしている。
(そういう動きがあればあったで、日本のメディアは、伊藤穣一という人を“どこか高みから降臨した物凄い天才”であるかのように、まさに腫れ物にでも触るかのように“逆輸入”してみせるのだけれど。それが、今の日本という国の文化的水準なのだと認識するしかない。問題なのは、なぜ、自分たちは伊藤穣一なら伊藤穣一というような人材を発見/発掘して登用することも活用することも出来なかったのかという内省なり分析なりが、然るべき地位あるいは位置にある人々の間で、ほとんどなされないということなのだ。「過剰な自己愛と自己防御」の世界が安泰である限り、私たちの知的エスタブリッシュメントとその周辺は、自ら積極的に動こうとは決してしない。実際、出版界の一部に目利きのような人が散見されるばかりだろう。情けないのは、例えば、昨今の「集団的自衛権」をめぐる議論にしても、首相の諮問機関だか懇談会だか何だか知らないが、ああいうところで行われている議論というものは世界史的な水準に耐え得るものではない点にある。「改憲は時間が掛かるから、集団的自衛権については、解釈の方でやっしまえ」と誰かくだらない者が言った…そういう命令だか指示だか示唆だか知らないが、そういうものに応えようと必死になってあられもない醜態を晒しているだけ…それが昨今の「集団的自衛権」をめぐる議論だろう。それは議論している当の本人たちも承知の上なので、座長だか何だか知らないが、“議論”を主導しているらしい典型的御用学者のメディアに対する受け答えもどこか他人事であり投げやりなのである。自らの身体なり進退なり、あるいは学説なりの〈存在〉をかけた議論なのでは全くなく、「過剰な自己愛と自己防御の世界」を保全するために単に義務的になされているに過ぎない。そして、そういうお話にならない水準を国民の目から隠すためにいわゆる「秘密保全法案」なるものも併せて議論され始めているのだろう。米国のいわゆる「愛国法」などもひどいもののようだが、そういう恥ずかしい法律が出来れば出来るほど、国家の安全どころか衰退の方が間違いなく促進されるというのが実際のところのはずなのに、いったい“あられもない人たち”は何を考えているのだろうか。事実、「テロとの戦い」とやらに敢然として立ち上がったはずの米国に、「テロとの戦い」に勝利する予兆はあるか、全くないと言うべきだ。「過剰な自己愛と自己防御と自己正当化」に汲々として、周囲に強固なブロック塀を積み上げることだけに精を出すような個人や集団、共同体に対して、有能な諸個人が徐々に距離を置き始めるのは当然のことではないだろうか。そうなれば、塀を積み上げる側は、有能な人材を金で釣るか、いかにも人造的な名誉/名声で釣るか、あるいは脅しや強制で釣るかしかなくなっていく。MITの例とは真逆の人材登用の負のスパイラルが作動し始めるのだ。どうしてそれで活気あふれた国力を持続的に維持することが出来ようか、出来るはずがない。米国の衰退に引きずられて、日本が今より更に居心地の悪い法体系を選択していくつもりなら、ただでさえ「過剰な自己愛と自己防御」の世界を守ろうとして汲々としがちな我が国のエスタブリッシュメントらの質は、加速度的に劣化し、暗く身動きのとりがたい社会がまたぞろ再現されることになるのは論を待たないと言うべきだろう。当然のことながら、北朝鮮を笑えなくなるのも、このままでは時間の問題といえる。……と、いやはや、話は同一の構造に言及しているとはいえ、表面的には、どんどんずれて来てしまった。まぁ、いいか)

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