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2013年10月20日 (日)

訃報ふたつまで(藤圭子さん、谷川健一さん) その17

吉本隆明にしても、谷川健一にしても、なぜ、アカデミズムとは生涯一線を画し続けたのか。
それは当人らにとっても一言ではいわく言い難いものだったのだろうが、無責任な他人かつ素人が乱暴な頭で考えるのなら、(まさに今や安易な用語になってしまったが)それは〈パラダイム(全体知の枠組み)〉ということにやはり関係してくるのだろう。
「西欧優位世界」において、西欧の開拓した情報の集積と整理の方法をもちろん否定するわけではないが、それによって整頓され型枠としてもたらされる“建築物”の中に居住しさえすれば、なるほど快適な生活を送れるにはちがいないが、しかし、そのことをもって潔しとするわけにはまいらない、頭脳の働きが良く分かってしまう(先が見通せてしまう)がゆえにこそ、安易な生活にだらなしなくも入っていくわけにはまいらない、そういう強烈な自負と自意識が、彼らの足をアカデミズムから遠ざけたのだろう。
もちろん、背景には、文学だとか歌謡だとか、あるいは日々の生活だとかいう、いわゆる“学問”、特に近代以降必要とされた功利的、効用的な“学問”とはあまり相性の良くない分野が密接に関わっていたことも関係はしているだろう。
吉本は『吉本隆明初期詩集』(講談社文芸文庫)の後書きに次のような率直な回想を記している。

(以下、引用。……は中略)この時期の詩篇(※『固有時との対話』)の背景を一口に要約するとどんなことになるだろうか。ひとつは学校は「公園」、つまり憩いの場ということだとおもう。もうひとつは、公園の憩いからみれば、この世には地獄というのはあるんだなと実感した時期だ。
……
サルトルではないが、疲れたら休むことを知っているということは、それだけでも学校と学問が教えてくれることで、特権的だ。学校の空間に取柄があるとすればそれだけだ、といっていい。どう方法を択んでも学問や知識はじぶんが意志してやったことしか身につかない。それが憩いとつながっているか、生活の仕事に追われながらやるかの違いが、学校とそうでないもののちがいだ。
(引用終わり)

吉本は、ここで「学校」すなわち「アカデミズム」を「公園」と評している。
それは、吉本らしい褒め言葉でもあり、見切り言葉でもある。
また、「生産性」の概念にも言及している。
「学校」が「公園」だということ、それは直接「生産性」に関与しなくとも良い、そこが「学校」の持つ“救い”であり“自由”であるところの特徴だと言っている。
ところが、「近代」という時代を特徴付ける“役に立つ学問”という強迫観念に支配された「経済学」というものが「学校」にも関与し始めると、たちまち「アカデミズム」にも「生産性」の概念が導入されてしまうのである。
「生産せよ」という命題/命令は、マルクス経済学、近代経済学、以降の経済学の関わらず、「生産」のあり方を“支配”したいというモチーフを持つ「経済学」に特有/固有のものではないだろうか。
もちろん、人類という動物種は「生産」に関与しない限り、ほとんど生存しがたいある意味では極めて脆弱な生物である。
「生産」すなわち第一に「農耕」の発見によって今日の人類の繁栄はあるわけなのだが、別の側面からは「生産」などという煩わしいことに関与せずとも、他の動物は十分に生存を確保できるように出来ている。
「生産」行為から逃れることが人類の夢であるとともに、「生産手段」を高度化し、高度化した「生産」に関与することが人類の自負であり自慢というわけだ。
だから、支配者とは、自らの手で「生産」はしないが、「生産手段」を所有し、他人に「生産」行為をさせ、その上がりで易々と/楽々と生命を維持する者のことだと言うわけだ。
ところが、人間種というのは、いわば「生産行為」に呪われた種とでも言えば良いだろうか、「生産」の現場から余り離れ過ぎてしまうと、不安を覚えるような生物なのだ。
「犬」という種は、人間に飼育され何不自由のない生活を送っていても、最低でも「散歩」をしなければノイローゼになってしまうような動物らしい。
この「犬」にとって「散歩」にあたるものが、「人間」にとっての「生産」なのである。
この、人類にとっていっしゅの二律背反的な課題である「生産」=「労働」について、どのような態度をとるか。どのような思想を育むか。
こういう基底的な部分における態度/考え方の相違によって、知的枠組みの構造にも差異が生じるだろう。
今、私たちの知的枠組みを席巻している「経済学」の中には、一方の極の基底的思考が流れ込んでいるというのは、こうしてみると、それほど違和感なく感じとれれることだろう。
「功利」「効率」「効用」、これらは全て「生産」にかかわる概念だが、これらを極大化、極限化すれば、人間は、「労働」から「解放」されるという思い込みに支配され、「労働から解放されることが、人間の幸福なあり方である」という“目標”に向かって「生産」を“強化”する、すなわち常に“成長”する以外の姿を想定できない学としての経済学、それが私たちの持った(基底的な部分で矛盾に満ち満ちた)“経済学”なのだとみなせる。
ゆえに、そのような「経済学」は「公園」にも「生産性」が必要だと唱え始める。
「公園」では何も「生産」などしていない、むしろ「生産」などとは無関係なのが「公園」の良さだと、誰かが言う。
すると、「経済学」は、では「公園」は「公園」であってはならない。そこは「論文の生産工場」に作り替えよ。「論文の生産性」によって、我々がそれを評価してやる、と言い始める。
「こいつら、頭がおかしいか、悪いのではないか」
誰もがそう感じながらも、「公園でサボっているばかりの役立たず」と言われるのは我慢ならないので、いつしかそれを渋々受け入れるようになってしまうのだ。
吉本隆明は、先に引用した文章に続き、次のように言い切っている。
『文学作品の創造は学問でも人文科学でもない。ただ憩いだ、遊びだという側面で学校と関係があるだけだ。』
思わず
『遊びせんとや生まれけむ』
という、我が国の平安時代に後白河法皇によって編まれた歌謡集である『梁塵秘抄』の一節が浮かんでくる。
この、余りに高度で貴重な文化的資産は、しかし、(恐らくその政治色の薄さによって)そのほとんどが失われてしまっているのだという。
また、そういうことからしてみると、世阿弥の「一子相伝」といった考え方は、(私など深く考えもせずに反発を覚えたりもしたものだが、)当時の社会状況も加味して考えるなら「絶対に廃れさせない」という意味において、合理的な考え方だったことも見えてくる。(ただし、やはり、私たちが『風姿花伝』の内容を知り得たのも、近代という時代性を受け入れたからであり、当然のことながら、そのような近代の利点について私たちは積極的に評価し、また、「秘伝」と呼ばれるようなものを、いかに本質的に近代化していくのか、未だ道半ばなのだということを、改めて強く意識すべきなのだと思う。)
谷川健一が生涯こだわり続けたのも、一部の学者が「日本文明」と呼ぼうと思うような、日本列島に育まれて来た文化の有り様であり、その世界史的な感受性のようなものだった言って良いだろう。
仮にその感受性を「日本文明」と呼ぶとき、しかし、この文明は、外に対してあまり発信したことはないのである。
こういう受容型の文化というものは、なるほど加藤周一が「雑種文化」というあまり美しくない言葉で呼んだように、数多の文化を受容し融合し“日本化”することによって育まれてきたものだ。
だが、その“日本化”の過程を経て出来上がってくるものは、独特の相貌を帯びている。
この独特の相貌の部分を、世界に向けてうまく発信できたことは、残念ながらまだ例が少ないと言うべきだろう。
数少ない例を挙げるとすれば、悪い意味での“伝統”の拘束力の弱かった黒澤明や小津安二郎らに代表される映画の世界によって、ある意味では思いがけない形で「日本」がふと外に出たという現象があったかも知れない。
しかし、現在のように「クールジャパン」などと銘打って、広告代理店的手法で“気を引く”やり方というものは、必ずや失敗するだろう。
もちろん、「アニメ」や「コスプレ」には日本人的感受性とでも言うしかないものが息づいているのは確かなところだろう。
しかし、「演歌」が、“日本的”たることを志向するあまり、かえって世界史を弛く受容してきた日本のたおやかさや明るさ、繊細さを殺してしまった/抑圧してしまったように、幼児性に偏したものを「その方が受け入れられやすいだろう」という傲慢とも言える勝手な思い込みによって大宣伝したところで、言っちゃ悪いが、世界に“おたく”を増殖することにしかつながるまい。
そんなことで本当にいいのか。
ふざけちゃいけないと、少なくとも一定年齢以上に達した者は言い続けるべきだろう。
なぜ、幼児に媚びを売らなければならないのか?
“市場”が大きいからか?
ふざけちゃいけない。

「あまちゃん」?「AKB48」? 若い女の子に癒してもらっててどうするよ?
若い女の子は、癒してさしあげろよ。
ふざけてちゃいけない。

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