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2013年10月31日 (木)

のび太シンドローム(番外編)

日々のニュースや、私たちが持ってしまった劣悪なマスメディアに(どうしても癖で)触れるともなく触れていると、本当に気持ちを萎えさせてくれるものばかりが氾濫しており、不快や呆気を通り越して、何かもう感心せざるを得ないという気になってくる。

何か、こう、追い込まれている、あるいは必死に抵抗しているということは伝わって来るのだが、全ては“敵”を外部に作りたくて作りたくて仕方がない者たちの発想によって“仕立てられた”ものばかりなのだ。
その執拗さというものは、その辺のストーカー程度では到底太刀打ちできないほどの粘着性をどこまでも有しているのである。

「情報のプレタポルテ」
「プレタポルテ化した情報」いやいや、プレタポルテなら、まだマシか。
そういう概念がまだ残っているのなら。
少なくとも、プレタポルテと言えるほどなら、「仕立て」は上等だろう。
一昔前なら、ちょっと良さげな服飾品は、ブランド品ならずとも、そこそこ良い値段がついていた。
おいそれとは買えやしなかった。
けれども、その分、間違いなく仕立ては丁寧で上等だった。
今は何もかも、全てが安っぽくなってしまっている。
これを、デフレと呼ぶのなら、なるほどデフレなのだろう。
しかし、商品として手元に残るのは、けっきょく値段相応の品質しかないものだ。
べつに、品質はそのままで、価格だけが下がったという印象はまるでない。
産業構造、貿易構造の変化によって、モノの値段は下がったのだが、それとともに品質も値段相応に下がっているのである。
一方、「貨幣」は、だいぶ“豊富”になって来ているようだが、“豊富”になった分、本当は“安っぽく”なってもいる。
これは、従来の“経済学”ではあり得ない話だろう。
けれども、現実には、「モノ」が“安っぽく”なるのと比例して、「貨幣」も“安っぽく”なっているのだ。
「モノ」と「貨幣」の連関性が、ミスマッチを起こしているため、全ては“安っぽく”安易な方向に流れているだけだ。
「価値」のヒエラルキーは崩壊過程にあり、したがって「価値観」も働かなくなっている。
「貨幣」は、単にあり余っている。
あり余ってはいるが偏在させておかざるを得ない、むしろ、あり余っているがゆえに偏在させておかざるを得ない。
そうしておかなければ、“安っぽく”なった「貨幣」が、本当に安くなってしまうから。
そうなれば、“安っぽく”なった「モノ」を購入するにも、大量の「貨幣」を消費しなければならなくなる。
「そんなバカバカしいことってあるだろうか」
言ってみれば、そんな心理が歯止めになっているだけで、本当のことを言えば、「モノ」から「カネ」から、全てが今や“安っぽく”なっちまっている、というのが真相だろう。
こういう現象について、今の経済学者というのは、ためになる情報をまったくもたらしてはくれない。
情報と言えば、これも同じことだ。
おあつらえモノでも「プレタポルテ」ならまだマシで、実際にはおあつらえモノどころの騒ぎではない、「バッタ屋の処分品」が“情報”と称されて飛び交っているだけだ。
“そこ”に本当にほしい「モノ」など絶対に売っちゃいないのに、クセで目新しそうなものを購入してしまっては、その品質の劣悪さに目を見張り、そして後悔する、その繰り返し。
こういう虚しい反復は、確実に人生の時間を毀損していく。時間が荒れていく。
だけど、だからといって、「本当に欲しいモノ」など、今やどこの「店」に行ったところで売っちゃいないのだ。
「お客さん、趣味でやってんならそれでいいのかも知れないけどさぁ、オートクチュールなんて、もうビジネスにはならないんですよ、特にビッグビジネスにはね。だって、そうでしょ?成功したい者は、みんな、ビッグビジネスを手掛けようとしますよ。ビッグビジネスとして成立しなきゃ、成功とは言えないんです、そうでしょ?お客さん」

かくして、全ては“安っぽく”なってゆく。
「大量にさばけないものは、商売とは言えない、商品も、そしてマネーもだ」

バカなんじゃないだろうか。
「無駄にむなしい」
これも、吉本隆明の言葉だが、〈現在〉は、〈世界〉がその「無駄にむなしい」ことに熱中し熱狂している。
そうでないと「経済が失速してしまう」のだそうだ。
「ぼくが真実を口にすると ほとんど経済を失速させるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ」
これは、吉本隆明の詩の一節の“もじり”だ。

ああ、そうか、ぼくは、マネーなど少しも持っちゃいないのに、もしかしたら“一点モノ”を希求し渇望しているのではなかろうか?
今、ぼくが必要としているものは、安っぽさの欠片もない“一点モノ”、ぼくだけの、ぼくだけのための“一点モノ”それだけなのかもしれない……。

…………ところで、それはおカネで買えますか?…………

閑話休題(?)


「のび太」シンドロームに関連して…。
先日NHKで放映された『プロフェッショナル仕事の流儀』という番組をチラチラとみた。
取り上げられていたのは、藤子・F・不二雄。
この番組は、今では数少なくなった視聴に耐え得る番組の一つだったのだが、今回この番組のいわゆる「番宣」をみてまず思ったのが、「ほぉ、このシリーズでも故人を取りあげることがあるのか」というものだった。
私は熱心なテレビ視聴者とは言えないので、この番組のいちいちを全てみているわけではないが、少なくともこれまで故人を取り上げたものをみたことはなかったような気がする。
この番組は、一時期話題になった『プロジェクトX』のいわば後継番組だと私は思っていて、『X』の方が、歴史の中に埋もれていた“価値ある仕事”に改めてスポットライトを当ててみせることをモチーフにしていたとするなら、
『仕事の流儀』の方は、どんな業種・職種であっても、間違いなく「プロフェッショナル」と呼ぶべき仕事をしている人間は存在しており、どうあがいても「プロ」にはなれそうもない私のようなナマケモノに、「せめてプロをリスペクトできる人間であれ」と、悪くない意味における説教をしてみせる番組だと思っていた。
もちろん、そういう意味において、藤子・F・不二雄も、プロフェッショナル列伝に列なるべき押しも押されぬプロであることは間違いのないところだろう。
誰も彼のことを、凡人だと思う者はいない。
だが、彼をこの番組でとりあげる意味ということになると、たちどころに疑問符が突き付けられて然るべきだとも思うのである。
なぜ、NHKが/この番組を作っているスタッフが、『ドラえもん』を必死になって救出しようとしなければならないのか?
「滑稽だ、あまりに滑稽だ」と言わなければならない。
あえて時間をとって積極的に視聴しようとまではしていなかったものの、せっかく購入してしまったデジタル波受像機の数少ない出番となっていた番組で、「次はどんな業界のどんな人物をとりあげて/発掘してくれるのだろう」というジャーナリスティックな興味を抱かせてくれていた番組の一つだっただけに大変残念な気がする。
「『ドラえもん/のび太』を救出せよ」という誰か下らない者による天の声だか業務命令だか示唆だか指令だか何だか知らないが、そういうものがあったのだろうか。
「幻の最終回で、のび太はドラえもんの助けを借りずにたった一人でジャイアンに闘いを挑み、やられてもやられても立ち上がり、最後は、ジャイアンを怖じ気づかすにいたったのでした」?
ちょっとナンセンスではないのか。
「のび太」に必要なのは、ジャイアンに闘いを挑むことではなく、ジャイアンに「一目置かせること」、それが必要なはずではなかったか。
ジャイアンの土俵の中に入って対抗することではなく、「のび太」が「のび太」のままイニシアチブを取れるジャイアンとは無関係な磁場を形成すること。
それこそが、藤子・F・不二雄自身が自ら実践してみせたことではなかったか。
本当に残念だ。
残念と言えば、明治天皇の曾孫とやららしい竹田ナニガシ氏も、『ナントカ委員会』なる野卑で粗雑な番組で、残念な発言をしたらしい。
再現するのもメンドクサイのでしないけれども、
この人の無責任な言動には、非常に残念な気持ちにさせられたと言うしかない。
今、皇室が皇室であることについて、「責任」を以て振る舞っているのは、現在法的に「皇族」とされている天皇家を構成している人々のみだということが図らずも露呈した形だ。
明治天皇の曾孫などということを売り文句に政治的に深みのない意見を無遠慮にも述べるのなら、それは、皇室の政治的中立をおかしていることにもなるのであり、「皇族」の拡大を主張するのであれば、発言はより慎重なものであってしかるべきだろう。
(それが特権か否かはまた別問題であるとしても)他者の特権をあげつらうのなら、皇室/皇族の特権についても言及されることに考えを及ばしておくべきだ。
私個人は、「皇室の特権」について容認派である。
それは、天皇をはじめとする皇室を構成する方々が強い責任とその自覚の中で自らを律していることが理解できるからだ。
だが、「皇室の特権」とは、近代的な観点からは、まったく合理的なものとは言えない。
それは、日本社会にとって「非合理の合理」とでも言おうか、あるいは「必要欠くべからざる非合理」とでも言うべきものなのであり、社会的には、皇室の人々の、凡百の人間には想像を絶するような責任ある振る舞いと、いわば等価交換になっている。
「近代的普遍論理」が、天皇の前にひざまづくとするなら、それは、比類なき天皇の責任というものの前で怖じ気づくからに他なるまい。
それは、明治天皇の曾孫であるか否かなどとは、全く無関係な事態だ。

それにしてもいったい、日本人は、いつまでも天皇一人にそれほどまでの責任を負わせていて良いのだろうか、
「のび太シンドローム」との連関で言えば、そういう思いが頭をもたげて来ざるを得ない気もしてくる。

私は天皇のことを思うとき、「本当に大変申し訳ありません」と、頭を垂れる以外、他にどうにもしようがないのだという思いでいる。

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コメント

お早うございます。
『「貨幣」は、だいぶ“豊富”になって来ているようだが、“豊富”になった分、本当は“安っぽく”なってもいる』
あっさりと書かれていらっしゃいますが,いつもどおり海溝を覗く視点(≒考えるべき大きな問い)をお持ちと,感想をさし上げたく久しぶりにお邪魔いたしました。

投稿: 植杉レイナ | 2013年11月 1日 (金) 09時16分

お久しぶりです。
『銅のはしご』、継続的に拝見しています。
正直、小沢情報は、『銅のはしご』に頼りきりです。
相変わらず、小沢の言論には安定感がありますね。
日本に敷かれるべき近代的制度について、とことん自分の頭で考え抜いているからこその安定感でしょう。
昨日は、自ブログをしこしこ打ち込んでおり、たまたま天皇について触れたのですが、山本太郎議員のことは知らずにおりました。
返信コメントで持論を展開することになり恐縮ですが、やはり、どのような立場であろうとも、天皇が政治的に最後の拠り所とみなされてしまうような状況が生じること自体が、近代日本の危機であると思います。
天皇に関しては、天皇の威光を背景にするのも、天皇の徳に望みを託すのも、あってはならないことだと思います。
「昭和維新」の際も、最後の拠り所は天皇だったのであり、当時の赤貧にあえぐ東北の民らも、拠り所としての天皇に最後の望みをつなごうとしていたのは確かなのだと思います。
しかし、「昭和維新」は、制度破壊をともなう破滅としてしか機能しませんでした。
というのも、天皇の威を借る連中の方がいつだって社会的な強者なのであり、天皇を本当に利用して、めちゃくちゃなことを始めるのは、そいつらに決まっているからです。

山本太郎は、自己の軽率な振る舞いを天皇と国民に詫び、一から出直すべきだと思います。

投稿: にいのり | 2013年11月 1日 (金) 17時25分

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