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2013年11月27日 (水)

「のび太シンドローム」と「小沢一郎」と「医術の実践」と

「医術」とはどこまでも実践的なものであり、また、実践的たることを期待されている。
細かな事を言い始めれば「近代医術」も多様な問題をはらんでいようが、しかし、「近代医術」が実践によって実績を積み重ねてきたのは紛れもない事実だ。
医術を実践すべき医師が、患者を目の前にして、「美しい医療」などと唱え始めたり、「絶対確実、100%安全な外科手術、誓約書不要」などと連呼し始めたとして、私たちはそんな医者を信用しようとするだろうか。
あるいは、「あなたに深く同情し、あなたにどこまでも共感する。それゆえに私はあなたを是が非でも助けたいのです」などと、似たような患者は数多いるのにもかかわらず、みょうちきりんな同情論を振り回し始めたり、「私が今、メディアで/ネットで評判の、あの○○です、本人です、どうぞお見知り置きを」などと自己紹介を始めたりする医者を信用しようと思うだろうか?
あるいは、ちょっと応用問題ふうに言えば、私たちは、たとえばインフルエンザと覚しき熱を出したとして、慌ててiPS細胞の教授の門を叩き、「先生、どうも私の周囲でインフルエンザの流行の兆しがあるのですが、先生のお力で、なんとかならないものでしょうか」なる願掛けをしに行くだろうか?
近代以降の「政治」とは、「医術」に酷似してきており、特に「冷戦終結」以降の「政治」は、そうあるべきだったはずだし、そうあらざるを得ないはずだった。
多くの技術型企業が、ソリューションの競い合いをするように、「医術」も「政治」もソリューションをめぐる競合、すなわち「診断」の出来/不出来、「処方箋」の出来/不出来、あるいは「職人的手技」の出来/不出来における競い合いが、患者の信用を獲得し得るか否かの分かれ目になるようなもののはずだった。
そのような地平における競合は、確かに「近代」という時代が宿痾のように抱える「功利主義」「効率主義」などとの親和性を有さざるを得ないものではあるのだが、だからといって、その点において自己欺瞞をしない実践主義を貫くことが、むしろ信用を担保するはずだった。
「近代」という時代が抱えた「宿痾」について根底的な議論をするために知識人/学者というものが、政治家とは別に存在するはずだったのであり、それは、医術を実践する医師とは別にiPS細胞を研究する研究者/学者がいるのと同じことだ。
私は、「近代」の「分業化社会」にも懐疑の視線は注がれて当然だという立場だが、しかし、明確で明白な処方箋が書かれない内は、「分業化社会」の実際を受け入れて生活していくのであり、細分化した分業状況に懐疑的だからといって、一人のカリスマ的人物が全てを請け負ってもらおうなどというのは、どう考えてもムシの良すぎる話に過ぎない。
こんなことは、少し考えれば当然のことのはずなのに、いざ、コトが医術ではなく政治の話になると、政治に多大な、あるいは過剰な幻想を抱いている人が未だにことのほか多いらしいことに愕然とせざるを得ないところがある。
吉本隆明は、ある時期から、「段階論」ということを打ち出し始め、ヘーゲルやマルクスらの著作を読み解く中で、「アジア的専制」という概念に何度も言及している。
吉本には、未だにアジア諸国家が「アジア的専制」の残滓を引きずっている、あるいは内在的にその問題に決着を付けてはいないように認識されたのだろうし、当然、日本も例外的な存在ではなかった。
吉本は何と言うか分からないけれども、ネットに現れ出る匿名庶民の声を観察していると、「アジア的専制」の問題は、「支配する側」の問題というよりも「支配される側」の問題なのだということが歴然としているのではないか。
今度の「特定秘密保護法案」をめぐる問題で、そのことはより一層はっきりしてきており、国会議員などというものは、一部を除いて、「支配される側の代表」に過ぎないのだが、その国会議員の匿名庶民と変わらぬ行動様式、言論レベルは、私たちが「アジア的専制」の庇護下に入って生き残ろうする強い潜在意識を有していることを示している。
この「段階」にとどまって「停滞」を貪ろうというのが、決定的な合意となり得るのなら、それはそれで一つの見識とみなし得るだろう。
だが、問題は、上部構造において、ムシの良い「アジア的専制」の停滞的安寧を貪ろうとしつつ、しかし、下部構造においては、むやみやたらと活発な活動を示し、「だって我々はマツリゴトには責任を取らないし取れない庶民なんだから」と嘯きつづけるような状況が常態化しても、それを「問題」としては認識するつもりのないことにある。
ネットの中には、匿名か匿名に近い人々の熱狂的な○○派、○○支持者が目につきやすいのだけれど、右派は当然のことながら、いわゆるリベラル派や左派を自認しているような人々の中にも、無意識の内に「アジア的専制待望論」のようなものが言説の中に満ちている人がいて、滑稽だと言わざるを得ない。
そういうお前も、「天皇」容認論者ではないかと反論する方もいるかも知れないが、だが、「朝鮮民主主義人民共和国」や「中華人民共和国」などという正式名称を有する国が「アジア的専制国家」としての国家像をさらけ出してテラう様子もないことから理解されるように、「アジア的専制」とは、そのような統治形態を欲望する“人民”の存在によって発生し定着し安定するのであり、実はその逆ではないことが良く分かる。
無論、我が国にも「天皇」を「アジア的専制君主」てして担ぎ上げたいいわゆる「天皇主義者」もいるのだろうが、「天皇主義者」と「天皇」は無関係であるように、「アジア的専制統治」が成立するのに、そこに君臨する者は、共同体の歴史を深く背負った者でなければならないなどということは一切ない。
先ほど指摘した「問題」に戻れば、統治者が、治水や灌漑をはじめとし、国土の安寧を維持するために相当の責任を負うかわりに、各種の権力も独占し、一般庶民は、ろくな権利すら持たないかわりに自己の行動にもろくに責任は持たず、権力者にタテをつかない限りにおいて甘えた日常を過ごすという「アジア的専制統治」の形態は、やはり、一つの「段階」に過ぎないのであって、それが“進歩”であるかいざ知らず、知見の拡大は、次の「段階」への移行を必然的に招来するしかないはずなのだ。
西欧近代の画期性があるとすれば、彼らにとってはかなり重いものだったはずの一神教的伝統を乗り越え、宗教的権威を除外した世俗的な三つの権力が相互に分立し牽制しあいながら国家は維持されるべきものとし、その運営には、国民が、それぞれ責任を分担する形で参加すべきものとした点に求められるだろう。
権力の一端は権利となり、責任の一端は義務となった。
したがって、「アジア的専制統治」下における庶民のように権利は持たないけれども甘えて(統治に甘んじて)過ごすということは許されなくなった。
国家がうまく運営されるのも、ダメになるのも、国民次第であるという国民国家形態。
今や、知見が拡大するにつれて、この「国民国家」ですら古臭い「段階」になろうとはしているのだが、しかし、一定の「段階」を代表する統治形態として実に良く練られたものと言えるのではないか。
さて、そこで、しばしば訪問させていただいているブログ『銅のはしご』において、『生活の党』の「総合政策会議」における小沢一郎の講演内容が文字起こしされている。
正直、小沢一郎の講演内容に触れると、経験豊富な医者に出会った時と同じような気持ちにさせられ、ホッとする。
小沢一郎は、「オレをカリスマとして、オレにこの国を統治させろ」と言っているのではない(笑)。
いわば、経験豊富な医者として、「診断」と「処方」について口にしているのだ。
正直、この国が病んでなどいないと思っている人間など一人もいないのではないか。
だったら、どこがどのように病んでいて、どこをどうすれば治癒に向かうのか、主に技術論として一生懸命考えようというのは理の当然ではなかろうか。
特に、下部構造においては、落ち着きを払った理路整然として技術論こそが必要とされるはずだ。
上部構造、下部構造などというと反マルクス主義者みたいな連中が突然血相を変えてみたりするのだが、てめえらの上部構造は、一生懸命頑張ったのにAKBナントカやクールジャパンどまりだったのだから、もはや何をかいわんや状態であるのを自覚することから始めるしかあるまい。
「知識人」を自称したがる多くの連中が、なぜ、このような落ち着いた技術論に“影響”を受けないのか、私には理解しかねる。
ジャーナリストを自称したがる多くの連中が、なぜ、このような落ち着いた技術論に“影響”を受けないのか、私には理解しかねる。
要するに連中は、食品偽装に手を出した“一流とされていた出鱈目ホテル”“一流とされといたデタラメ料亭”などと、まるで変わりがないのであって、現在のこの国に流通している「〜とされている」「〜ということになっている」存在こそが一番アヤシイ存在であることは、はからずも/はかる間もなく、ダダモレ的に露呈しているのである。
このような露呈を目前で見せつけられて、「それでもアナタについていきます」などという連中は、ゲビた生活を一生送りつづければ良いというに過ぎない。
ただ、人前に出て、ごちゃごちゃと訳知り顔をするのは、もうやめてくれないかという、そういう単純なことに過ぎない。

小沢の議論が本当に清々しいのは、誰を敵にし誰を味方にするか、誰を悪とし誰を善とするかといった、「敵味方の論理」では全くないということだ。といって、それは「責任回避」のための「敵味方不問論」ではない。
優先すべき事項としての、「敵味方の論理」を越えた、そんじょそこらのテクノクラートよりよっぽどオーソドックスな技術論が語られているということだ。
とりわけ一神教に甚だしい敵味方の論理、すなわち善悪二元論(天使と悪魔教)に立つものは、政治的敵対勢力を殲滅すべき悪とみなしがちである。
このような思考は、本来、既に欧州における政教分離の原則によって遅れた古い考え方として斥けられていたはずのものなのだが、現実にはマルクス主義などにも影響を及ぼしている一神教的な闘争の論理によって、いわゆる左も右も、論争相手を悪と決めつける善悪二元論を手離そうとせず、やがてそのような人々は、「政治」とは、「悪」を殲滅する「正義」の実践であるという類いの思い込みにとらわれていく。
だが、先にも触れた通り、「近代的制度」を徐々に作り上げて来た、大思想家というよりも、どちらかといえば無名の実践家、実務家らの蓄積してきたものは、自らの風土に根差した一神教的思考をも思い切ってしりぞけ、経験的・実践的知を重んじたものとなった。
したがって、近代的政治制度に、英国の経験主義論の系譜が多く流入しているのは、論理的にも当然のことだろう。
日本の高級官僚ら、何か根本的に勘違いしているらしい人々は、実務を職業としているくせに、妙なところで気負っていて、小沢一郎の実践的・医術的技術論、処方箋を前にして、「コワイコワイ、ボクラは小沢に攻撃される、やっつけられる」と打ち騒ぐのだ。
「バカか、誰もお前らのことなんか、本当の敵などとは思っていない。ただ、なるべく人様に迷惑にならないようにしろと言っているだけだ」
素人の浅はかで勝手に小沢一郎の胸の内を忖度してしまうと、そんなことになるのだろうが、小沢の周囲にいる者の、そういう忖度や勝手な代弁が、これまでも小沢一郎を窮地に陥らせることが度々あったことも事実だろう。
私たちは、何よりもまず、小沢一郎の実践的技術論を自分の問題として捉えてみること。
このようなものを叩き台として、それをより現実的なものにしていくのは、それこそ実務家の役割である。
小沢は、官僚の活躍場所をちゃんと用意してくれているのに、「のび太シンドローム」に幼少の内から罹患したような我が国の高級官僚らは何か根本的に勘違いしてしまっているのだろう。
小沢の残す叩き台は、しかし、やがて共有の財産となるのだ。

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