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2013年11月 9日 (土)

「のび太シンドローム」(レクイエム?編)

いよいよ、「特定秘密保護法案」とやらの国会審議が始まったようだ。
ちゃんちゃらおかしいのは、マスコミと通称される情報コングロマリットの連中……行政権力や司法権力とつるんで小沢を追い落とした同じ穴の面々が、「この特定秘密保護法案とやらはさすがにマズいんじゃないか」などと青ざめていることだ/青ざめた振りをしていることだ。
私は未だに、首相安倍晋三が、アタマが悪いなら悪いなりに、自らの思い込みに基づき、(本人の主観に関わらず客観的に記述するなら)我が国を日本人同士がますますいがみ合う活力の乏しい醜い社会にするために、(その自らの思い込みに殉じるかのように)真っ直ぐ突き進んでいることを“評価”している。
最近、米国では「米国は中国からたくさん借金をしているが、この問題を解決するにはどうすれば良いだろうか」という問いに対して「中国人を皆殺しにすればいい」と大真面目に解答した6才児のことが話題になったようだが、同じ知的水準、知的成熟度によって、議論らしきものが進行していくのが、残念ながらこの国のレベル/成熟度のようだ。
Q「我が国政府は、国民から多額の借金をしているが、この問題を解決するにはどうすれば良いだろうか」
A「国民を三猿状態にしておいて、後は搾り取れるだけ搾り取ればよい」
そういう(マッカーサーではないが)6才児並みのソリューション能力に基づいて、国民から活力を奪うことに専心しようというのだから、恐れ入る。(安倍も安倍だが、その取り巻きは、全ては安倍の責任のように見せかけて、自分の都合の良いように事を進めて行くのだから、相変わらず薄汚い連中である。)
私など、正直なところ、伴侶も子もないので(格好つけて言えば自らの生をそのように調整してきたので)、こんな国がどうなったところで知ったことではないのだが、先人、もっと狭く言えばご先祖様にこれでは申し訳ないな、という気持ちは多少なりともある。
『ドラえもん』物語の“新しさ”は、先祖のあまりの体たらく振りに、子孫が見るに見かねて(というより、自らに降りかかる災厄を振り払うために)“先祖改造”のためのロボットを派遣してみせるというところにあったのだが、伝統的な民話構造にあっては、「子孫のあまりの体たらく振りに、先祖が死霊として蘇り、恐怖によって子孫を改心させる、より過激なものは子孫がしがみついている悪しきもの/下らないものを徹底的に破壊しつくす」というのが基本的なパターンだ。
いみじくも(というべきか)、笠井潔は、『“海へ消えていった”ゴジラは、戦没兵士たちの象徴ではないか。ゆっくりと海へ沈んでゆくゴジラは、沈んでゆく戦艦大和の姿さえ思い出させないか。東京の人間たちがあれほどゴジラに恐怖したのは、単にゴジラが怪獣であるからという以上に、ゴジラが“海からよみがえってきた”戦死者の亡霊だっからではないか』という文芸評論家、川本三郎の「ゴジラ=戦死者の亡霊」説をとっかかりとして、『8・15と3・11(戦後史の死角)』(NHK出版新書)という本を上梓している。
序章で、笠井は、丁寧なレジュメを提示しているので、自らの記憶のためにも、ここに引用しておこうと思う。

(引用開始)
本書は二部構成である。第Ⅰ部(第一〜三章)では8・15、第Ⅱ部(第四、五章)では3・11が中心的に論じられる。20世紀は世界戦争の時代だった。1991年のソ連崩壊で世界戦争は終結するが、アメリカ独覇による「平和」はわずか10年で終わり、イスラム革命勢力の9・11攻撃をもって世界内戦の時代が開幕した。8・15という事件が世界戦争の一部であるように、3・11もまた21世紀的な世界内戦と不可分の関係にある。
第一章「戦艦大和で何が起きたのか?」では、「ゴジラ=戦死者の亡霊」説の再検討からはじめて、対米戦争の開戦とポツダム宣言の受諾をめぐる戦争指導部のニッポン・イデオロギーを洗い出していく。
第二章「20世紀戦争とは何だったか?」では、世界戦争/絶対戦争としての20世紀戦争について論じたい。それはまた、歴史意識を欠如したニッポン・イデオロギーの原理的な脆弱性を検証する作業でもあるだろう。
第三章「もうひとつの戦後思想史」では、敗戦から復興と高度経済成長にいたる過程を精神史的に検討してみたい。ニッポン・イデオロギーへの批判は戦後史のそれぞれの局面で、優れた文学者や思想家によって試みられてきた。しかし、3・11という破局に帰結する芽を思想的に根絶することには失敗した。その根拠を明らかにしたい。
第四章「潜在的核保有国ニッポン」では、1990年前後に起きた冷戦の終結、あるいはバブル崩壊という内外の重大事件の歴史的意味を確定し、福島原発事故が21世紀的な戦争(世界内戦)の一環であることを検証したい。
第五章「原子力ムラの最深層」では、近代の科学やテクノロジーの帰結である原発について論じ、また原発のような巨大プロジェクトに不適合な日本人と日本文化を、その起源にまで遡って明らかにする。
終章「原発批判の思想的根拠」では、ニッポン・イデオロギーを自己対象化なしえていない反原発論の不徹底性を批判し、反原発の思想的根拠を提起したいと思う。
(引用終わり)

笠井潔の用いる論理や、細かな例証の一々全てに賛同するかどうかは別問題として、ここには多くの論者が触れたがらない論点(現代日本人の抱える/克服すべき問題/課題)が、数多く提起されているのは、間違いのないところであり、今現在の日本人の集合無意識(共同幻想)がどのような形で構造化されているかを対象化するためにも、ここに提起されている問題に多くの人が向き合うことが必要なのだと思われる。
笠井の言うとおり、戦後の日本人の集合無意識に、『ゴジラ』というのは、確かに象徴性を帯びた文字通りイコンとして作用していたということが言えるだろう。
戦後の〈イコンの系譜〉という観点を提示するなら、1954年生まれの『ゴジラ』は、悪とも正義ともつかぬ、しかし、いわば“聖的な凶々しさ”とでも言うべきものを確実に備えた存在として私たちの前に現れた。
ところが約10年後の1966年生まれの『ウルトラマン』になると、“圧倒的な正義ながらも、決定的な弱点を帯びた存在”として、それは私たちの前に立ち現れることになる。
そして、しかしその『ウルトラマン』も、70年代になると、自らの被害者意識を恥じようともせず、常に地団駄を踏んで助けを請うような始末に負えない存在を、ひたすら甘やかして共同体内で優位な位置に付かせようとする『ドラえもん』とかいうお調子者にイコンの座を奪われることになったのだ。
笠井の大衆論に引っ掛けて言うなら、私たちは『ドラえもん』というイコンを得ることによって遂に、「どんな手を使ってでも共同体内で優位な位置を占めようとする」自らの〈姑息さ〉を恥じようとしなくなってしまったのである。
この、『ゴジラ』から『ドラえもん』へと至るイコンの意味上の反転、これはいかにも異様な事態だ。
物語構造として見れば、『ドラえもん』物語とは、伝統的な民話構造を反転させたに過ぎぬものなのだが、子孫にバカにされ恨まれる恥ずかしい“祖先”というものに、どうやら私たちはいよいよ本格的になろうとしていることを予言あるいは示唆するものとして、『ドラえもん』は、するすると日本人の無意識の中に忍び込んだのである。
藤子・F・不二雄の無意識が導出したリアリズムは、そういう意味では、恐るべき、そして恥多き〈現代〉を見事に照射していたと言っても良い。
今後、人間にとって「祖先」とは、自ずと敬うべき対象どころか、自ずと軽蔑せずにはいられない、呪詛の言葉を吐かずにはいられない忌むべき対象となるのだ。
そういう心性の“グローバルなデファクト・スタンダード化”は、新しい民話/神話を形成して行かずにはいられないだろう。
中学生のころ、芥川龍之介の『河童』を読んだ時、詳細は忘れてしまったしメンドクサイので今読み直そうとは思わないが、たしか河童の子が生まれるべきか否かについて問答する場面があり、子供心に衝撃を受けたことが思い出される。
子を作ってしまったはいいが、我が子を殺さずにはいられなかった親は、〈現代〉にあっては、本当のことをいえば、最も“良心的な”存在なのかも知れない。
惜しむらくは、子が受精卵になる前に、「こういう世の中だけれど、生まれたいと思うか」と、沈黙の言語によって問答をすべきだったということだ。
安倍晋三にも子はないということだが、子もないのに、首相をやりたいなどという人物は、相当な博愛主義者か、相当な怨念主義者か、あるいは天才的な俗物主義者かのいずれかなのだろう。
いや、安倍のことなどどうでも良かった。問題は、子のある連中が、「緩慢なる子殺し」を実行していながら、それを恐れようとも恥じようともしていないように見受けられることからして、その者たちは、子を虐待して“瞬く間に”殺してしまった者と、所詮は同種同族の者でしかないという事実の方だろう。
福島の悲劇とは、そういう意味では、日本列島にあまねく広がる「子孫を不幸にするシステム」を顕在化、急進化しているということに過ぎないのであり、どれだけ巧妙にサバイブしたつもりでいても、「子孫を不幸にするシステム」と、我が子の生とを全く無関係にすることが出来ない限りは、そのサバイバルのための懸命の努力は、〈無駄に虚しい〉努力と形容するほかないものである。
現代の日本の「法」や「教育」あるいは「情報」というものを包括的に拘束して、小沢一郎やその支持者によって開けられそうになった綻びの穴を塞ぐために、トンデモ法案と呼ぶべき「特定秘密保護法案」なるものを捻出して来た者たちこそ、共同体内で優越的な地位を確保するためなら、どんな姑息さをも意に介しない「のび太」の嫡子たちに他ならないのだから、こんな連中に存在をバインドされたくないのであれば、全く無関係の関係性/環境を確保して生きるしかないはずだ。

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