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2013年12月27日 (金)

「滑稽で不随意的な日本社会」あるいは 「アジア的専制」を醸成・維持する薄気味の悪い温床/糠床、のようなもの

「滑稽で不随意的な日本社会」あるいは
「アジア的専制」を醸成・維持する薄気味の悪い温床/糠床、のようなもの

1912年のミス・インターナショナル「吉松育美」の周辺に起きた事態をめぐる情報の非対称性は、「福島原発」をめぐる情報の非対称性、あるいは「小沢一郎」の周辺に起きた事態をめぐる情報の非対称性と瓜二つ/構造的に同型であり、社会的なディスコミュニケーションが生じる中で、このような「問題」に関する「自己解決能力」のなさを満天にさらけ出す社会は、世界的な規模で見捨てられても仕方がない。

12/26には、私たちの可哀想な首相が「慰霊」にかこつけて「神頼み」をおこなうにいたった。
そこに横たわる“日本固有の”問題について、近隣諸国が極めて不当な行為であるかのように罵ってみせるのは、実際にはつまらない内政干渉の類いであり、彼らがいつでも日本からだけに被害を受けたように装ってみせるのは、「世界システム論」的観点からも、あるいはオーソドックスでスタンダードな世界史的観点からも、木を見て森を見ない類いの主張であることをもうそろそろ自覚すべきだろう。(もちろん、これは、過去の日本帝国主義が瑕疵に満ちていたことを免罪しようとするものではない)
したがって、彼らの尻馬に乗るようにして、自国の自惚れた可哀想な首相を罵ってみせる国内の論者の言説は、多くの日本人を説得することが出来ない。
問題なのは、私たち日本人が、“日本固有”の事柄について、どの部分は残し、どの部分は克服すべきだといった建設的な議論をいつまで経っても始められないという点にあり、これは劣等生の受験勉強と同じで、他人がいくら口を酸っぱくしたところで、当人が本当にやる気にならなければどうにもならない性質のものなのだ。
自立した精神によって(普遍性を志向する、つまり世界的に納得される/一目置かれる)自律的な体系の生成いてまで経っても志向しようとしないがゆえに、私たちは、“日本固有の”事柄について、他者から、ときには合理的な、ときには理不尽な指摘をされては、その都度右往左往しながら欲求不満や鬱憤を募らせ、あるいは怨念を内に溜めたりしているので、神経症的な方向に追い詰められていくばかりなのだ。(そして、逆にいつまでもこのような構造が温存されているために、“日本固有の”右翼は、帝国主義時代はたしかに能動的な加害者であったにもかかわらず、まるで被害者や被抑圧者のような顔をして、この状況を打破しろなどと訴え続けることが可能にもなっている)
そうして、日本なりの、しかし世界に通用し得る/汎用性のある「合意形成/合成意志の形成」に失敗しては、けっきょく社会構造全般が有力な他者によって他律的に動かされていってしまう。
こんなことを、私たちはいったいいつまで続けていくのだろうか。
私の判断では、日本の(世俗)政治の最高責任者が、「慰霊」にかこつけて「神頼み」をするような行為は、あまりにも分かりやすい克服すべき行為の一でしかないのであり、私たち日本人は、このような行為の内閉性、いわば「非解決型内向性」とでも言うべき行為の内閉性を、対立ではなく、まさに合意に向けて客観化すべきだろう。
こういう点について、とても参考になる意見を『ジャパン・ハンドラーズと合理的選択』というブログがアップしているのを見つけた。
筆者は「吉松育美」をめぐる問題(経緯を知らない方はネット内で独自に検索していただきたいが)から派生している現代日本の政治や社会文化をめぐる諸問題について、『世界普遍価値(ワールド・ヴァリューズ)の窓口としての外国特派員協会―ミス・インターナショナルと国際政治』という文章で解明を試みている。
筆者によれば、ミス・インターナショナルという栄誉は、リベラル・デモクラシーや人権尊重、地球温暖化防止と同じような「世界普遍価値」のひとつとして認識されているとして、『日本のナショナル(ローカル)・ヴァリューズ(国内だけでしか通用しない価値基準)は通用しない。だから世界のメディアは大々的に報じて、一方で日本の広告会社の電通とその傘下の芸能プロに支配された記者クラブは沈黙するという驚くべき好対照になってしまった』と指摘している。
(『』内はブログからの引用文)
その上で、現在の安倍政権の国際政治上の立ち位置に言及した上で次のように書く。
『世界普遍価値が民族固有価値と衝突した場合、どっちが正しいかという真実はない。だが、重要なのは世界普遍価値には多数のオーディエンスがおり、支持者もナショナルヴァリューズよりは多く存在することだ』と。
だからこそ、外国特派員協会というのは国際政治の窓口として機能するのであり、そして、『吉松育美は世界普遍価値の重要性を教えてくれた』と高く評価することになる。
事実、当コラムの冒頭にも記したように、「吉松育美」をめぐる問題についての情報の非対称性は異様であり、鳩山由紀夫を貶めるためなら「ワシントン・ポスト」といってもいわば三面コラムまで“高く”掲げてみせる日本マスコミは、海外の主要メディアが日本発の話題としては恐らく珍しいほど軒並み報道してみせた「話題」については、自分で書かないばかりではなく、ものの見事に無視している始末なのだ。
前回、私は「特定秘密保護法」に絡んで、日本では「(国家の)秘密」が「(各省庁の)個別の都合」と同じものになってしまったと指摘してみたが、もともと、報道自体も「情報価(ニュース・ヴァリュー)」は「個別の都合」でしかないものだったのである。
これと似た類のことは、当ブログでもさんざん指摘してきているとは思うのだが、改めてそれを見せつけられる不快さというものはまさに例えようもない。
特に注意したいのは、(引用ブログの語句を援用させてもらうなら)日本マスコミの編集責任者らの価値判断というものは、「世界普遍価値」に照らした上での価値判断なのではなく、あくまでも内向的・内閉的な「民族固有価値」からの価値判断に基づくものであることが、「吉松育美」をめぐる問題によって、あからさまに露呈していることだ。
したがって、この問題に沈黙を続けることは、「我々は、世界普遍価値を価値として共有する意志も能力もない未開人です」と宣言しているのと同じ意味を有していることになるしかない。
私は、先日来、『訃報ふたつまで』と『のび太シンドローム』というタイトルで、日本の内発的近代化の欠如状態を記述しようと努めてきた。どちらのコラムも素人の力不足でまとまりに乏しく、しかも未完状態のまま中断しているようなことになっているのだが、
「吉松育美」をめぐる問題のような「恥さらし」というものは、できることなら、さらす前に自己解決手段を模索すべきものなのであり、吉松氏にしても、最初の記者会見を「司法記者クラブ」で行っているように、そこで適切な「報道」、自分たち自身で解決すべきものとしての「問題化」がなされていれば、こんな「恥さらし」にはいたらなかったはずなのだ。
しかも、先日当コラムでも取り上げたように、若干の経緯の相違はあれど、女優のタマゴをめぐる凄惨なストーカー殺人事件が三鷹市で起きたばかりで、警察もストーカー対策にこれまで以上に本腰を入れると宣言した割りには、いかにも腰の重さを露呈しているのである。
こういう動きというか動きのなさ自体が、「世界普遍価値」の価値の重さが骨身にしみておらず、どこかよそよそしいもの、縁遠いものとみなしているらしい集団の惨めでのろまな無能振りを示唆して余りある。
そこに加えて、今度の首相の靖国参拝である。
首相周辺は、「丁寧に説明していけば、理解されるはずだ」の一点張りだが、著名とはいえたった一人の女性の人権をめぐる闘いすら支援できない(あるいはそれが一方の言い分に加担し過ぎた言い方だとすれば、関係者の安全を確保した上で事実究明の態勢を整えられない)公的諸機関が、一方でこれだけ雁首を並べて恥をさらけ出している中で、「私は非戦と恒久平和を祈願してお参りしたのであり、世界のどんなリーダーでも、戦死者に対して慰霊の意を示すのは当たり前のことだ」などという台詞を繰り返したところで、どうして説得力を持つことができよう。
そのような台詞は、共通認識を共有しているという最低限の連帯感の中ではじめて説得力を持つことのできるはずのものであり、極端な例を出して恐縮だが、いかに北朝鮮の首領が「我々は朝鮮民主主義人民共和国という名称のとおり、民主主義の理想を追求してやむことなく前進している」と述べてみたところで誰も本気にはしてくれないのと同じことだ。
当然のことながら、「世界普遍価値」“とされているもの”の普遍性とは、どれほどのものか、そのようなものが絶対的正義のように振る舞うことがどのような悪影響を及ぼすかといったテーマは当然手離すべきものであるはずがない。
しかし、そのようなことを言い出すためには、前提となる「段階」に達していることはやはり必須だろう。
一国の公的制度や法秩序の中に、「そんなものは屁のカッパ」だとみなすような(無法性において)強力な内閉的共同体が堂々と(暗黙の了解の内に)数多存在し、それらが利害関係に基づき、いたる所に結節点と経路を持つような蟻の巣状の縄張りを有して、「インディビジュアリティ」というものを認めないし、仮にそのようなものか独自の活動をして我々の利権に食い込むようなら根絶やしにしてやるといった「監視」と「脅迫」が日常的に機能しているような社会があるとしよう。
そのような社会は、仮に経済的に活況を呈しようとどうしようと、信用には値しない、と言われれば、それはその通りだ、ごもっともと首肯せざるを得ないはずだ。

これは、だから首相一人の問題でもなんでもない。

私たち自身に「自己解決能力」「自浄能力」が欠如しているのであり、私たちは「あいつは信用できない」といわれれば「こいつ」にし、「こいつも信用できない」と言われれば「そいつにする」というように、「私たち全体が信用に値しない」と言われることを恐れて、首相の首をコロコロと付け替えているだけなのである。
ただ、その中でも、姑息著しいのは、私たちが持ってしまった既存マスメディアであることもまた疑いようのない事実である。

ネトウヨと呼ばれるような人たちは、日本マスコミを指して、「反日だ、反日だからダメなんだ」と繰り返す。彼らが、当人たちの主観に反して知的存在として認知されないのは、目の付け所がやはり今一つだからだろうとしかいえない。
「マスコミが反日?」とんでもない、「マスコミこそ、日本的なるものの集約されたものであり、その象徴的機能を担っている」というべきだろう。
ただし、彼らの担っている「日本的なるもの」は、「日本的なるものの悪しき部分を集約したもの」なのであり、私たちが決然として克服すべきもののはずだ。
そして、それをなすことによってのみ、ニーチェの「悦ばしき知」ではないが、「悦ばしき日本」が私たちの手に再帰してくるはずなのだ。
そういう「再帰的日本」を手にしたときこそ、「日本固有の価値」と見えたものは、「世界普遍価値」へ触手を伸ばし、「価値の再編」への手掛かりを得るはずなのだと、

そう、私は考えている。

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