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2013年12月30日 (月)

問いが提出される……「東方アジアの人々よ、あなた方はこれから本当にどうするつもりなのか」と。

いったいこの国に、「東アジア」が全体として追い詰められつつある、という視点を有している者がどれだけいることだろう。
愚かしいことだが、日本人はこれまで、他のアジア諸国より、優位に立ったと自惚れていた。
その自惚れの根拠は何だったか。
他のアジア諸国より、自由主義的な民主主義において先行し、闊達にして活気ある社会を作り上げたとの自負にあったに相違あるまい。
実態に深入りすれば、それは官僚による統制の行き届いたニセのリアリズムだったとも言えるのだが、相対的に他のアジア諸国より先行した/“進歩”した社会を作り上げたという主観が、国民的自負と経済的好循環につながっていたのは確かだと思われる。
一方で、そのような自負は、他のアジア諸国に対する軽視、更には蔑視を醸成し、「ネトウヨ」などと呼ばれる醜悪な者たちに代表されるような、日本国家にアイデンティファイして威張り散らすしか能のない負の心性をも醸成してきただろう。
だが、日本社会が、いわゆる右肩上がりの経済を維持している限りにおいて、そのような連中には、社会の片隅で“珍走”でも繰り広げては、人々の軽蔑の眼差しの中で悪しきエネルギーを発散してもらっていればそれで良かった。
だが、経済/財政的な行き詰まりと、アジア諸国の発展とにより、我が国の相対的な地位が弱体化するにつれて、だんだんと負の心性が、発言権を増大させるような状況が生じて来た。
こういう現象は、“16世紀以来の先進国”だったヨーロッパ諸国にも見られるものだが、一次・二次の大戦を経たヨーロッパの指導者が、巧みに近親憎悪的な近隣国相互の憎悪感情の発生を抑え、経済共同体という未来志向の試行錯誤を開始したのに比して、日本にあっては、米国との関係もあり、アジア諸国の中で健全なイニシアチブをとることもかなわず、優れたパースペクティブを持つ指導者が一定の層をなすことがなかった。
日本国民は、今世紀に入って新しく成長してきた民主党という政党が、そのような新たな地平を開き得る指導者の層であることを期待したが、期待外れの人々の集合体であることが、政権を取らせたことによってあっという間に暴露された結果、その後の社会の閉塞感はむしろ/それゆえに加速度的に強まることになってしまった。
悪いことに、そうした人為上の閉塞感に加え、自然環境にあっても未曾有の大震災と大津波が発生し、更には口から出任せを平気で口に出来る連中/悪党どもによって作り上げられた安全神話に覆われていた福島の原発が連続爆発を起こすという破滅的事態も生じてしまった。
このような事象が、人々の心理に混乱を与えないわけがないのだが、少なくとも事態を理知的にとらえようとする人々が、それゆえに意気消沈せざるを得ないでいる間隙を縫うようにして、卑屈なくせに居丈高な連中の粗暴な言行が、社会の表層で勢いを増すようになった。
日本がこのような事態に陥る中で、北東・東南アジア地域全般で、どのような状況が生まれつつあるのか。
私は、先日来、「アジア的専制」という概念にどうしてもこだわらざるを得なくなっているのだが、
『日経新聞』という新聞の12/29版の「内外時評」というコラム欄に『世襲政治家の北東アジア』とタイトルされたコラムが掲載された。筆者は、論説委員の飯野克彦という人とのこと。
このコラムでは、「アジア的専制」といった大上段に構える概念は用いていないものの、ジャーナリストらしい事実に即したアジア的な政治現象に焦点を当ててみせている。
筆者は、「太子党」に属するのは中国の習近平のみならず、東アジア全体で、安倍首相、韓国の朴大統領、北朝鮮の金第1書記、フィリピンのアキノ大統領、タイのインラック首相、シンガポールのリー首相らが、事実上の太子党を率いていると指摘し、特に北東アジアでは6ヵ国・地域の3分の2、安倍・習・朴・金の4人の太子党が北東アジアを動かしているという。
そういわれてみれば、まさにその通りだとしか言えまい。
そして、これは実はかなり深刻な事態ではないのか。
筆者は続けて、次のように書く。
『習主席と朴大統領がわりあい仲良くみえるのを除けば、彼らの関係はどれも緊張をはらんでいる。それぞれに根深い背景があるが、4人に共通する一つの心情的な傾向が緊張を増幅している印象は強い。未来思考ではなく過去志向の傾きだ』
『ともに繁栄できるアジアを目指し協力を深めるため国内のナショナリズムを制御するのではなく、ナショナリズムをあおって政権の求心力を高めようとしているようにみえる』
『緊張の高まりは国民の自由への制限を強めたり、軍事費を増やしたりするのに格好の口実ともなっている』と。
そして、結論部分でこう指摘する。
『太子党たちは反目し合うことで実は支え合っているようでもある』
(『』内は引用文)
筆者は、「アジア的専制」という語を用いることを注意深く避けながら、事実上、東北アジアの政治指導者らが「アジア的専制」政体に回帰しようとしていると指摘しているとみなせる。
このような論考を『日経新聞』が発表し得るのは、米国による安倍首相の靖国参拝による「失望」表明を受けてのことだともみなせる。
だが、動機やきっかけはどうあれ、評言が的を射ているか否かという観点からは、「その通りだ」と同意するしかない。
反目し、いがみあっているようで、何か統一の価値観の中に収斂あるいは埋没していくように見える北東アジアの指導者たち。
危険なのは、アジアの外から見れば、互いに意地を張り合いながら、国内を統一の価値観で統治しようと必死になっていることに、当の指導者らが気付いていないであろう点にある。
あろうことか、主人自慢しか能のない奴隷メンタリティのネトウヨ連中は、「失望」表明した米政府のサイトに、「アメリカを見損なっていた」というような趣旨のものを信じられない表現レベルにまで凶暴化/凶悪化したような内容の投稿を繰り返しているらしい。
異常である。
このままだと、アジア全体が、軽んじられ疎まれる可能性があることを、少なくとも北東アジア各国の指導者層は意識しているのかどうか。
「文明の衝突論」者にとっては、ある意味で願ったりかなったりの展開ではないのか。
折しも、同紙の『熱風の日本史』では『マッカーサーを抱きしめて』とタイトルされたコラムの中で、
『マッカーサーは「尊大な態度のほうがアジア人にはかえって、感銘をあたえるという考え方で演技していた」シドニー・メイヤー『マッカーサー』)』
『「マッカーサーは『東洋の精神』は『勝者へのへつらい』になりがちであり、したがって、日本に民主主義が根づくかどうかは、自分の言葉を日本人が信じるかどうかにかかっていると考えていた。事実、最高司令官は偉大であり、それゆえ民主主義も偉大なのだというのが大多数の日本人の反応であった」(ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』)』という冷徹な見方を紹介している。
すなわち、「アジア的専制」は、支配者と被支配者との合作によって表面的には安定することを当時既に見抜かれていたということになる。
それはそうだろう。
「アジア的専制」概念は、ヘーゲルを経てマルクスによって既に分析的に摘出されていたのだから。
「アジア的専制」を現出させてしまうような「アジア的段階」にある民を弁護しようとは思わないが、しかし、一つだけ名誉のために言及しておくとすれば、政治より美学を優先する人々の心性が、政治については「専制的安定」で良しとしてしまう傾向がアジア全般にはあるのだとは言っておこうと思う。
ただ、そうは言っても、彼らの分析的視点が一面の真実を衝いているのは確かなのであり、私たちはアジア人としてそのようにみなされることに屈辱を覚えるべきだろう。
とりわけ、「文明の衝突論者」らに口実を与えることになることは容認しがたい。
「東アジア地域は、専制主義者同士で反目し合わせ、互いに疲弊し没落したところで刈り取ってしまえ」
「文明の衝突論者」なら、そのくらいのことは考えていよう。
そういう、口を開けて待っている大蛇の口の中に自ら意気揚々と入って行くような、滑稽な東アジアの指導者らを、私たちは容認できないはずである。
だから問題は日本一国ではない。
冷徹にして冷酷な者たちに観察され、操作されようとしている地域全体の問題なのだ。
「世界視線」などということには思いも及ばず、国内の統制と地域間の意地の張り合いにばかりかまけていると、そういう傾向/悪弊自体を徹底的に利用されてしまうのが、国際政治の恐ろしさだろう。
歴史的に見て、アジア人が文化的に劣っていたことなど一度たりとしてない。
しかし、目先の近親憎悪型感情にのめり込んだままなら、確実に足元を掬われるのは論をまたないと言うべきだ。
「互恵的戦略関係」、いいじゃないか、それでいけよ、ただし、もっとちゃんとやれよ、なにやってんだ!
私たちは、そう要求していかなければならないはずだ。

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コメント

はじめまして!

記事内容に感銘を受けました。
私も、拙い政治ブログをやっております。
この記事を引用させていただきます。

情報ありがとうございました。

投稿: オオクニヌシ | 2014年1月13日 (月) 09時55分

オオクニヌシ様
コメントありがとうございます。
思考のヒントに少しでもなれば幸いです。

投稿: にいのり | 2014年1月13日 (月) 16時01分

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