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2014年1月 1日 (水)

政治の質を決定するのは、結局、総合的な民度であるという苦い現実

政治的な質を決定するのは、結局、総合的な民度であるというのが現実だ。

「政治的に正しい人々」は、「政治的に正しいこと」を言いさえすれば、人々はだまってついてくると確信しているかのようだ。
しかし、民というものは、彼らの「政治的な正しさ」を証明するために無償で協力してくれるような集団ではない。

それは、苦い現実には相違ないが、民というのは、自らのレベルにマッチするような指導者を抜け目なく選び出すのであり、

もし、「民主主義」を奉じるのなら、民とは、そのようなものであることを前提とした上での、努力と工夫とが欠かせないはずだろう。

私は、個人的にいわゆるプラグマティズムが大嫌いだし、例えば、小泉純一郎のようなタイプの政治家は大嫌いだ。

だが、原発反対を唱えるにあたって小泉がおおよそ次のように語ったということをどこかで読み、
彼は、政治的に勝利を獲得するために、何を/誰をターゲットにすれば良いのかやはりよく分かっているのだなと感心した覚えがある。

あまり正確ではないかも知れないが、彼は大体次のようなことを言っていたようだ。

「原発について、仮に30%は再稼働賛成だと。20%が反対だと。そのまま数字が動かなければ反対派の方が負けるに決まっている。だが、こういう問題はいつでもどっちつかずの奴らが残り50%はいるんだ。オレは、賛成派の30%を説得することは出来ないにしても、どっちつかずのやつらの6割を反対派になるよう説得することは出来ると思っている。そうすれば、反対派が勝てるんだ」

その中間派の6割を引き込むのに、虚言をもってするか、正攻法で行くか、データ重視か、情緒重視かなど、そこで政治家の本来の力量が問われるのだろうが、
どこに説得の焦点をおくかという点については、実に分かりやすい言い方をしている。

いわゆる自分の「政治的な正しさ」に自信のある、特にオールド左翼に多いのは、「私の政治的に正しい言葉に説得されない人は、悪かバカかそのどちらかだ」という風情で、誰をいかにして説得するかという肝心な努力をろくすっぽしないで平然としているような“党派型”の人物だ。
どっちつかずで迷っているいる肝心な人たちを前にしても、「今、私の正しさに賛同できない者、君たちはどうせ悪がバカに違いない」と、説得の努力をする前から平気で排除してしまう。

それで選挙なんかに勝てるはずもないのに、彼らは選挙民を「私の政治的な正しさを証明するための道具」程度にみなして恥じる様子がない。

世論調査の数字が正確かどうか疑わしき部分があるにせよ、
今、日本で安倍政権を消極的にでも支持している人を合わせれば、5割ぐらいにはなるんだろう。
そういう情勢の中で、「安倍は危険だ、軍国主義者だ!安倍を支持する奴はみんなバカか悪魔だ」と叫んだら、どうだろう。あまり深い考えなんてないし、政治なんかに興味はないし、だから「ホントはどっちでもいいんだけど、まぁとりあえず安倍に期待しておこうかな」と思っていたような“普通の”国民の心をも傷つけてしまうのである。
本来なら彼らこそ、最も力を入れて説得すべき対象なのに。

対立することだけが目的化している、自分の政治的“正しさ”を証明することだけが目的化していると揶揄されても、そんなザマではいたしかたがないのではないか。

同じことは、実は、安倍にも言える。
安倍は、「靖国を参拝したからといって、中国や韓国の人々を傷つけるつもりは毛頭ない」という。
それが仮に本心から発せられた言葉だとしても、著しく説得力に欠いていることは論をまたない。

こうしてみると、総じて言えることは、私たちは、右も右なら左も左で、誰をターゲットにしてどんな説得を試みるかという「説得の術」において、あまりに稚拙なレベルにあるということだろう。

私は冒頭で、「政治的な質を決定するのは、結局、総合的な民度であるというのが現実だ」と記したが、右にせよ左にせよ、私たちの指導者が、この程度のレベルで停滞しているのは、私たちの民度がその程度だからなのだとみなすよりほかない。

実際、年末のテレビというものを見ることもなしに見ていれば、私たちの民度というものは、大体推し量られてしまう。
もちろん、やたらと生真面目で重苦しいことばかりをやれ、というのではない。
しかし、全体として「逃げてはならないものから逃げよう」「見なくてはならないものを見ないようにしよう」「考えなくてはいけないことを考えないようにしよう」という動機が、あからさまに前面に押し出された番組群に接し続ければ、
「鶏と玉子」の問題はあるとはいえ、
「この程度の私たちだから、あの程度の指導者」
「あの程度の指導者の支配に甘んじているから、いつまで経ってもこの程度の私たち」
ということを嫌気がさすほどまで承認しないわけにはいかなくなる。

もうやめるべき『紅白歌合戦』などというものを、意地になっているかのようにやり続ける私たちの公共放送。
新しいアイデアに基づいて勇気をもって刷新すべきなのに、ノーアイデアゆえにまるで刷新できそうにもないという点において、
我が国のエネルギー政策という点においても、
安全保障問題という点においても、
年末の公共放送に相応しい番組という点においても、
完全に全ては同型の構造にすっぽりおさまってしまうのであり、
何が何でも「前例を踏襲しよう」という無駄な努力、ムダなアガキが、
ますます事態を畸型化し不随意化してゆくのだ。
なんという無駄の重畳なのだろう。
このような事態に驚きの目を見張らずに済む感性の住人、国民が、これからも多数派を占めていくなら、
残念ながら私たちは、このまま退嬰していくことになる。

それがいやなら、たとえ自己流過ぎてバカにされようとも、従前のやり方を無自覚に踏襲しない説得のあり方というものに、工夫を重ねていくしかないのではないか。

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