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2014年1月 2日 (木)

私たちが今、真剣に「テーマ」とし、議論すべきことは、本当のところ何なのだろうか?

樋口陽一(憲法学)が登場し、安倍政権の評価を語っている新春用インタビュー記事があると知り、読んでみた。
中に次のようなフレーズがあり、ハッとさせられた。
『どんな日本社会を構想するのか、国民の側から提起する必要がある。
安倍政権は、経済的な「お金の自由」については規制を緩め、「心の自由」に関しては、国民ならこう考えるべきだと規制を強めている。だが逆に、マネーの暴走は規制し、自由な議論はできる限り規制を小さくしていくという考え方もある。
……後者のような考え方を旗印にする大きな政治勢力はない。』
(『』内は引用文)

現代日本に浮上してきている喫緊の課題について、これだけ平明な言葉でズバリ指摘できる力量はさすがだと言うしかない。プロフェッショナルにより吟味された言葉の持つ力は、やはり並大抵のものではない。
私たちを悩ませている最大の問題は、「オールド左右」の主張するような問題設定の中には全くありはしないのだということが、このような平明な言葉による指摘によってたちどころに明晰化する。
私たち、とりわけ先進国になったと自惚れていた国の国民を悩ませている最大の問題は、「自由」を巡る深刻な不整合(自由をめぐる差異線)なのであり、
「貨幣経済」と「自己利益」のことしか語れない低劣な「経済学」とやらが蔓延することにより、「お金の自由」と「心の自由」が「自由」という概念の中で、深刻な不整合をきたしてしまった点に見いだせるはずだ。
にもかかわらず、私たち日本人の思考の枠組みをとらえているのは、未だにいかにも「冷戦的」であり、それゆえ「オールド左右」がわめき散らす「冷戦的思考の枠組み」の中にいとも簡単に拉致されがちなのである。
だが、少なくとも自己生成的な近代を生み出した地域における議論は、この「二つの自由」をめぐる深刻で微妙な問題の解決に中心を移しており、一方いまだに「冷戦思考」を引きずっている日本を含む北東アジア諸国は、停滞の象徴である「アジア的専制」に活路を見出だそうとしているかのような有り様である。
これは、ある意味で屈辱的な事態だろう。なぜなら、北東アジアのどの国も、良い意味で世界のイニシアチブをとることがいましばらくは不可能であることを示して余りあるのだから。
しかも、厄介なのは、「経済」とは目に見えやすいものであるがゆえに、“遅れた”北東アジア諸国(含む日本)では、「マネーの自由」を極大化しようとする勢力の攻勢に拮抗し得るだけの言論なり理論なりを構築し得ず、むしろ、「アジア的専制」を維持するために「マネーの自由」が内包するパワーに依存して、互いに反目し合いながら墓穴を掘ろうとする為政者ばかりが幅をきかしているような始末なのである。
これが、広い意味における「自由」をア・プリオリのものとしている人々から見れば、訳の分からぬアナクロニズムに見えるのはあまりにも当然だと言わなければならない。
特に、近代を通じて、(古い)アジアから差異化されたような自意識を形成してきた私たち日本人の、その定常思考は未だに常に/十分に“アジア的”なのであって、しかも、悪いことに冷戦思考の枠組みから抜けきっていないことにもまるで自覚的ではない。
そのような自覚なしに鼻先のニンジンを誰が手にするかでいかに“熟議”しようとも、政治的/社会的な分野で生産的な議論が立ち上がるはずもない。
“世界”を相手にする企業体の中には、開明的な人物もいるやも知れないが、彼は企業体に所属する限りにおいて「マネーの自由」勢力側にくみしざるを得ない。それは、“情報コングロマリット”に所属する恥ずかしい人々にとっても事情は同じだろう。
こう考えてくると、「自由」をめぐる差異線に自覚的な「マインドの自由派」は、劣性を強いられざるを得ない気もしてくる。
だが、本当にそうか。
例えば、私たちは、「一生マネーには困らない生活を送りたいものだ」と確かに普通に思ってはいるが、だからといって「自分だけが大儲け出来ればいいんであって、他の奴らがどんなに困ろうとどうしようと知ったこっちゃない」と心底から思っているだろうか。
そんなふうに思っている人は、いたとしても少数派に過ぎまい。
実のところ、現在の「マネーの自由派」とは、そう考えることに、あまりためらいを覚えないような人々らしいのだが、そのような考えを持つ人々の作った理論めかしたものに、率先して言いくるめられなければならない動機など、私たちには希薄なはずではなかったろうか。
かつて「マネーの(節度ある)自由化」が、どうして重要だったのかを今さらながらに思い出す必要が私たちにはありそうだ。
権力の独占体、強力な政体が、「富を独占」し、「独占した富を維持」し続けるために、民衆の「自由」を恣意的に制限するのを阻止するための手段として、「マネーの(節度ある)自由化」が必要とされたはずだった。
そして、その段階においては、「マネーの自由化」と「マインドの自由化」は、表裏一体のものであり、相乗的なものだったはずだ。
「自由」は、「マネーの自由」と「マインドの自由」を一般国民(当時はブルジョア)が自ら勝ち取ることによって、アンシャン・レジームから獲得されたもののはずだった。
一方で、ブルジョア革命を超える完全に「平等な社会」を実現すると公約したはずの“共産主義”政体が、無惨な失敗に終わったのは、強力な権力を掌握した政体が、「マネーの配分を独占」し、おまけに「マインドの自由」を徹底的に制限してしまったからにちがいない。
たとえ、どれほど目標それ自体は高邁だろうと、そういうことをしてしまえば、社会全体が意気消沈してしまうことを、私たちは彼らの経験を通して十二分に識ったのだった。
けれども、その反動ゆえか、戦後になって大量の「マネー」を握った者たちが、そのまま富み続けられるようにするための「政治的スローガン」として、とりわけ「冷戦」の終結以降、「マネーの自由化」すなわち「金融の規制緩和」とやらが夥しい広告宣伝とともに喧伝されるようになってしまった。
これはだが、「欺瞞」であり「詐術」である、と少なくとも私は思う。
そして、これを「詐術」であり「欺瞞」であるから目を覚ました方が良いと人々に呼び掛け得る「言論の自由/マインドの自由」が、「マネーの自由派」には邪(よこしま)なものとしてみなされ始めたのである。
ここにおいて、「マインドの自由」と「マネーの自由」は「自由」という大枠の概念の内部で深刻な齟齬をきたすようになったということだ。
あちらを立てれば、こちらが立たずという状態。
この状態で、では、いかにも無理をしているのはどちらなのか。「自由」を求めながら、自分の首を締めるようなことをしているのはどちらなのか。
中世ヨーロッパには、周囲を城壁で囲んだ要塞都市というものが存在した。
そんな中世社会と同じような「新しい(野蛮な)中世社会」が今や出現しつつあるようだ。
要塞邸宅、要塞マンションに住んで身を固め、運転手付きの要塞カー(笑)で移動し、要塞会社で働き、要塞リゾート(笑)でくつろぎ、要塞ベッド(笑)で今日もナイトメアに怯えながら惰眠だか愚眠だかを貪る(嘲笑)。
それがどうやら「マネーの自由派」が広告代理店の全面的な協力を得て一押しする「新しい野蛮」「ブランニュー中世社会」のライフスタイルらしい。とんでもないことになってきたものだ。……

さて、一方で、一見、古めかしい「アジア的専制」国家のように見えて、その実、目のさめるような新鮮な概念を打ち出したアジアの小国があることを、私たちは忘れたくない。
「国民総幸福量(GNH)」のブータンである。
「幸福」という人間の内面に関わる事柄について、国家が介入すること、介入とは言えないまでも「量」として適正に掌握することが出来るか否かという懸念は、当然生じるだろう。とりわけ「マインドの自由派」にとっては、過敏にならざるを得ない面もある。
だが「国民総生産(GNP)」なる指標が大手をふるい、やれ勝った負けたの、働きが足りないのといってケツを叩かれる社会と比べてどちらが安心して暮らしやすいかは十分考慮の余地があるはずだ。
もちろん、私たちのように生まれた時から物質社会にどっぷり浸かって来てしまった人間は、ブータンに行って幸福感を得られるかと言えば、それは無理だろう。
だが、面白おかしい文明の利器を持たされて、個人情報(プライバシー)なんてものは、自らの与り知らないところでことごとく掌握され、「ハイ、アイツは不満レベル7だ、危ないねぇ」「こいつは不満レベル10を越えて反逆レベル1になったから、監視レベルを上げるか」などと、1%の安全確保のために奇妙な仕事に携わっている人たちに勝手に話題にされていたり、「あなたは変態レベル3だからこんなAVはいかが?」と勝手に怪しい業者から広告がもたらされてしまうような“進んだ”社会が、これ以上“進化”したところで、それが幸福に接続する回路を形成するとは、とても思えない。
「マネーの自由度」を高めるために、他人には知らせたくない個人の趣味嗜好から、購買意欲、購買能力まで掌握されて、自らの「自由なマインド」だと思っているものが、実は常時、間接的あるいは遠隔的に「コントロール」されているような社会に住む“快適さ”が、私たちの求めていた「自由」の姿だと本当に言えるのかどうか。
「二つの自由」が差異線などという段階を越えて、亀裂としていよいよ私たちの視界に入り始めたのは、世俗政治からは遠ざけられながら、人々のマインドに今も大きな影響力を保持するローマ・カトリックが、「マネーの暴走をこれ以上許してはならない」旨のメッセージを発したことにより、決定的になったと言えるのではないか。
今こそ、「マインドの自由」を確保するために、「規制」などという負のイメージではない、人間の安全を保障する「法」を、立ち上がらせる工夫が必要なのではないのか。
このような状況に相応しい、民衆のため・国民のための「立法」に成功する国、そのような国だけが、次の「段階」に進む権利を手にするはずだ……私にはそのように思えてならない。
そして、まがりなりにも民主国家であるならば、そのような「立法」が可能な「国会・国民の議会」を現出させるべきなのだ、私たち自身の手によって。

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