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2014年1月26日 (日)

つまらぬ意地の張り合いはつまらぬものです。

いっときは、〈小沢一郎〉という理念の旗の下に集まり、共闘できるはずだった人たちが、今「小異」にさかしらになる余り、「大異」ある者たちに“共同”で立ち向かおうとしない状況が生じる気配があるのは残念な事です。
これは、その当時ほど野蛮な形ではありませんが、「新左翼」が撤退戦を強いられる中で「内ゲバ」を始めた時の状況に酷似していますね。
(一時的な撤退から反撃を期する場合は、撤退戦こそ仲間割れは厳禁であることぐらいの知識を予め取得しておきましょう。)
「小異」間の亀裂を煽る者たちには、もう一度冷静になっていただきたいものです。
私も「新自由主義」には反対をしておりますが、「経済特区」なるものと「原発問題」とを等価の問題であるかのように語る(騙る)方がいるのですが、穏当に言っても論理展開に無理がありますね。
「経済特区」なるものは、十分コントローラブルなものであり、経済活動とは全て人間活動である限りにおいて、人間の意思次第でどうにでもなるものです。
しかしながら、「核反応」というものは、いざとなれば人間の意思の「外部」にある事象なのだということを痛烈に思い知らされたのが、今度の原発事故なのでした。
ですから、そうした現に生起した事実に立脚する認識に基づき、反原発を政策の第一に掲げるのは、新自由主義者であろうが共産主義者であろうが、理路の整ったものであり、要するにちゃちなイデオロギーを超越した「人間の安全保障」に基づく認識であることを認めるべきでしょう。
このことを、脱原発によって未来を構想しようと思う私たちは、前提的な合意事項とするべきではないでしょうか。
「原発推進派」というのは、もはや理屈の通る人々ではなく、事故以前も「絶対安全」と唱えていたのはもとより、事故後も安全基準をいじくれば「絶対安全」だと空騒ぎをしているのみで、現に福島で起きていることについては見て見ぬ振りをするばかりです。
一度、彼らの言い分に良く耳を傾けてみましょう。
彼らの事故以前の「安全保証」と以後の「安全保証」の間には何か質的な差異があるでしょうか。一切、ないではありませんか。そこを等閑視すべきではありません。
このような者たちに人心が惑わされる方がはるかに由々しき事態ではありませんか。
原発推進派というのは、例えば、リベラリズムの系譜とその分岐をどのように解釈していくか、とか、リバタリアニズムとコミュニタリアニズムとの間に通路を開き得るか、開けるとしたらどのような形か、といった「議論」の可能な集団ではありません。
彼らは、「核反応」という科学的・物理的事象に関与しているため、科学的な思考が出来る人々のように私たちは錯覚しがちなのですが、べつに彼らが「核反応」というものを発見したわけでもなし、彼らを突き動かしているものは、信仰に近い情念と目先の利得でしかないと重々承知しておくべきでしょう。
しかしながら、そうとはいえ、原発推進派は、反対派が敗北した途端、「民意の承認を得た」というポピュリズム用語によって、再稼働に向けて早々に動き出すに決まっています。
原発は一旦再稼働してしまえば、容易に停止できるものではないのは間違いありません。そして、その停止には、国のエネルギー基本政策を覆すだけの大義が必要とされるはずです。その大義の一つになり得る破局的事故が再度発生すれば、その時は日本が終了する時だとみなすほかありません。
「経済特区」なるものとは、規模が全く異なるものであることを理解した上で立論するならしていただきたいものですし、それ以前に「小異」をさかしらに言い立てる時の自らの感情的な高揚を一度鎮静化させて、冷静に事態に対峙すべきでしょう。

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