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2014年1月 6日 (月)

2014年新春、日本のマスメディア内に流通する諸外国識者の発言について その1

『日本経済新聞』という新聞の1/5日曜版に、今、もっとも論争喚起的な存在といえるかも知れない仏歴史人口学者のエマニュエル・トッドが登場している。
インタビュー記事なので即興的な受け答えの部分もあるのだろうが、一読した限りは、現在のフランスの知識人一般が置かれた難しい立場を代弁しているように受け止められた。
インタビューの中で、この人が率直にプラス評価を与えているのは、次の3点だ。
(『』内は、記事からの引用文)
①(米・イラン間の)『イラン核開発問題を巡る協議の合意は大きな転換点……戦争や暴発的な紛争のリスクはゼロ近くにまで低下した』
②『最近の日本とロシアの接近は非常に好ましい』
③『私は欧州の中道左派に属する人間だが、右派の自民党政権が進めるアベノミクスは支持する。一般国民の幸福を目指す態度が潜在的に込められているからだ』

勝手な個人的感想を記すなら、
①にはほとんど同意。
②については、果たして「接近」と呼んで良いものかどうか疑問。
③は、どこまで日本の実情を知りながら発言しているのかという点で大きな疑問符がつく。
逆に、欧州の内情に詳しくない私などからすれば、トッド氏の著作である『帝国以後』から若干変化している様子の彼のドイツに対する不満に納得できない点がある。
EUが当初の想定を越えて多くの問題を抱えているのは素人目にも分かるのは確かなのだが、仮にユーロはやはり失敗だったで終わらせてしまうなら、人類の未来志向の実験が、また一つ潰えることになるのであり、それは当然ASEAN構想等にも波及してくるだろう。
TPPのように(当初は、重層性を視野に入れた弱者連合の貿易協定だったはずの構想に、横から超大国が割り込んできたような)域内の歴史的/文化的背景も国力も余りにもかけ離れた諸国が、急進的な自由貿易圏を作るという話と、慎重かつ漸進的に進められてきたEC→EUの構想というのはかなり次元を異とする話だったのではなかったろうか。
今、世界の均衡ある多極化に向けた構想が、管理者/官僚または強国側のエゴと地域エゴとの衝突によってあっけなくもご破算に帰するなら、『帝国以後』から再び「群雄割拠」の時代が蘇るしかないのではないか。
ドイツの一人勝ち的な状況にフランス人として不快を覚えるのは良く分かることは分かるのだが、一方で、フランスの責任ある知識人としては、サルコジという(私から見れば)胡散臭い人物に大統領職を委ねていた一時期のフランスとは何だったのか、その辺の事情も聞きたくなるというものだ。
トッド氏が(若干無責任な立場から)アベノミクスを評価するように、(同じく若干無責任な立場から)ユーロ圏を眺めれば、圏内の不均衡は、外側からは一国内の「中央と地方」問題と同等のものにもはや見えるのであり、それはそれで非常に深刻なものではあろうが、だが、それは共同体内部で解決すべき問題であり、「自由貿易」の問題とは異なるのではないかと言いたくなる。
トッド氏の分析で、最も的確と思われるのは、中国についてのものだ。
彼は次のように指摘する。
(中国は)『内陸部と沿岸部の間ですさまじい不平等が広がっており、経済発展は輸出と外国からの資本流入に支えられている。中国は世界のワークショップ(工場)で、国の行方を決めるのは国内の特権階級と西側の資本家だ。』
まさに、その通りだと思われるが、中国国内の凄まじい格差拡大とEU内の格差拡大とは、同根の問題に見えるのだし、モザイク模様だとしても米国も同様なら、もちろん、日本や韓国なども同様の問題を抱えている言える。タイの国論が二分するのも同様の問題が背景にあるからだろう。
更に、世界的にみれば、イスラム圏が、産業社会から取り残されている、あるいは締め出されているように見えるのも同根の問題であり、
最終的には、極端に発展する地域/部門と、見放され取り残される地域/部門との乖離を、そのまま放置するような思想を内在させた新自由主義、いわゆるグローバル金融資本主義の問題に行き着くしかないと思われる。
ここに根本的なメスが入らない限り、EU圏内の格差拡大はもとより米国国内も中国国内も、日本も韓国もどこもかしこも、破産して荒廃したデトロイトの地に(国家になぜか不当に援助された)ピカピカのGM本社がそびえ立っているのと同じグロテスクな光景が(EUの“中央”と“地方”のような広大な範囲に及ぶか、デトロイトのように一枚の写真の中に収まるか、様々なバリエーションはあるとしても)今後もいたるところに出現することになるにちがいない。
こう書いて来てみると、私はどうやらエマニュエル・トッドの言い分全般にあまり賛成してはいないようだ。
彼は中国についてこんなことも言っている。
『中国は精神面では1900年の欧州に近い。急速な経済成長と並行して伝統的な宗教、ここでは共産主義の崩壊も進んでいる。相手を過度に刺激し非常に国家主義的な態度をとる傾向がある。日本と米国が緊密に協力すれば問題はない。中国の軍事力を恐れるのはばかげている』
中国評価としてほぼ的確ではないかと思う。
だが、それ以上に、東アジア諸国評価として的確だと言うべきだろう。
東アジアでは、相変わらず1900年の欧州に近い、いがみ合いの感情がとりわけ指導者間でくすぶっているようだ。
トッドは「日本と米国が緊密に協力すれば問題はない」というが、遠い欧州からやってきた無責任な知識人の放言に近くなっている。
米国が中東から手を引くのは、シェールガス革命により(それがいつまで続くのかは知らないが)中東には儲けのネタが少なくなってきたからではないのだろうか。
それに比して、東アジアには、膨大な金融資産・産業インフラを持つ日本、巨大な工場及び消費地として存在する中国、向学心の強い国民と先端分野の工場を有する韓国や、東アジアの不安定要因を“安定的に”維持してくれる北朝鮮等がある。
米国の「アジア重視」とは、だから中東より東アジアの方が“おいしそう”ということに他なるまい。東アジア諸国が、相互に反目しあいながら、局面局面でアメリカをあてにしてくれることほど“おいしい話”はそうそうないはずだ。
そのような米国の魂胆も視野に入れれば、「日本と米国が緊密に協力すれば」などという楽観的なことはとても言っていられないのが実状だ。
こうしてみると、米国を含む東アジアの中で微妙な位置に立つ日本の苦境は、EUの中でかつての栄光を取り戻せそうもない困難な位置に立つフランスには理解しにくい面があり、その逆もまた然りというほかないのかも知れない。
ただし、安倍のようなやり方はいずれにしても最悪だということは間違いない。
安倍のようなやり方は、他の東アジア諸国のみならず、米国にも、要らぬ「口実」を与える幼稚なやり方でしかない。
東アジア諸国には、「そら見ろ、日本にはまだファシストがたくさん残っているのだから、我々は警戒せざるを得ず、それに対する防衛措置、対抗措置としてこのような政策をとるのだ」という口実を。
米国には、「せっかく我々が日本に加担してやっているのに何をしでかすのか。仕方がない、我が国が東アジアの緊張緩和に動いてやるから、その代わりそれなりの報酬を差し出せ」という口実を。もちろん、ロシアもそういう役割をしたくてちょっかいをしに乗り出してくる。
安倍のようなやり方が、どれだけ日本の国益を毀損するのか、もはや計り知れないレベルにあるというべきだ。
あのような公と私の区別もつかない幼稚にして無定見な男を首相などにいただいていたなら、最も迷惑をこうむるのは、安倍とその取り巻き以外の大多数の日本国民に他ならない。
にもかかわらず、一部のおかしな日本のメディアは、怪しげな世論調査を乱発して、「日本国民の多くが安倍の靖国参拝を支持している」などと叫び出している。ちょっと、頭がおかしいのではないか。
もちろん、「信教の自由」は尊重されなければならないし、各地域、各民族、各個人にある信仰心というものに対する敬意、畏敬の念は失われてはならないものだろうが、そうとはいえ、異教徒の信仰心がいかに篤かろうと、他の異教徒にとってはそんなことは知ったことではないのもまた事実だろう。
そこが「信教・信仰」の難しさで、実際問題として、イスラムの信仰篤き人々がどのような目にあっているか、誰もが知らないわけではあるまい。
逆にだからこそ、まがりなりにも「近代主義」は、宗教上の違いを止揚したところで成立する(世俗的・法的・制度的)価値観の共有を問題にする。「信教の自由」を保障する代わりに「政教の分離」を原則とする。
それは、ひらたく言えば、「神」の名を政治的な措置・命令に用いてはならないということであり、一方で「神」を持ち出すことで何か政治的な言い訳をしてはならないということでもあろう。
そういう大前提を簡単に反故にしておいて、「靖国参拝について日本の世論はこうだ!」などと妙な数字をしたり顔で出してきたところで、「あなた方の信仰に深入りするつもりはないが、近代政治の価値観を共有できないのなら、それなりの対処をさせてもらう」となるのが自明であり、これまた相手に口実を与えてしまうだけなのである。
「近代の原則」「民主主義の原則」について、まったく無知・無教養にして幼稚かつ粗野で野蛮な連中が、「靖国には普通の日本人もたくさんたくさん参拝するんだ!」などと泣きわめいても、「いや、メッカにはそれをはるかに上回るムスリムが巡礼するよね。ムスリム一般の篤い信仰心をないがしろにはしないが、そのこととイスラム原理主義に基づく政治的動きとは別だろう。安倍周辺が疑われているのは、それと同じことだ」と言われてお仕舞いなのだ。


「何で?何で?何で、ボクのことを理解してくれないの?ボクのこの気持ちが理解できないキミの方がおかしいんだ!」
そう言いながら泣きわめく薄気味の悪いストーカー男と日本の一部メディアは変わりがなくなって来ている。
ちょっと、頭がおかしいのではないだろうか?
せいぜい、逆恨みを始めないうちに早く冷静になるべきだろう。

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