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2014年3月12日 (水)

原発事故を受けて政府・国会・民間でご丁寧にも設けた「原発事故調査委員会」とは、誰のため、何のためにあったのか。

東日本大震災から3年目、「日本記者クラブ」では、まがりなりにも政府・国会・民間の「原発事故調」の委員長を務めた3名の人物に、米国の原子力規制委員会の委員長を務めたグレゴリー・ヤツコ氏を加えた討論会が開催されたとのこと。
福島原発事故発生以来、3年を経て、事故の内情を誰よりも詳しく知っているはずの専門家らが、現状を踏まえてどのような考えを抱いているのかという点において、日本で数多開催される諸会議の中でも、超の字がつくほどの最重要会議であったことは間違いない。
なぜ、我が国の政府が率先してこのような機会を設けず、悪評ふんぷんたる「記者クラブ」が主催したのか、詳細は不明だが、現行の日本政府の無責任振りを象徴する出来事であることを、まずは指摘しておきたい。
また、政府からは建前上独立していることになっている「原子力規制委員会」なるものは、こういう重要会議における意見なり提言を参考にするつもりがあるのかないのか、あるとすれば具体的にどのように、ないとすればそれはなぜか、会議を主催した「日本記者クラブ」は、そこまで責任をもって調査、報道すべきである。
「原発事故調査委員会」なるものが、単なる国民向けのガス抜き組織だったなら、一時的にはどんな立派な事でも言えるのであり、一方で法的権限はなくとも、少なくともなぁなぁで行われている首相の私的諮問会議の類いよりは、真っ当で切迫した議論が行われていたはずであり、調査報告書提出から現在にいたる現状を踏まえてなされた元委員長らの発言は、社会的・政治的に無視されて良いはずがない。
(もちろん、わざわざこんなことを言うのは、我が無責任政府及び無能規制委員会は、見事に無視してみせるだろうことを見越しているがゆえになのだが。)

ともかくも、まずは、討論会における各元委員長の重要発言を抜粋したものが配信されているので、引用させていただく。

(引用開始・敬称略)
畑村洋太郎(元政府事故調委員長)
「世界で一番厳しい基準になったから安全だというのは間違い」
「どんなに考えても気づかない領域があることを知ることだ」

黒川清(元国会事故調委員長)
「すべて他人事となっていた。誰も責任を取らない」
「あれだけの事故が起きても日本の社会が変わる気配がない」

北沢宏一(元民間事故調委員長)
「稼働中の原発がゼロなのは国民の総意としか言いようがない」
「原子力ムラが再び復活するのか注目される」

グレゴリー・ヤツコ(元米原子力規制委員会委員長)
「原子力は100%安全はあり得ない」
「社会としてメリットをどう考えるか。リスクがあっても受け入れられるかがポイント」
(引用終了)

それぞれが現状について、かなり悲観的であり、また、名指しこそしていないが、日本政府及び原子力規制委員会に対して相当な批判的言辞を口にしていると言って良いだろう。
まず、畑村は、「世界一厳しい基準になったから安全だというのは間違い」と、安倍政権の再稼働方針及び原子力規制委員会の立場を真っ向から否定していると言って良い。
この人は、まがりなりにも日本政府の原発事故調査委員会の委員長を務めた人物である。
その元委員長が、「安全」に関する「思想」が誤っていると断言している。これに対して現行政府はどう考えるのか、説明責任・説明義務があるはずだ。
ヤツコの発言も同趣旨のものと言えるだろう。要するに「安全ではないもの」に「安全」というお墨付きを与えるのは欺瞞だと言っていることになる。「リスクを背負うつもりがあるのかないのか、それだけが問題だ」ということだろう。
黒川は、責任を未だに誰も取っていないことを、まずは問題視している。これも、あらゆる常識から見て当然の意見ではなかろうか。
いったい東電の元会長だの元社長だのは、今どこに姿をくらましているのだろう。少なくとも現役であることの重責から解放された立場で今何を思うのか、肉声を取ってくるのはジャーナリズムの最低限の役目ではなかろうか。
「日本社会が変わる気配がない」というのも誠に率直な意見であり、相変わらず「リスク」の存在を無視する形で「安全」を語る政府や規制委員会が厳然と存在するがゆえに、事故前と事故後に日本社会の原発に対するスタンスが変わらない、変え得ないのはある意味当然であり、これは日本の官僚文化が前例踏襲主義と無謬主義を未だに改めるつもりがない事を物語っている。
北沢の発言は、日本国民の大多数が「原発のリスクというものをけっして容認してはいないだろう」という主観的推測を述べていることになるが、政府・官僚が、「世界一厳しい安全審査をクリアしさえすれば、原発は安全に稼働させることが可能だ」という小学生でも苦笑するような幼稚なロジックを、暴力的な無謬主義で糊塗することによって手離そうとしていない限り、「原子力ムラ」など「復活する」も何も解体された事実はないと言っても良いだろう。

日本社会に蔓延して、とどまることのないように見える「無責任社会」は、いかに重要な議論なり提言がなされても、また、どんなに重要で重大な事象が生起しても、「無視する、なかったことにする」ことによって維持されていることが良く分かる。
「不都合な真実」も「不都合な事実」も、暴力的に「ないもの」としてしまえば、なるほど「無謬主義」なる主義という語尾をつけるのもおこがましいような幼児性の思い込み、幼稚な万能感も、なるほど維持されるにはちがいない。
だが、このような“主義”によって、こともあろうに我が国が、北朝鮮と同等の「笑うためのネタ国家」に今やなっていることに気付いていないのは、官僚や安倍政権の閣僚ら、少数の“特殊な無能”に限られてきている。
彼らは、哀れなことに国民に情報のベールをかけているつもりらしいのだが、聡明な国民にとっては、そんなものは「ないことになっている」というか「相手にしていない」。
それが分からないのが、アナクロ中央集権国家を未だに維持しているつもりになっている、最後は暴力に頼るしかない惨めで無能な連中なのである。

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